異世界からやって来た悪役令嬢が、日本のサブカルチャーにがっつり浸る話
多くの生徒が上流階級の生まれであり、国で最も長い伝統を持つヴェーロ学園には、周囲から畏敬の念を込めて「氷の才女」と呼ばれている生徒がいた。
彼女の名はウィステリア・エーネハイネ。類稀なる才覚と、氷に例えられるほどの冷徹さが、「氷の才女」という名称の由来となっている。
ヴェーロ学園は全寮制だ。親元から離れ、与えられた部屋で生活を送る。そんな学園生活の中で、ウィステリアは手下を増やし、敵対者は容赦なく叩き潰してきた。
しかし、最近そんな彼女に異変が生じていた。
本日最後の授業が終わり、自由時間が訪れる。ある者は授業の予習復習に勤しみ、ある者は有力者に取り入ろうとコミュニケーションを図る。自由時間ではあるが、無駄に費やす者は誰もいない。
クラスメイトの女子たちが、席に座るウィステリアに近づく。
「ウィステリアさん、ジャック様からパーティーのお誘いが届いていますわ。参加なさいますわよね?」
「悪いけど、気分じゃないわ。断ってくださる?」
「えっ!? い、いいのですか!?」
ジャックはスクールカーストのトップに位置する生徒だ。そんな彼直々の誘いを断れば、少なくともジャックの心象は悪くなるだろう。
「いいわよ別に。それじゃあ、私は部屋に戻るから」
ウィステリアは席から立ち上がり、自室に戻った。
授業以外の活動にも積極的に参加していたのに、今ではこのとおりである。体調が悪いのか、それとも何か企んでいるのか、ウィステリアの内心を知る者は誰もいない。
ウィステリアは自室に戻るやいなや、部屋の隅のクローゼットの扉を開けた。
そこには、漆黒の空間が渦巻いていた。何もかも吸い込んでしまいそうで、見る者に漠然とした恐怖を与える。
ウィステリアはこの空間を「ワープホール」と呼ぶことにしている。
躊躇せず、ワープホールに足を踏み入れる。
この先が何処に繋がっているのか、ウィステリアは既に知っているのだ。
扉を開ける感触と共に、全く別の部屋のクローゼットの前に降り立つ。
「ただいま、トーヤ」
「おう、お帰り」
部屋の主である藤川藤也は、慣れた様子でウィステリアに声をかける。ソファーに座り、テレビを見たまま動こうとしない。
藤也は日本の片隅で働く普通の会社員だ。職場から歩いて20分ほどのアパート「グランエヴァー」で一人暮らしをしている。
時空を超え、ウィステリアのクローゼットと藤也のクローゼットが繋がっているのだ。ここにいる二人だけが、その不思議な現象を知っている。
最初にウィステリアがクローゼットから現れたとき、藤也は驚いた。それはもう本当に驚いた。警察に通報しなくて良かったと思う。
ニホンの生活が楽しくて仕方ないのか、ウィステリアはほぼ毎日ニホンに来ている。
そんな彼女とは対照的に、藤也は一度しかウィステリアの世界に行ったことはない。ウィステリアの部屋を見て、それで終わりだ。あちらの興味がないわけではないが、元の世界に戻れなくなるのが怖いのだ。
「ここに来るとき、誰にも見られてないよな?」
「当然よ」
「だといいけど、本当に注意しろよ。俺たちのクローゼットが異世界に繋がってるなんて、どっちの世界で知られても絶対に面倒なことになるんだからな」
「わかってるって、心配性ね」
「……なあ、同じクローゼットを準備しておくのはどうだ? バレそうになったとき、ダミーとして役に立つかも」
「こっちの世界だとオーダーメイドだから、同じものを用意するのは大変なのよ。ニホンで似たクローゼットを買う方が良いわね」
「……そういや、新しいクローゼットを買わないとな。今あるのは使えなくなっちまったし」
ウィステリアは冷蔵庫を開け、ジンジャーエール入りのペットボトルを手に取る。
蓋を開けると、小気味良い音が漏れる。
ジンジャーエールを一気に喉に流し込み、その爽快感に顔を綻ばせる。
「最っっっ高の一杯ね! 冷蔵庫を発明した方は本当に偉大だわ」
この爽快感は、元の世界で絶対に味わえない。味もさることながら、冬以外でキンキンに冷えた飲み物を飲めるなんて、どれどけ恵まれていることか。
「さてと……」
ウィステリアは充電中のタブレットを手に取る。
彼女が今からやろうとしてるのは「ガンコレクション」というソーシャルゲームだ。
ガンコレクションには、銃をモチーフにした男キャラが登場する。メインキャラの一人「ベレッタ」に、ウィステリアは心を撃ち抜かれたのだ。
おかげで、彼女はすっかりガンコレクションに夢中になってしまった。
「待っててください、ベレッタ様。今日こそ当ててみせます……!」
その言葉は宣誓であり、祈りのようにも聞こえた。
ウィステリアが引き当てたいのは、限定バージョンのベレッタだ。その排出率は僅か1%のみ。
ファンとして、なんとしても限定バージョンのベレッタを手に入れたい。
今まで貯めた石を全部放出したが、それでもベレッタは引けなかった。
どうしても諦められなかったウィステリアは、こちらの世界でお気に入りのドレスを売り、引き換えに大量の石を手に入れたのだ。
「むむっ」
十連ガチャを何度も回すが、やはり出ない。
そう簡単に引けるものではないと覚悟していたが、案外すぐ出るんじゃないかと期待してしまう。
「くうっ……!」
石の数が半分を切ったが、まだ出ない。
ウィステリアの表情が徐々に険しくなる。
「があああぁぁぁ!」
まだ出ない。ボックスに溜まった大量のカードが、ガチャの無情さを物語る。
ウィステリアの表情は絶望に染まるが、それでもガチャを回す。いや、回すしかない。退路はとっくに絶たれているのだ。
1%の壁を越えようとするウィステリアを、藤也は横目で見守る。
