01 記憶
夕焼けで真っ赤に染まった空に山が黒く見えた。
ぎざぎざと尖った杉の山は、太陽を切り裂いて、内臓をぶちまけたように思えた。それは何度となく繰り返す三年前の記憶のせいだ。
あの時、暗い闇の中で両親に手を引かれて歩いていた。
父がそんなことをするのは珍しいが、何かいいことがあったのだろう。
すぐ脇を流れる水路の水音がちょろちょろと聞こえていた。月は雲に隠れて見えないが、春の陽気は夜まで残って心地よい広がりを感じていた。
町から離れて、柳の木の傍に通りかかった時、背後に何か音がして首だけで振り返った。
遠くに提灯の明かりがぼんやりと見えた。闇に霞んでいた。
突然に両親の手がふっと軽くなった。そのあと急に両親ともに前へつんのめったようで、僕は肩から引かれて倒れそうになった。
両親の手には力もなくて、すっと闇の奥に離れて行った。僕は倒れまいと右足を前に踏ん張った。その場に留まった。自分の足袋がいやに白く見えた。
ざさり、と二人が土に倒れる音がした。
僕が足元から顔を上げると、腹を切り裂かれ臓物をはみ出させた両親がそこに倒れていた。息はあって、こちらを目玉だけで見ていた。
「ぐあぇあ……」
父の声にならない声が聞こえた。
「ぁぁぅ……」
母のかすれた息が途切れ途切れに聞こえてきた。
僕は何が起きたのか全く分からなかった。
ぐゅうるぅう
目の前の闇から口と舌とが動く音がした。
目を凝らすと、そこには黒い何かがいた。人間の形で父より一回りも大きかった。
頭には鈍色の太い髪が闇の中でぎゅるぎゅると巻いていた。その髪束の間から赤い点がこちらを覗いていた。それと目が合うと、僕の瞳は自然と大きく見開かれ、その形で世界に固定された。体も何もかもが動かなくなった。
化け物は倒れた両親の間を通り抜け、こちらに歩を進めて来た。ゆっくりとした足取りで優雅ですらあった。僕はそれが他人事に思えた。
月明りもない夜のことだが、それでも化け物の肩は筋肉に盛り上がって、体中が引き締まり、神経がぴんぴんと通っているのがわかった。動き一つ一つに意味があるかのようだった。
僕はただ腹を切り裂かれた両親が、近づいてくる化け物の陰に隠れて見えなくなったということだけが、頭に浮かぶようだった。
ふっと化け物の背後に何かが煌めいた。
父が立ち上がり刀を上段に構えたのだ。父はそのまま刀を振り下ろした。
腹に横一文字の穴が開いて、踏み込みは甘くなった。力は入らないらしかった。その一撃は化け物の膨れ上がった筋肉に弾かれた。
父は苦悶の表情の中に驚愕の念も滲ませた。
「ぐうぁぁ」
今の一振りで体は捩れて父の傷が広がった。着物に付いた血が闇の中に黒より黒かった。
弾かれた刀は父の手から零れ落ちた。
化け物が父の方へ向き直った。軽く息を吐いたあと、すっと息を止めた。その瞬間、素早い動きで踏み込むと、どっんと音がした。地面が化け物の足指の形に抉れていた。
化け物は父の方へ飛びかかった。頭がばっと首まで切り開かれて無数の牙が見えた。
ごりっ、と鈍い音がした。
父の頭はなくなっていた。
意思の消えた父の体が真っすぐ後ろへ倒れた。胸から上は裂けるような傷跡だけ残して消え去っていた。
母は目の前に倒れて来た父を見て何かうめき声をあげた。そして、意識をなくしたようだ。
そのとき、僕の目の端に煌めくものが見えた。父の脇差だった。
柄は父の血に濡れていた。父が喰われる寸前に最後の力で僕に投げてよこしたのだ。
熱いものが僕の中に湧き起こって来た。これを気持ちなどと簡単に分類して言うことはできない。ただただ爆発させなければいけないということははっきりしていた。
「はぁああああああ」
僕は大声を出した。体が少し動くようになった。
ぎこちなくしゃがんで脇差を手に取った。腰が定まらず、肩から震えて指先も固まっていた。それでも脇差を正眼に構えた。
「父上、母上、父上、母上……」
僕は何度も何度も繰り返した。
息を吐いて、上がった肩を下に降ろした。何もしていないのに息が苦しい。膝が震える。
化け物がゆっくりとこちらを振り向いた。
首まで裂けた口は閉じて、また太い髪の毛の束が顔を覆っていた。額に小さく角が見えた。
角!?
鬼なのか?
鬼かと思うと逃げ出したかった。しかし、足の裏が地面に張り付いて動かない。僕は肩が固まって肘だけで刀を何度も振った。鬼を威嚇したつもりだった。
それを見た鬼は嘲るように舌を出した。長く尖った舌は首の下まで伸びた。それから、ひゅゅう、と音を立てて口の中へと消えた。
僕は全身ががくがくと震えて来た。関節の固まった体の震えはどんどん大きくなり立っていられなくなってきた。
鬼は口を大きく横に開いた。笑ったようだった。
ぅくききくきぅきぃ
鬼はゆらゆらと体を左右に揺らしながら、まるで陽炎のように近づいてくる。特殊な歩法らしく目が追い付かない。
鬼は近くまで来ると、右手の一本の指の爪を伸ばし、僕の腹めがけて右から左に横薙ぎにした。
僕は恐ろしくてただ後ろに尻餅をついた。
鬼の爪が脇差に当たった。ギィン、と音がした。
僕は鬼の攻撃を防いだ。
鬼はそれが気に入らなかったらしく、
ぎぅおおおぅ
と吠えた。
僕はその声に顎ががくがくと震えて、体の感覚も何もなくなった。
「うわぁぁあぁぁあぁ」
ただただ叫んだ。
鬼は今度は右手の三本の指すべての爪を伸ばした。そう思うと三本の指が六本の指に分かれた。
鬼は右手を振りかぶった。
ドズ、ドズ、ドズ
がら空きになった鬼の胸に何かが突き刺さった。それは太い鉄釘のようだった。
ぐぅぅぅ
鬼は唸ると、さらに足に向けて飛んで来た追撃を避けるために後ろに飛び退いた。
「また出たか」
振り返ると闇の中から小柄な老人がぬるりと出て来た。
束髪にして十徳を着ている。町医者だろうか。
その後ろから僕と同い年くらいの年恰好の少年が手に鉄釘をもって現れた。少年は小さく飛び跳ねて調子を取っている。
「二人もやられたか。遅くなってすまないな」
老人は僕の肩に手を置いた。
僕は他人に触れられて、体の震えを吸われたように感じた。立ち上がった。
「恭介、ちょっと相手をしておれ」
老人は鬼を顔で指して少年に合図した。そうして自分はすうっと滑るように動くと僕の両親の傍へと近づいていった。
鬼は老人を攻撃しようとして、六本指の爪を刀ほどにも伸ばして切りかかった。老人はそれをすり抜け、倒れている二人の元へとたどり着いた。
鬼が老人に切りかかり隙が出来たところを、恭介と呼ばれた少年の鉄釘が襲う。釘は鬼の背面、肩甲骨のあたりに二本、ドスドスと突き刺さった。
何故、刀でも切れない鬼の体に釘が刺さるのか不思議だった。
鬼は釘が刺さってもさほど痛手ではないようで、少年を無感情に振り返った。筋肉にぎゅうと力を入れると刺さった釘が飛んで抜けた。そうして足首を屈伸するかのように回したかと思うと、陽炎のような歩法で恭介と呼ばれた少年へ近付いていく。僕の時とは違って速度を色々に変えて、揺らめく幻影は幾重にも広がった。そうして急に、ドンッ、と音がして鬼は少年の目の前に出現した。
鬼が少年を挟むように両手を翳すと、十二本の指から爪がぎゅんぎゅんと長く伸びた。
それを恭介は鬼の懐に飛び込んで躱す。いつの間にか両手に握られていた刀で鬼の股から顔まで切り上げて、そのまま背負い投げのように振り返り、宙を突き刺していた十二本の鬼の爪を切り飛ばした。
左足で踏み込み、右足が這うように追う。その右足が着地と同時に全身に爆発が起こり切り上げ、それから鬼に背を向けるように振り返る。今度は左足が鬼の股の間に入るほど下がって、腰がすとんと落ちる。落ちると同時に刀は振られる。力を入れた様子もないのにこれ以上ないというほどの速度で刀身は軌跡を描く。
僕にはそれが雷が下から上、上から下へと二度落ちたかのように見えた。
ぐおぉおおぅ、がが、がきがぁ
体と爪を切られて鬼が呻いた。
しかし、切られた体に髪が生えて、それが肉となって元へと戻っていく。そしてすぐに首から裂け目が生じて少年に噛みつこうとしていた。
「浅かったか」
恭介は鬼の腹を蹴って距離を取りながら呟いた。
「お前もまだまだ甘いな」
僕の両親の確認を終えた老人が立ち上がって言った。
目の前の出来事に見とれていた僕は、突然声がしたように思って驚いた。
鬼も老人の存在を忘れていたようで、はっとそちらにも意識を向けた。恭介はその隙を逃さずに鋭く踏み込んだ。地面すれすれに剣を振った。その一太刀が鬼の右足首を半分まで切った。
鬼は自分の重みで前にずり落ちて、恭介が切った傷がさらに開いた。黒い血のようなものが出た。