祈りを込めて回す。そして項垂れる。それを何度か繰り返し、ウィステリアはとうとう頭を抱えたまま動かなくなる。
「……トーヤ、代わりに回してちょうだい! 私じゃ物欲センサーで引けないのよきっと!」
「!?」
かなり追い詰められているのか、ウィステリアは倒錯したことを言い出した。
「無茶言うなよ! 誰がやっても結果は変わらないって」
「そんなの知ってる! でも自分じゃ怖くて回せないのよ!」
お気に入りのドレスを売ってまで得た金が、無駄になるかどうかの瀬戸際なのだ。たとえ藁のような理屈でも、しがみつかずにはいられない。
「……しょうがないな。当たらなくても恨むなよ」
介錯だと思って、頼みを引き受けることにした。
ウィステリアからタブレットを受け取り、十連ガチャの表示をタップする。
画面が切り替わり、横向きの拳銃が表示される。
トリガーをタップすると、猛々しい発砲音と共に銃弾が次々と放たれる。
レアリティによって銃弾の色が異なる。金色の銃弾が最高のレアリティだ。限定ベレッタは当然ながら最高レアリティ。ここで金色を出さなければ、その時点でおしまいだ。
「おっ」
「!!」
最後の一発だけ、金色の銃弾が放たれた。首の皮一枚だが、引き当てる可能性はゼロではない。
本命の金色の銃弾まで、スキップを繰り返す。ウィステリアは瞬き一つせず、まじまじとゲーム画面を見つめる。
次に画面をタップすれば、ついに誰を引き当てたのかわかる。緊張が最高潮に達する。
「押すぞ」
「………お願いするわ」
気丈に振る舞っているが、ウィステリアの声は僅かに震えていた。
泣いても笑っても、これで最後。
画面をタップすると、眩い光が画面いっぱいに広がる。そして現れたのは── 限定バージョンのベレッタだった。
「来たぁぁぁぁぁベレッタ様ぁぁぁぁぁぁ!!!」
ウィステリアは椅子から立ち上がり、喜びを目一杯表現するように両腕を上げた。
「ありがとうトーヤ! 本当にありがとう! 愛してるわ!!」
「!?」
ウィステリアは感激のあまり、思いっきり藤也に抱きついた。
が、藤也がリアクションを起こすよりも早くタブレットを奪い取り、うっとりした表情で限定ベレッタを眺める。
役得のはずだが、藤也は複雑な気持ちになった。
「早速カンストして、戦場でお披露目しないと…… ふふふ、今から楽しみだわ」
こうなってしまえば、ウィステリアは絶対にタブレットを手放さそうとしないだろう。
「まあ、いくら夢中でも、日付が変わる頃には帰るだろ」
藤也はテレビに視線を戻した。
結局その後、ウィステリアはガンコレクションを止めようとせず、あちらの世界で仮病を使ってまで、ガンコレクションを続けるのであった。
†
ヴェーロ学園では試験の後、廊下に順位表が掲示される。
順位表の前では多くの生徒が一喜一憂し、そこそこの賑わいを見せるのだが、今回は異様な空気に包まれていた。
入学してから首席を守り続けていたウィステリアが、中位まで転落したのだ。
周囲の視線は、自ずとこの場にいるウィステリアに向けられる。
当のウィステリアは、平然とした様子で順位表を眺めている。どんな感情でいるのか、その表情からは何も読み取れない。
「今回の試験は残念だったね、ウィステリア君」
男子生徒がウィステリアに話しかける。
彼の名はジャック・ノーツ。ウィステリアをパーティーに誘った生徒だ。順位表には、首席にその名を連ねている。
「最近部屋に篭りがちだと聞いていたけど、きちんと勉強はしているのかい? どうしてもって言うなら、首席の僕が勉強を教えてやってもいいけど?」
ジャックが話しかけてきたのが、心配からではなく、優越感に浸るためだった。ウィステリアがパーティーの誘いを断って以来、ジャックはこうして突っかかってくるのだ。
ジャックの脳裏には、悔しそうに唇を歪めるウィステリアの姿が浮かんだのだが──
「心配してくれてありがとう。だけど大丈夫よ。真ん中くらいの順位ならそんなに悪くないしね」
「えっ」
考えていた煽りの言葉が全て吹き飛び、ジャックは言葉を失った。
信じられない。目の前の彼女は本当に、首席以外に価値はないと公言して憚らなかった「氷の才女」と同一人物なのだろうか。
「他に用がないなら、失礼するわ」
その場を立ち去ろうと背を向けたウィステリアは、途中で何かを思い出したように立ち止まる。
「ああ、そうだ。首席おめでとう、ジャックさん」
振り返ったウィステリアは、誰もが見惚れる優しい微笑みを浮かべていた。
この場にいる誰もが呆然として、離れゆくウィステリアの背中を見送った。現実感のなさに、夢や幻とさえ思った。
「………可憐だ」
ただ一人、ウィステリアに微笑みを向けられたジャックだけは、疑いようのない現実と認識し、その微笑みを心に焼き付けていた。
以前のウィステリアならば、試験で主席から陥落した場合、少なくない衝撃を受けるだろう。
しかし、今はもう、落第さえしなければ試験の順位なんて何位でもいいと思っている。
関心がないのだ。そう、試験の順位には。
「あああああああ順位が落ちてるううううううう!!!???」
場所は変わり、藤也の部屋。
ウィステリアの悲痛な叫びが響き渡る。
その手に持つタブレットの画面には、ガンコレクションのランキングが映し出されていた。
ガンコレクションはTPS系のゲームで、ランク戦で勝ち残った順位に応じてポイントが与えられる。
ウィステリアは氷の才女と畏れられるほどの能力を遺憾なく発揮し、上位ランクに名を馳せている。今回のランキングでも、少しスクロールすればウィステリアの名前が見つかる。
しかし今回、自己ベストを更新できるペースだったが、最後の最後に順位を落としてしまったのだ。
原因はそう、ヴェーロ学園の試験勉強のせいで、最後の追い込みができなかったのだ。
おかげで落第はしなかったものの、逃したチャンスはあまりにも大きかった。
「せっかく、せっかく自己ベストを狙えるペースだったのに……」
「まあ、その…… 元気出せって。今回は試験も重なったんだし、仕方ないさ。次頑張ろうぜ」
ひたすら落ち込むウィステリアの姿を見かねて、藤也は励ましの言葉を投げかける。
「……言われなくても、次こそは上に行ってみせるわ」
ウィステリアの碧い目には、依然として揺るぎない熱意が宿っている。
下手な励ましは必要なかった。悔しさをバネに、自分で立ち直っていたに違いない。
「それにしても、ニホンジンはすごいわね。私がこれだけ頑張ってるのに、全然勝ち残れないもの。もっと上手くなれる方法はないかしら……」
「それなら、参考にランク1のプレイでも見ればいいんじゃないか?」
「何言ってるのよ。立ち回りの勉強になるでしょうけど、それができたら苦労はしないわ……」
「……ああ、そうか。最近忘れていたけど、ウィスは異世界から来たんだもんな。ちょっとタブレット貸してみな」
ウィステリアは首を傾げながらも、藤也にタブレットを渡した。
「ランク1のプレイヤーってどんな名前だっけ?」
「ナキさんよ」
「ナキ…… っと。ほれ、返すぞ」
タブレットを返してもらったとき、ウィステリアは目を丸くした。
ナキが愛用するキャラ「デザートイーグル」が、操作もしていないのにランク戦で戦っている。その動きは淀みなく、次々と敵を撃破する。
「ど、どういうことなの!? これ、ナキさんがプレイしているの!?」
「ナキのプレイ動画だ。ランク1ならYour Tubeに投稿してると思ったけど、そのとおりだったな」
「プレイ動画……? ゆあちゅーぶ……?」
「どんなふうに操作したかを映像で記録して、全世界に公開してるってことだ。無料だから、何度でも観れるぞ」
「す…… すごいわ、ニホンではそんなことまでできるのね! ありがとう、トーヤ!」
ウィステリアは食い入るようにナキのプレイ動画を見つめる。
見取稽古という言葉があるくらいだ。ランク1のプレイ動画から、勝つための知識を貪欲に吸収しているのだろう。
心の底から夢中になれることに出会えたウィステリアが、少し羨ましくもある。藤也はそう思いながら、ウィステリアの隣でナキのプレイ動画を眺めた。
†
ウィステリアはこの世界に来てから、ずっとガンコレクションばかりやっていたわけではない。
グルメ、ファッション、漫画、アニメ…… あらゆることを楽しんでいる。彼女が余計なトラブルを起こさないように、藤也は必ずウィステリアの外出に付き添った。モデル顔負けの美少女とのデート気分を味わえるので、悪い気はしなかった。
ウィステリアは相変わらず私物を売って、ガチャをしたりグッズを買ったりしている。だが、いつかそれも限界が来るだろう。
金をねだられる日が来るかもしれないが、どのように対応するべきだろうか。何事も、金が絡むと面倒なことになる。ウィステリアとの今後の関係性を案じて、藤也は密かに頭を悩めていた。
「お願い、仕事を探すのを手伝ってちょうだい」
だからこそ、ウィステリアが自分からそんな相談を持ちかけてきたのは驚いた。
「働きたいのか……!?」
「働きたいんじゃない、お金が欲しいのよ。この世界は娯楽で満ちているわ。だからこそ、思いっきり満喫するにはお金が必要なのよ」
「そ、そうか。俺はてっきり、遂に金をねだられるものかと……」
「失礼ね。私はエーネハイネ家の人間よ。人にお金を恵んでもらおうと考えるほど、落ちぶれてはいないわ」
ウィステリアの言うとおり、この世界で娯楽を楽しむには金が必要だ。
しかし、ウィステリアはきちんと働けるだろうか。
こちらの世界とあちらの世界、ウィステリアの立場はあまりにも違う。頭の良さは認めるが、ウィステリアは異世界のお嬢様なのだ。
「……参考までに、どんな仕事がしたいんだ?」
「モデルとかはどうかしら?」
「頼むからもっと普通な仕事にしてくれ」
「冗談よ。モデルって拘束時間長そうだし。でも私、まだこの世界の文字が読めないから、普通の仕事は向かないと思うのよね」
確かに、仕事をする上で文字を読めないのは致命的だ。
検証の結果、言葉は通じるが、何故かお互いの世界の文字は読めなかった。
なので今、ウィステリアはヴェーロ学園の授業もそっちのけで文字の勉強をしている。理由は漫画を読めるようになりたいから、らしい。
だが、日本語を読めるのはもっと先になりそうだ。
文字を読む必要のない仕事が望ましいが、そうなるとモデルの仕事が最適解な気がしてくる。実際、ウィステリアの美貌なら不可能でないだろう。
だが、有名になればなるほど、異世界の存在を隠し通すのが難しくなる。ウィステリアもそこを理解しているからこそ、冗談と言ったのだろう。多分。
「……肉体労働は?」
「ムリ」
即答である。まあ、ウィステリアの細い体を見れば聞かなくても無理なのはわかる。
働きたいという意思は立派なのだ。その意思を挫かせてはいけない。
ウィステリアにできる仕事を考える。考えて、考えて、視点を変えてウィステリアだからできる仕事を考えたとき── 思いついた。
「ウィスにピッタリな仕事を見つけたかもしれない。ちょっと電話してくるから、ガンコレでもして待っててくれ」
「はぁい」
藤也は廊下に出て、ある人物に電話をかける。
あそこなら、ウィステリアのような人材が喉から手が出るほど欲しいはずだ。
電話を終えた藤也は、早速部屋に戻った。期待どおり、色良い返事が返ってきた。
「ウィス、コスプレ喫茶でバイトしてみないか」
「こすぷれきっさ?」