鬼は足首の傷を一瞥すると、自分の髪の毛を一本抜いて息を吹きかけた。すると髪の毛は先の鋭い軟体動物になり、鬼の皮膚に突き刺さった。それは肩から入り肉の中を移動して、足首に辿り着くと切られた傷をぐねぐねと縫うようにして治してしまった。
「わしがやるか」
老人がどこからか出した刀を構えた。辺りの空気が変わった。
周囲が霧に包まれて、頬をその微細な粒子が打つような気がした。
鬼も何かを察知したらしい。
先ほどのように無闇に切り掛かりはせず、爪を飛ばして牽制を始めた。老人はそれを納刀したまま躱している。
老人がそろそろ終わりにしようかと、ぐっと何かを練り込んだのがわかった。その場の重力が一気に増したような気がした。
老人は少し俯いて、きゅっと小さく踏み込んだ。
その瞬間を待っていたのか、鬼は僕に向かって背中の皮膚の中から爪を飛ばしてきた。
僕の目には鬼の爪と老人のあっという顔とが同時に、しかし妙にゆっくりと見えた。ああ終わるのだなぁ、と僕は思った。
ギィィン
老人が僕の目の前にいた。
鬼が飛ばした爪を弾いて、刀を仕舞う動作だけが余韻となって見えた。
鬼は柳の木の傍に立っていた。老人が僕を守る隙を突いて移動したのだ。
ぅくききくきぅきぃ
鬼は笑った。そして闇に掻き消えた。
「ふぅ。駄目じゃったか」
老人は淡々としていた。
「先生、すみませんでした」
恭介が謝った。
老人はそれに目で頷いてから僕の方へ向き直って、
「お前の両親は助からん。すまんかったな」
苦いような顔で言った。
幾度もこんな経験をしたのか、老人の顔には苦しみが染みついているように見えた。
僕は現実を把握できずに老人の顔を見つめ返した。
なんと答えていいのかわからなかった。
パチパチ、バチン
夜中にはっと目が覚めた。
僕は異変を感じて布団を跳ねのけ起き上がった。片膝で周りの様子を窺う。障子に赤と黒との影が揺れて見えた。それから遅れて物の焼ける臭いがした。
火事!?
障子の外は庭だ。庭で火事なのか!?
僕は立ち上がり障子をばっと開けた。
すると今いる八畳間と斜に隣接した台所の壁が燃えていた。火は土台の木に沿って立ち上り、黒煙の間からちろちろと赤い舌が見えた。火勢というより煙が多く、それを火が下から照らして見せていた。暗い闇の中に火炎の光でなお黒い怪物が蠢いているかのようだった。
そうかと思うと火勢が増した。赤い炎が壁を食い破って外に出て来た。バチバチと何かが折れる音がした。その炎が庭の池にめらめらと映って松や躑躅を照らした。炎で草木の影はかえって深い。築山が揺らめく赤と黒の中でこんもりとこちらを窺っているように思われた。それらの赤と黒の光景が目に染みて痛いようだった。
父母が殺され屋敷替えをさせられたばかりで、この家に愛着もないが、ここから新しく人生を始めようと決心していた。それがこんな不始末をしてしまうとは……。
僕はあっと我に返った。
そうだ、下女のとめは無事だろうか。咄嗟にそう思った。
「とめぇー! 火事だ! 起きろ!」
大声で叫んだ。
「正太郎様ぁ! ご無事ですか!?」
離れの貸家の方から声が聞こえた。僕は急いで外へ出た。
池に面した貸家の方が火は酷かった。半ばまで炎に舐められて最早消し止めることも敵わないようだった。
僕は貸家の戸を開いた。黒煙と白煙がもうもうと噴き出してきた。
「とめぇ!」
「ああ、正太郎様ぁ」
煙の中にうっすらと人影が見えた。
「とめ、無事か!?」
僕は人影の方へと進む。煙で前が殆ど見えない。視界が悪く炎を直接は視認できないが、頬をちりちりと焼かれているのを感じる。体が熱い。
それでも僕は奥へ進んで行く。
とめは足をくじいたのか畳の上に蹲っていた。
「さあ、外へ!」
僕は天井や壁があるはずの方向へと目配りしながら言った。
「いいえ、わたくしめは最早生きてはいられません」
「火の不始末は最早どうでもいい。とにかく逃げるんだ!」
「いいえ、わたくしめは……」
とめは動かない。それを僕は脇を抱えて引きずっていく。
とめの体には力がまったく入っていない。腕も脚もだらりとして何事かを呟いている。
「とめ、気をしっかり持て!」
僕はとめに声を掛けながら戸口へ向かう。
煙を吸わないように口に当て布をしているので酸素が足りない。とめを運ぶのに力が出ない。
火事場の馬鹿力があるんじゃなかったのかよッ、くそっ!