コスプレ喫茶について説明すると、ウィステリアは興味を持って聞いてくれた。
コスプレ好きの友人が、趣味が高じてコスプレ喫茶を営業しているのを思い出したのだ。
ウィステリアの写真を送ったら、友人の方から是非働いてくれとお願いされた。
「要するに、だ。貴族のお嬢様っぽく会話するだけでいい。ウィスになら楽勝だろ、なんせ本物なんだから」
「昔の私みたい話せばいいのね。いいじゃない、面白そうだわ」
「貴族のお嬢様から遠ざかっている自覚はあるのか……」
ウィステリアは余裕そうだが、藤也の心に一抹の不安がよぎった。
「……ちょっと練習してみるか。俺が客の役をするから、会話してみてくれ」
「わかったわ。昔の私、昔の私……」
二人はテーブルを挟み、向かい合って座る。
「……」
「……?」
既に始まっているが、ウィステリアは一向に喋ろうとしない。
練習とはいえ、初めての接客で何を言えばいいのかわからないのだろうか。
次の瞬間、ウィステリアの目が氷のように冷たくなった。
「何をしてるの、さっさとお茶を用意なさい。まさかあなた程度の人間が、私の手を煩わせるつもり?」
「ストーップ!!」
念のため練習しておいて良かったと、心の底からそう思う。
一部の客なら喜ぶかもしれないが、こんな態度で接客していたらクビ真っしぐらだ。
「ええそうね、一旦止めましょう。というか、突然大きな声出さないでよ。びっくりするじゃない」
「こっちこそびっくりしたわ! あれ、初めて会ったときってそんなキャラしてたっけ!?」
「……ええまあ。黒歴史を公開してるみたいで辛いわね」
ウィステリアも苦い表情を浮かべている。さっきの接客態度はないと、自分でも気づいてくれているみたいだ。
「初めてトーヤと会った頃は、状況を把握するので精一杯だったのよ。過去の私って、テンプレ悪役令嬢みたいな女だったのよね……」
「お前どこでそんな言葉を…… そういや最近、学園モノのアニメを見てたな」
ウィステリアはこの世界に来て、段々と性格が穏やかになった。こちらの世界に慣れたからと思っていたが、そもそもの認識が違っていたらしい。
藤也は今初めて、ウィステリアが氷の才女と呼ばれていた所以を垣間見た。
何にせよ、本人でさえ悪役令嬢と評する態度で接客させるわけにはいかない。
「じゃあ、学園の友達と話す感じで──」
「あっちの世界に友達はいないわ。敵と味方だけよ」
「おぅ……」
ウィステリアはあまりヴェーロ学園の生活をあまり語ろうとしなかったが、その理由がわかった。
つい日本の学園生活を基準にして考えていた。灰色を通り越して暗黒の学園生活なんて、自分から話したくないだろう。
「学園生活のウィスを知らないもんだから、普通に受け入れていたが…… どうしてそんなに変わったんだ?」
「ニホンの暮らしって、あっちの世界でどれだけ頑張っても実現できないくらい快適なのよね」
ウィステリアの話を聞く限りだと、あちらの世界の文化水準は中世ヨーロッパ程度だ。
どれだけ努力をしても、技術革新の差は埋めようがない。
「それに、夢中になれることもたくさんある。例えばガンコレとかね。だけど、あっちの世界にあるのは権力闘争くらい。それなのに肩肘張って生きるのが、なんだか虚しくなっちゃったのよね。もっと気楽に生きようって、そう思ったの」
虚しくなったと言いつつ、最初に出会った頃と比べると、ウィステリアは伸び伸びと生きているように感じる。心にゆとりができて、よく笑うようになった。
藤也の価値観からすれば、ウィステリアの変化は良いことだと思う。
だけどそれが、ウィステリアが本来身を置いていた貴族の世界において、良い変化になるとは限らない。
貴族の世界が殺伐としているのは、想像に難くない。心のゆとりは、そのまま突け入る隙になってしまうのではないか。
「ウィス、お前…… こっちの世界で暮らしたいのか?」
その言葉に、ウィステリアは困ったように笑う。
「戻るつもりはないって言ったら、トーヤは私を受け入れてくれる?」
「ぅえっ!?」
「トーヤとニホンで暮らすのも、悪くないわ。だけど、いざどちらの世界で生きるか選べって言われたら、どうでしょうね。どれだけつまらなくても、生まれ育った世界を忘れることはできないから……」
藤也は何も言えなかった。ウィステリアのいない生活は寂しいが、それは個人的な感傷だ。どちらが正しいかなんて、無責任に言えるはずもない。
ならばせめて、どちらの世界であろうと、ウィステリアが望んで選ぶまで見守ろう。二人だけの秘密を、その時が来るまで守り通すのだ。
†
街中のテナントビルの一階に、ウィステリアの勤め先であるコスプレ喫茶「ビビアンガーデン」がある。
外装、内装共に普通の喫茶店と変わりないが、従業員は様々な衣装に身を包んでいる。アニメのキャラの衣装、メイド服、チャイナドレス、統一感がないので店内の空気は闇鍋のように混沌としている。
客から指名を受けたウィステリアは、店内を歩く。
自前のドレスに身を包んだ姿もさることながら、その立ち振る舞いも、深窓の令嬢そのものだ。クオリティの高さに、ウィステリアが横切ると客は一人残らず振り返る。
「あなたが今日のお茶会の相手ね。よろしくお願い──」
「よっ、ウィス」
席には藤也が座っていた。
一瞬だけ驚いた表情を浮かべるものの、すぐに営業用の微笑みを向ける。が、そこには気恥ずかしさと不機嫌さが滲み出ている。
ガンコレクションのランク戦でいつも発狂しているウィステリアの姿を知る藤也としては、猫を被った今の姿が面白く映る。
「何でいるのよ……!」
「しっかり働いているか気になってな。ほら、この仕事は一応俺が勧めたんだし」
このままでは冷やかしに来たと思われるので、ちゃんとした理由を話すことにした。
「真面目な話、グランエヴァーの近くで不審者が出たみたいでな。一人で帰らせるのは危ないと思って、仕事帰りに迎えに来たんだ」
「不審者?」
「俺も詳しくは知らないが、なんか意味不明なことを叫びながら歩き回っていたらしい。話しかけられた人もいるみたいだ。店長には挨拶ついでに事情を話しておいたから、このコーヒーを飲んだら帰ろうぜ」
「……ええ、そうしましょうか」
ウィステリアはそのとき、少しだけ嬉しそうにしていた。
「そうだ、店長のことなんだけど」
「店長がどうしたんだ?」
「良い人なんだけど、私の着替えを手伝うときの目がちょっと怖いのよね。例えばそう、獣みたいな……」
「ああ〜…… あの人、病気かってレベルで重度のコスプレマニアだからな。同じ女なんだし、少しだけ我慢してくれないか?」
「だけど、胸とかも触ってくるし……」
「次に妙な真似をされたら、この防犯ベルを見せつけろ。奴には効果抜群のはずだ」
こうして、ウィステリアの本日最後の仕事は、普段とさして変わらない会話をして終わった。
日が沈み、すっかり暗くなった帰り道。不審者に遭遇することなく、無事グランエヴァーまで帰ることができた。
「ウィス、鍵あるか?」
「はい」
ウィステリアから渡された鍵を鍵穴に差し込もうとしたとき、藤也は気付いた。
「鍵がかかってないんだが……」
「……あら?」
最後に部屋を出たのはウィステリアだ。ウィステリアが鍵をかけ忘れたことになる。
実は、ウィステリアはこれまで何度か鍵をかけるのを忘れ、バイトに向かっている。最近やっと習慣になってきたと思ったが、まだまだ口煩く注意する必要がありそうだ。
藤也は非難の目でウィステリアを見る。当のウィステリアは、心外そうな表情を浮かべている。
「何度も言ってるだろ、出かけるときは鍵をかけろって! 何か盗まれたらどうすんだ」
「ちゃ、ちゃんと鍵はかけたわよ!」
「現に開いてんだろうが」
何か言いたそうな表情のウィステリアだが、鍵が開いている事実を前にして、反論の余地はない。認めるようにしゅんとする他なかった。
「一応、荒らされてはいないな……」
誰かが部屋に侵入した形跡はないし、貴重品も取られていない。
安堵のため息を吐く。空き巣がクローゼットを調べて、そこから異世界の存在が発覚する可能性だってあるのだ。
「次は気を付けろよ、本当に」
「……悪かったわよ」
ウィステリアの謝罪の言葉を聞き届けた後、藤也はそんな彼女を慰めるように笑った。
「まっ、過ぎた話はここまでにして。仕事頑張ってるみたいだな、安心したよ。ご褒美にケーキを買ってきたぜ」
「本当!?」
藤也は冷蔵庫から、買い置きしていたホールケーキを取り出す。
現金なもので、一瞬でウィステリアに笑顔が戻る。買ってきた甲斐があるというものだ。
二人でケーキを食べ終わる頃には、ウィステリアが元の世界に帰る時間になってしまった。ウィステリアが仕事をしてから時間が過ぎるのが早いと愚痴っていたが、そんなものだ。それに、明日になればどうせまた戻ってくるのだ。
クローゼットの扉を開けて帰る間際、ウィステリアは何かを思い出したように振り返る。
「その…… 今日はありがとね、迎えに来てくれて。嬉しかったわ」
藤也は予想外のお礼の言葉に目を丸くした後、戯けるように笑った。
「何照れてんだよ。ベレッタ様を引いたときは、抱きついて愛してるって言ってたくせに」
「あ、あのときはハイになってたのよ! お礼の言葉くらい素直に受け取っておきなさい!」
「へいへい、どういたしまして」
「まったく……」
そう言いつつ、ウィステリアはどこか楽しそうだ。
「それじゃあ、またね」
ウィステリアがワープホールの中に消えるのを、藤也は見送った。
明日になれば戻ってくる。何の根拠もないのに、藤也はそう信じていた。
しかし── 翌日、ウィステリアはクローゼットから現れなかった。
†
ヴェーロ学園の授業が終わった後、ウィステリアはジャックの部屋に向かった。
普段なら断るところだが、ジャックから「大切な話がある」とまで言われたので、面倒ながらも行くことにしたのだ。
ジャックの言う大切な話について、大体の予想がついていた。
最近、ジャックが露骨にアプローチを仕掛けてくるのだ。食事や遊びに誘われた回数は、両の指では足りないくらいだ。それら全部を受け流してきたので、玉砕覚悟で告白するしかないと思ったのだろう。
この際なので、ジャックの告白をキッパリ断るつもりでいる。毎回、断る理由を考えるのも面倒になっていたところだ。
「待っていたよ。ようこそ、ウィステリア君」
部屋の前に着くと、ジャックが出迎えた。ノックをする前に現れる辺り、首を長くして待っていたのが窺える。
「お邪魔するわね」
椅子に座り、ジャックと適当な世間話を交える。
だが、ウィステリアはいつまでも無駄な時間を過ごすつもりはなかった。
「それでジャックさん、大切な話って何かしら?」
途端に、ジャックの目つきが変わった。
今から告白しようとする男の目ではない。罠にかかった獲物を見るような、狡猾な目だ。
「君は、僕が愛の告白でもすると思っていたのだろうけど、それは違う。もっと大切な話── そう、君のクローゼットについてだ」
「!?」
心臓が飛び跳ねた。
動揺が顔に出ないように、必死に抑え込む。
「……私のクローゼットが、どうかしたの?」
「とぼけなくても、君のクローゼットが未知の国に繋がっていることはとっくに知っているよ」
そこまで知られてしまっては、もう誤魔化す余地はない。
築き上げたものが崩れ落ちるような音を、ウィステリアは確かに聞いた。
ジャックはどうやって、クローゼットの秘密を知ったのだろうか。誰にも話していないから、秘密が漏れるはずないのに。