一人胸で悪態をつく。
ああ、戸口はすぐそこだ。
僕は煙を掻き分け、もう殆ど這うような姿勢でとめを引いてきた。
やっと僕の体が外に出た。続いてとめの体も……。
あっ
戸口の板が崩れて来た。とめはまだ何か呟いて動く気配もない。
僕は咄嗟にとめの上に覆いかぶさって、落下してくる板を自分の背に受け止めた。板の一部は傾いてとめの目の前に落ちた。
「きゃぁぁぁ」
それでやっととめは正気に戻ったようだ。
僕は背中の上で燃える板を払い除けて外に出た。
「正太郎様ぁぁ」
とめは叫んで僕を背中の炎ごと抱きしめた。とめは何も考えていなかったのかもしれないが、それで火は消えた。
とめはしくしくと泣き始めた。
僕は一息ついたが、あっとまた別のことを思い出した。
位牌が……。
「とめ、火から離れていろ」
僕はそう言うと母屋に向かった。上り口から急いで家に入った。
居間と一間を通って仏間に向かう。
タタタッ、ドドタドッ
そのとき、表玄関の方から足音が聞こえた。
「おい、わかっているな。まずは捕らえろ。殺すなよ」
「はっ。承知しております。お前らいいな!」
「はっ」
複数人の声が聞こえた。
母屋にも火は移っている。まだ貸家ほどではないがすぐに燃え広がるだろう。そこへ人が来た。しかも消火ではないらしい。
僕は急いで位牌を手に取った。父の幾つかの書状らしきものも懐にしまった。
父が殺される数日前に、
「自分に何かあったら……」
と言いかけて止めたのを思い出した。賊が来たらしいことで僕はこの書状がどうしても持ち出さなければならないもののように感じた。
「正太郎様ぁ! お逃げくださぁいぃ!」
とめの叫ぶ声がした。
僕はこの書状を守るのか、とめを守るのか、一瞬ためらった。
僕に出来ることは逃げることだけだ。とめのところへ向かっても子どもの僕が大人と戦い勝つことなど不可能だろう。逃げることだけが僕にもできる唯一のことだ。逃げても捕まるだろうが、逃げている間に大騒ぎになれば、逃げた理由を発言する機会もあるかもしれない。
僕は仏間を出て湯殿の脇から抜け、裏の木戸を開けて逃げようかと考えた。
築山や木々を陰にして行けば、闇に乗じてこの場からは逃れられるだろう。それで吉田酔楽先生のところへ行けば……。
僕は明水館までの道順を頭に描いた。
とめ、すまない。これも父のためだ。
僕は心で謝った。しかし脚が動かない。
僕は父の刀を腰に差した。裏から出た。ぐるりと回って、とめがいるはずのところを遠くから覗いた。
とめは黒頭巾をした侍たちに捕まっていた。
敵は四、五、六……、
八人いる。
とめは抵抗することもなくうな垂れていた。目に涙が光っているようだ。赤い炎がとめの頬を丸く照らしているのが、黒頭巾の男たちの中に浮いて見えた。
僕は何の勝算もないが、賊どもの方へと出て行った。
出て行きながら、なぜこんなことをと思っていた。
それでも、
「何が望みだ!」