「実は昨日、君の部屋を訪ねてね。呼びかけても全然反応がないから、心配して中に入ったんだ。そしたら君がいなかったから、部屋を調べさせてもらった」
「はぁ!?」
鳥肌が立った。前半はまだしも、後半は聞き流せる言葉ではない。部屋を調べて、この男は何をするつもりだったのか。
最近ニホンで覚えた、ストーカーという言葉が脳裏に浮かぶ。
油断していた。こんな理由で秘密が暴かれるなんて、思いもしなかった。
「黙って部屋に入った挙句、なに人のクローゼットを勝手に開けてるのよ! この変態!」
「卑しい気持ちは全くないよ。僕はただ、君が何をしているのか知りたかっただけなんだ。僕の誘いを断ってまで、何をしているのかね」
ジャックの様子から嘘は感じなかった。卑しい気持ちはないと言うが、それが逆に恐怖を煽る。
「あっ…… まさか、昨日の不審者ってあたなのこと!?」
「フシンシャ? ああ、言葉は通じるようだったから、少し情報収集をしたんだ。どうやらあの国は、遠く離れた場所にあるらしいね」
昨日バイトに行ったとき、ウィステリアには鍵をかけた記憶が確かにあったのだ。
それでも鍵は開いていたので、自分の勘違いと思うことにしたのだが、本当の犯人はジャックだったのだ。
濡れ衣を着せられたが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、ジャックが異世界を知った今、何をしようとしているかだ。
「あなたはこれから、どうするつもりなの……?」
「どうするもなにも、このことは王に報告するに決まってるじゃないか! あの国を征服して、未知の技術を僕たちヴェーロ王国のものにするんだ! そうすれば、あの国を見つけた功績を与えられて、僕はもっと偉くなれる!」
ジャックは興奮で目を見開いている。
ウィステリアが想像する限り、最悪の回答だ。
「征服って…… 本気で言っているの!?」
「本気だよ。最強のヴェーロ王国軍が負けると思ってるのかい?」
ヴェーロ王国軍は、この大陸では最強だ。周囲の国を武力で征服し、今の領土まで広がった。この国の人々は、ヴェーロ王国軍がこの世で一番強いと信じて疑わない。
だが、ヴェーロ王国は負ける。長い間あの世界にいたからこそ、歴史的大敗を喫すると断言できる。馬と槍だけで、どうやってニホンの戦闘機に勝てというのか。
それに、あの世界にあるのはニホンだけではない。ニホンよりもっと大きく、強い国だってある。最悪この世界を巡って、チキュウ全土で大きな戦争が起きる可能性だってある。
あの街が、トーヤたちが戦火に巻き込まれる。その情景を想像するだけで、恐怖がウィステリアの心を撫ぜるが、同時に石のように固い覚悟を抱かせる。
クローゼットを隠す。それが無理なら、いっそ壊してしまう。それでワープホールがなくなるかは不明だが、いざとなったらやるしかない。
だから今は、ジャックに協力するフリをして──
「だから僕はさ、このことを一緒に王に報告しようって提案するつもりだったんだけど……」
ジャックはテーブルの上に身を乗り出し、ウィステリアに顔を近づける。
「君ぃ、僕を裏切るつもりだろ。顔に出てるんだよ」
「!」
逃げようとした次の瞬間、口元に布を当てられる。
薬品のような刺激臭が鼻を突き抜け、頭に靄がかかったような気分になる。立って逃げようとしても、足腰に力が入らない。
おそらく、即効性の睡眠薬。ジャックのような貴族なら、違法薬物であろうと用意するのは難しくない。
以前のウィステリアであれば、裏切ることを見透かされはしなかった。裏切るその瞬間まで、本心を悟られることはなかった。
しかし、心に余裕ができてしまった今、鉄仮面ではいられない。ウィステリアの本心が、僅かながら表情に表れてしまった。
「本当は、こんな用途で君に使うつもりはなかったんだけどね。あの国がそんなに気に入ってたのかい? 僕が思うよりずっと前から、何度も行っていたのかな?」
意識を手放さないようにするだけで精一杯だ。だが、それも長く続かない。
「君は変わったよ。本当に、御し易い女になった」
自分が変わったのは自覚している。だが、この男に良いように言われるのは不愉快だ。
どうにか言い返してやりたいが、口が動かせない。
「でも、ちょうど良かったかもしれないな。あの国を見つけた功績は、全部僕一人のものになる。このことを黙ってた君は、何かしら罰が下るかもしれないけど── 心配しなくていい。僕が君の面倒を見てあげる」
最後に、そんな悍しい言葉を聞いて意識が遠退いた。
「──……っ!」
目を覚ますと、固く、冷たい床の上で寝ていた。
燭台の灯りが辺りを照らしている。石壁に囲まれ、鉄の檻が通路に出るのを阻んでいる。
ここはどこで、何時間寝ていたのか。疑問は尽きないが、すぐに立ち上がる。
「誰か、誰かいないの!?」
助けを求める声が、虚しく反響する。
人がいないと思ったが、乾いた靴の足音と共に、灯りが近づいてきた。
「騒いでも無駄だよ、ウィステリア」
「ジャック……!」
檻の向こうに、ジャックが余裕ぶった顔で佇む。
「ここは僕の家の地下牢。どれだけ叫んでも、君の声は絶対に届かない。喉を痛めるだけだから、やめた方が賢明だと思うけど?」
「さっきの薬物もだけど、これは立派な犯罪よ! こんなことをして、許されると思ってるの!?」
「そうだな…… 今頃、ウィステリアがヴェーロ学園から消えて大騒ぎだろうね。でも、これから僕に齎されるであろう功績に比べれば、大したことじゃない。余裕で帳消しにできるさ」
「今ならまだ引き返せるわ、馬鹿なことはやめなさい! ニホンと戦争したって、この国は絶対に勝てない!」
「明日の朝、王と面会する予定だ。例のクローゼットは持っていくよ。楽しみに待っているといい」
それだけ言うと、ジャックは立ち去った。やはり説得は無理だ。
当然、このまま黙って待つつもりはない。制限時間は明日の朝。それまでに、この牢獄から脱出しなくては。
何か使えるものはないかと、辺りを見回す。
部屋の隅に、握り拳大の瓦礫が転がっている。
瓦礫を手に持ち、檻と交互に見比べる。長年手入れしていなかったのだろう、檻はかなり老朽化している。
「檻を叩いたら、広げられるかも……!」
鉄の檻に、瓦礫を思いっきり叩きつける。
甲高い音が響き渡る。鉄の檻には小さな傷がつき、僅かに歪む。しかし、人が通るには程遠い。
腕が痺れる。檻が歪むよりも先に、腕が駄目になるかもしれない。
それでも、ウィステリアは諦めない。何度でも何度でも、瓦礫で檻を叩く。
「させない……! 戦争だけには、絶対にさせないわ……!」
ウィステリアを突き動かすのは、無意識のうちに口に出した想い一点だった。
何時間たっただろうか。手の皮膚は破れ、血が滲んでいる。スカートの裾を破り、手に巻き付ける。興奮状態にあるせいか、痛みはそれほど感じない。
必死に叩いて、叩き続けて、やっと人が通れるくらいに檻が歪んだ。
檻と檻の間に、体を強引に捻り込ませる。痛みも無視して、ひたすら身をよじる。
「──抜けたっ!」
檻の向こうに抜け出せた。しかし、喜ぶ暇はない。
地下牢の通路を走ると、重厚な扉に突き当たった。
今回ばかりは、鉄の檻のように壊せないだろう。鍵がかかっていたら、どうしようもない。祈りながら、ドアの取手に手をかける。
地面を擦りながら扉が開いた。幸いにも、鍵はかかっていなかった。
ジャックの言葉を信じれば、ノーツ家の屋敷の廊下に出た。窓から光が差し込んでいる。ジャックは明日の朝に城へ向かうと言っていたが、間に合ったのだろうか。時間の感覚がない。
ノーツ家のメイドらしき若い女を見かけた。
「そこのあなたッ!」
「ひっ!?」
ウィステリアの剣幕に押され、ノーツ家のメイドは短く悲鳴を上げる。
「あ、あなたはウィステリア様ですか!? どうしてここに!?」
「説明は後よ! それよりジャックはどこ!?」
「け、今朝方、城にお出かけになりました!」
「〜〜!」
いても立ってもいられず、その場から駆け出す。
「ウィステリア様!?」
ノーツ家の人間が驚いた顔で見ているが、気にしている余裕はない。
屋敷の外に飛び出す。ノーツ家の馬を奪って、城に先回りするしかない。そして、クローゼットを奪還するのだ。
でも、先回りなんて── できるのか、本当に? 馬に乗ったこともないのに。それに、どうやってクローゼットを奪還する?
ウィステリアの足が止まった。諦めるしかないのだろうか。そんな気持ちが一度でも湧いてしまえば、決壊した川の濁流のように止められない。
「ごめんなさい、トーヤ…… ごめんなさい……!」
目から涙が零れ落ち、その場に崩れ落ちる。
丸一日檻を叩き続けていたのだ。精神的にも、肉体的にも、既に限界を迎えていた。
「ウィス──」
トーヤの声が聞こえる。しかしそれは、罪悪感から来る幻聴だろう。トーヤがこの場にいるはずないのだから。
「ウィス!」
確かに名前を呼ばれ、反射的に呼ばれた方に顔を向けると、そこには紛れもなくトーヤがいた。幻聴でも、幻覚でもない。
「やっと、やっと見つけた!! ウィスが全然来ないから、心配してこっちの世界に来たんだよ! どこなんだ、ここ!? 絶対ヴェーロ学園じゃないよな!?」
トーヤが来てくれて嬉しい。嬉しいが、今はタイミングが悪過ぎる。
いつからこっちの世界に来ているか知らないが、トーヤはウィステリアを探し回っていたのだろう。
その間に、クローゼットは城に持ってかれてしまった。トーヤの恐れていたとおり、二度と元の世界に戻れないかもしれないのだ。
「ごめんなさい! クローゼットの秘密、ジャックに知られちゃったの! そのまま城に持ってかれて…… もう、ニホンと戦争を止められない……!」
その言葉を聞いて、トーヤは怒るでもなく、動揺するでもなく、励ますように笑った。
怒鳴られることを覚悟していたウィステリアは、予想と現実の違いに混乱する。
「ウィステリア、立てるか? ちょっと来てくれ」
「……?」
差し伸べられたトーヤの手を掴み、立ち上がる。
手を引かれるがままに歩いた先は、屋敷の裏に広がる小さな森だった。
森の中を歩くと、そこには布に包まれた長方形の物体があった。木の枝や葉っぱを被せ、巧妙にカモフラージュしている。ここまで近づいて、初めてその存在に気付けた。
見覚えのある形だ。胸が高鳴る。暗闇の中で、一筋の光を見つけたような気分だ。
「前言っただろ。同じクローゼットを用意すれば、ダミーとして役に立つって」
トーヤは得意げに笑う。そして、布を取り払う。
露わになったのは、ウィステリアのクローゼットだった。本物であることを示すように、トーヤはクローゼットの扉を開く。クローゼットには見慣れたワープホールが渦巻いている。
感情がぐちゃぐちゃになり、言葉が出ない。
「只事じゃないと思って、ダミーとすり替えといたのさ。ほら、日本で買った俺の新しいクローゼット。似てるものを一緒に選んだだろ?」
もしものとき、ダミーとして使うように冗談っぽく言いながら、新しいクローゼットを部屋に置いたのを思い出した。
あのサイズなら、ダミーとしてこちらの世界に持ち込むのも十分可能だ。
「誰にも見られないように、一人であの倉庫みたいな建物からクローゼットを運ぶの、めちゃくちゃ大変だったぜ」
トーヤは心底疲れた顔で来た道を振り返る。