僕は炎の光の中で精一杯腹に力を込めて怒鳴りつけた。
不意を突かれた賊どもがはっとこちらを振り向いた。七人が刀を抜いた。
「出て来たか。北村の小倅が。生意気な」
刀を構えた先頭の男が言った。構えがすっと落ち着いている。
その男を刀を一人だけ抜いていない恰幅のいい男が手で制して、
「書状を渡してもらおうか」
太い詰まるような声で言った。こいつがここでの頭だろう。それなりの身分らしい。
「火を掛けたのはお前たちか!?」
僕は恰幅のいい男に返した。
しかし、それに先頭の男が答えて、
「そうだ」
「なんてことを!! なぜこんな!?」
「お前の父親のせいだ。お前の父親が銀……」
「おい!」
恰幅のいい男が止めた。
先頭の男は肩を竦めて話すのを止めた。
「僕の父がなんなんだ!? 銀?」
「お前が聞いても仕方がないことだ。お前はここで死ぬんだからな」
恰幅のいい男が言った。
話すつもりはないらしい。殺すつもりなら話してもいいはずだが、手下の何人かは事情がよくわかっていないのかもしれない。
僕はとにかくとめを助けようとして、
「とめを放せ!」
「正太郎様ぁ、わたくしめのことはどうでもいいんです」
とめが僕の声に反応して叫んだ。
「書状を渡せば放してやるとも」
恰幅のいい男はとめを横目で見ながら、そう言うとにやにやと笑った。
「本当に逃がす気はあるのか!?」
僕がそう言うのを聞くと、突然恰幅のいい男は声をあげて笑い出した。
「ふふふっ、ふはっははは。お前も父に似てどうしようもない大馬鹿者だなぁ。この女が手引きしてこんなことになっているのに、まだこの女を助けようとするとは」
「なにっ……」
僕は絶句した。
とめは顔を伏せるように下向けた。
「この女にはお前の動きを報告させていた。そして今日火をつけたのもこの女の仕業だ。その罪の意識に耐えられなくなって、自分がいる貸家にも火をつけて自害しようとでもしたのだろう。馬鹿な女だ。そのせいで今回の襲撃が狂ってしまったわ」
「とめ、何故……?」
答えのないとめの代わりに恰幅のいい男が嘲笑いながら、
「この女はお前を助けるためにやったのだ。お前を殺すと脅したら、お前の命だけは助けてくれと言って、我らに協力したのだよ。お前を殺すことも我らの計画の内だとも知らずになぁ」
「なに!」
僕はかっと腹の奥から煮えかえるようなものを感じた。
刀に手を掛けた。
「おや、我らと切り合うつもりか? お前が剣が苦手なのはこの女の報告でわかっているぞ」
先頭の男が自分の出番が来たとでもいうように、刀を肩に担いで見せた。
僕はどうにでもなれという気持ちだった。自分の身がどうなろうとも、こいつらに一太刀でもくれてやらないと気が済まない。
「なるほどなぁ。そういうことだったのか」
庭の陰から声がした。
賊どもの何人かはそちらにはっと構えた。
築山の裏からぬるりと黒い影が出て来た。それは小柄な老人だった。
鬼を追い払ってくれた老人……!?
そして、その後ろから、これもあの時と同じく少年が現れた。
「そこまでして銀札を発行してどうする? 江戸屋敷が金欠で正銀を集めるのか? それでその後はどうなる?」
「だ、だ、誰だ……!」
恰幅のいい男が狼狽して聞く。
「お前らの敵対者と言えば誰なんだ? わかっているだろう」
「……、銀札をやるしかないのだ。必ず成功させなければならないのだ。そのために我々は何でもやるつもりだ!」
先頭の男がはっきりとした声で言った。
「お前らは一門の犬か?」
恰幅のいい男がまた先頭の男を制しながら言った。
「そうではないが、ある約束があってな」
老人が何の構えもなくすたすたと歩きながら言った。
恰幅のいい男は老人の尋常の者ではない様子に苦い顔をして、
「我らがどれだけ手柄をあげても門閥で遮られることには我慢ならん。戦がない世にもそれぞれの力量というものがあるのだ。それに反していては藩が持たないだろう」
「それぞれの理屈があるものだな」
「何を生意気な! お前が何者か知らんが、ひとりで我らに勝てるとでも思っているのか!」
先頭の男がいきり立った。
「一人ではない。ここにもう一人いるではないか」
老人は連れて来た少年の方に首を向けて言った。
「ガキ一匹で何ができる」
黒ずくめの男たちが笑った。
「では、恭介。こいつらをお前ひとりでやってみるか?」
老人が不敵に笑って少年に尋ねる。
「先生がそう言うならそれもいいでしょう」
少年が答えた。
それと同時に老人は歩を止めた。代わりに少年が八人の男たちの前に飛び出した。
少年は飛び出しざまに体を何か奇妙に動かせたようだった。それはほんのわずかな動きに見えたけれど、僕にはとても美しく映った。少年の動きを見ていると、父のことも炎のことを忘れてしまいそうになった。
そうして何かがぐわっと盛り上がるのを感じた。
ボォワゥ
少年の前に突然巨大な炎の玉が出現した。それは賊たちの横を通り過ぎて、炎がいよいよ燃え盛る屋敷に衝突した。
ガラァン ゴォン
屋敷の一部が吹き飛んで燃え盛っていた家屋の一部が庭へと分離された。
少年はもう一度踊る様に動いて、火の玉をもう一度出現させた。それはまた屋敷へ衝突して燃えている部分を吹き飛ばした。燃えている家屋の部分だったものは庭に飛ばされて、破片になって燃え続けた。燃えていない家屋は火を奪われて立ち残った。
その光景を老人以外の全員があっけにとられて見ていた。
「……、お、おにご、鬼子だ!」
賊たちの一人が呟いた。
「おまえ、鬼子か……。鬼子と言えば、澁澤恭介か!?」
「いかにも」
澁澤恭介と呼ばれた少年は興味がなさそうに答えた。
「澁澤恭介がなぜお……」
賊の一人がそう言いかけた時、恭介はすでにその男を切っていた。男の左腕が切れ飛んで、左腹も深く裂けていた。生物としてはまだ生きているが、ショック状態らしく人間としては死んでいる。倒れた体に残った右腕と両足がぶるぶると震えているのが見えた。
「ああ、……」
突然隣にいたはずの男が切られたことで賊たちに動揺が走る。
「待て、待て、俺たちは……」
そう言いかけた男が次に切られた。肩から袈裟に刀が入って、腹まで切れた。男は倒れて絶命したようだ。ショック死なのだろう。
人間がこんな風に切れるものなのか!?
仲間二人があっという間に切られたのを見て賊たちは逃げ出そうとした。
それに切り掛かる恭介。
「恭介。ここで殺すと面倒なことになるぞ」
老人が声を掛ける。
それを聞いた恭介が刀を峰打ちに構え直し打ちかかる。
逃げ出そうとしていた者の脇腹に逆袈裟に刀が当たる。肋骨はばらばらと砕かれて刀が体に入る。結局峰打ちにしてもその男は死んだようだ。
他のものを同じように打たれていく。
これではまずいと思ったのか、老人が割って入って、恰幅のいい男を峰打ちで昏倒させたようだ。それから先頭の男も峰打ちしようとした。しかし一歩遅かった。恭介の剣が先に届いて、先頭にいた男も死んだようだ。
生き残ったのは恰幅のいい男一人だけだ。
なんという少年だ……。
老人の技量は少年を遥かに上回っているだろうけれど、僕にはこの少年の方がずっと恐ろしく思えた。
炎の光に少年の横顔は笑っているように見えた。
三年前どういう経緯なのか、よくわからないまま、閉門を命じられた。火事の責任かというとそれもまた違うらしい。
書状は提出したが預かりとなったあと音沙汰がない。
僕は何か騒動に巻き込まれたのだ。
父も母もそれで殺されたと考えたほうがいい。鬼は偶然ではないのだ。
僕にとってはこの世界に来て、突然できた両親だった。しかし、大切に育ててくれていた。有り難かった。
闇に血、それに敵は炎で焼き尽くそうとしてきた。
何もできない自分でいるのはもう終わりだ。
僕はもうあんな思いを絶対にしたくない。沈む夕日の前で、僕は剣を振って硬くなった自分の手のひらを見た。
あの時の鬼に出会ったら今の僕は切れるだろうか。賊どもを蹴散らせるだろうか。
僕はまた素振りに戻った。その剣が僕の頭の中では鬼の額をざっくりと割っていた。賊どもを恭介のように切り裂いていた。
夕陽が最後の赤をどろどろ引きずって沈んだ。