ジャックがクローゼットを隠していたのは、トーヤこ視線の先にある小さな建物だ。他の建物と比べるとみすぼらしく、きっと物置くらいにしか使われていないのだろう。
下手にノーツ家の誰かに見つかれば、手柄を取られる可能性がある。だからジャックは、誰も立ち入らない建物を隠し場所に選んだのだろう。
「なら、ジャックが城に持ってったのは……」
「ダミーのクローゼットだな。当然、異世界になんか繋がっちゃいない。持っていった奴は、細かい違いまで気づかなかったみたいだ」
トーヤはしてやったりと笑う。
今頃、ジャックは普通のクローゼットを王の前でお披露目しているだろう。その光景を想像したウィステリアは、つられて笑う。
「手もこんなにボロボロになって…… 本当に、よく頑張ったな」
トーヤの労いの言葉に、ウィステリアは泣き笑いを浮かべて応えるのに精一杯だった。
†
その後、ウィステリアはヴェーロ王国の兵士に保護された。エーネハイネ家の命により、ヴェーロ王国の兵士たちはウィステリアを捜索していたのだ。
皮肉なことに、ヴェーロ王国の兵士にウィステリアの発見を連絡をしたのはノーツ家の人間だった。まさか彼らも、嫡男のジャックが誘拐、監禁をしていたとは思わなかっただろう。
クローゼットの回収は、ウィステリアがこちらの世界で特に信用する人物、エーネハイネ家の執事長に頼んだ。
彼は絶対に裏切らない。何故なら、彼の不倫の証拠を握っているから。使える駒を探していた時期、偶然彼の不倫の噂を耳にし、誤って彼宛ての怪しい手紙がウィステリアの元に届き、自分宛ての手紙と勘違いして中身を読んでしまったのだ。今となっては、若気の至りである。
彼の不倫相手は、よりにもよって相手は大物貴族の妻だ。彼が言うには、相手が危険であれば危険であるほど燃えるらしい。このことが公になれば、彼は今の地位を失うどころか、最悪その大物貴族に暗殺されるだろう。
若くして執事長の地位に収まるだけあり、彼は優秀だ。その手際は流石の一言で、依頼した翌日にはクローゼットが手元に戻っていた。中身を見ないように厳しく言ったが、鋭い彼なら勘付いているかもしれない。
だとしても、ノーツ家の土地の中にいつまでも放置するよりはマシだろう。
諸々の用事を終えたウィステリアは、実に一週間ぶりに世界を越え、トーヤの部屋に訪れた。
ガンコレクションの一週間非ログインによる影響など、確認したいことは様々あったが、トーヤに事の顛末を伝えるのが先だ。
「色々な人に事情を聞かれたんだけどね、異世界に繋がるクローゼットなんて誰も信じていなかったし、私は不幸な被害者として扱われたわ」
「そりゃそうだ。それで、犯人のジャックはどうなったんだ?」
「退学したわよ。異世界に繋がる不思議なクローゼットを見つけたと騒いでおいて、いざ城に持って来たのは普通のクローゼットですもの。大恥なんてレベルじゃないわ。あれじゃあ、もう人前には出られないわね」
「うっわ…… ちょっと同情するわ」
「しかも、私を地下牢に監禁したし。その辺りの罪も裁かれるでしょうね」
「前言撤回。微塵も同情なんてしてやらねえわ。ざまあみろ。そういえば、俺のクローゼットは戻ってくんの?」
「それなんだけど、ジャックが壊しちゃったのよ。ダミーを掴まされたのが相当悔しかったみたいね」
「いよいよぶん殴っても許されるよな、俺。あれ高かったんだぞチクショウ!」
こんな他愛のない会話をいつまでも続けていたいが、そうもいかない。
今日、どうしてもトーヤに聞きたいことがある。そのためにトーヤの部屋に来たと言っても、過言ではない。
真剣な話をしようとする空気を感じ取ったのか、トーヤも真剣な表情を浮かべる。
「私、異世界について軽く考えていたわ。一歩間違えれば、戦争が起こっていた。大勢の死人が出てたわ」
「……かもしれないな」
「ヴェーロ学園でも鍵付きの部屋にしてもらったし、同じことは起こらないと思う。それでも、また違う理由で今回みたいなことが起きるかもしれない」
今回上手く隠し通せたのは、単に運が良かったに過ぎない。
トーヤがクローゼットをすり替えている最中、誰かに見つかっていたら。
ジャックがクローゼットの細かい違いに気付いていたら。
何より、ジャックが手柄を独り占めしようとせず、ノーツ家全体がクローゼットの秘密を王に伝えようとしていたら。
一つでもボタンを掛け違えていたら、異世界の存在は公になっていた。
また似たようなことが起きたとして、隠し通せる保証はない。同じような幸運は、二度も続かないだろう。
「トーヤは、このクローゼットを壊すべきだと思う?」
「いいや、壊さないべきだ」
心配性のトーヤがそう答えるのは、少し意外だった。
「仮にクローゼットを壊したとして、ワープホールがなくなるとは限らない。クローゼットだけ壊れて、ワープホールだけ残るってこともある。そうなりゃもう、隠しようがない。情報がないうちは、何事も現状維持が一番だ」
いい加減、トーヤとの付き合いも長い。
顔を見れば、その言葉だけが理由の全てでないことくらい、察することができる。
言葉の続きを促すように黙っていると、トーヤは観念したようにそっぽを向く。
「……とか言って、本当はウィスと会えなくなるのが嫌なだけだったりしてな」
聞こえるかどうかギリギリの声量で、そう呟いた。
そっぽを向いた先に回り込む。自分は今、意地悪な表情を浮かべているだろう。
トーヤは逃げるように首を動かし、頑なに顔を見せようとしない。
「しつこいぞ、ウィス」
「わかりましたわかりました。もう顔は覗かないから、さっきのセリフを一度言ってみなさい」
「うるせえ、もう言わねえ」
その後、どちらの国の歴史にも、異世界に繋がる不思議なクローゼットが登場することは、一度もなかった。