第一話 ただいま
「ただいま、ニコ」
向井空哉が仕事を終えて帰宅すると、一匹の三毛猫が出迎えた。
「みゃあ」
猫は可愛らしく鳴くと、空哉の足元にすり寄ってきた。気を良くした彼は、猫を優しく抱き上げた。
「よしよし。いい子だったな」
「にゃ」
「君は可愛いな。フフッ……」
「にゃーう」
猫はさらに甘えたように鳴いた。
こんな日常も悪くない、自分に相応の幸せだ、と空哉は思うのだった。
数週間前、強い雨が降る日の帰り道、向井空哉は車にひかれそうになった猫を偶然見かけ、身を挺して救った。その結果、降りしきる雨と車が跳ねた泥水にまみれたが、なんとか無事だった。
空哉に助けられた猫は怯えきっていて動けない。
弱弱しい鳴き声をあげる姿を見て、彼はなんとなく放っておけない気持ちになり、猫を抱えて家まで急いだ。
帰宅後、ずぶ濡れになった猫の身体をタオルで拭き、冷蔵庫の中から食べられそうな物を試しに与え、一通り介抱が終わる頃には、猫は警戒を解き、空哉に身体を委ねていた。
中途半端に手を出してはいけない。ニコと名付け、責任をもって飼うことにしたのだった。
空哉は特に猫好きなわけでもなく、成り行きで飼い始めたのだが、小さな癒しの存在は、無愛想な彼の表情筋を少しずつ緩ませた。
向井空哉はもともと自由奔放で楽天的な性格だった。
しかし、周囲を省みない身勝手な行動が、人間関係で度々トラブルを起こしていた。俗に言えばコミュ障だが、それは優しい言い方である。
彼が自身の愚かさをようやく自覚できたのは、就活に失敗してからだった。
企業にアピールできることが何も思い浮かばなかったのだ。
それからの彼はただ従順だった。今まで適当に聞いていた親の言うことを、ちゃんと聞くようにして家事を学び、ハローワークの職業カウンセラーから紹介された職業に就いた。
そうして親元を離れ、独り暮らしを始めた空哉に訪れたのは――――自立できた達成感でなく、
――――孤独感だった。
連絡が取れる友人などいない。
婚活も考えたが、やるなら本気で取り組まなければ金の無駄だと思い、できずにいた。
それに、自分が誰かと温かな家庭を築く姿を、まったく想像できなかった。人に迷惑をかけてきた自分が、人を幸せにすることなんてできるわけがないと。自己嫌悪と恐怖が募るばかりだった。
そうして彼は人恋しさを紛らわそうと、ひたすら仕事に邁進した。休日は、地域のコミュニティセンターでたまに開かれる交流会に参加する以外は、ぼうっと過ごすだけの日々だった。
そんな退屈な日々が、ニコと出会ってから変わりつつあった。
空哉が帰宅して「ただいま」と言えば、小さな体躯で玄関までチョコチョコ歩いて来ておかえり代わりに「みゃあ」と鳴いてくる。
彼が呼べば近くまで寄ってきて、甘えた声で鳴いて丸くなる。膝の上に乗せて、毛並みを優しくなでていれば、たちまち時間が過ぎていく。
それが最近の日常だった。
平凡ながらも、独り暮らしをしていたときよりは明るく楽しい日々が続くと、彼はそう思っていた。
「ニコ、先に食べていてもいいんだよ?」
ペットフードは既に餌入れに入っているが、ニコは台所で空哉が夕飯の支度する姿をじっと見ていた。ニコは賢いようで、空哉をおいて先にご飯を食べようとしなかった。
「わかった。少し待っててくれな」
空哉が苦笑しながらニコのほうを見ていると、キッチンタイマーが鳴り、スパゲティーソースが茹で終わったことを知らせた。
「いただきます」
空哉がそう言うと、ニコはようやくペットフードを食べ始めた。家で共に食事する相手ができたことは、ささやかな喜びだ。
夕飯のレトルトのカルボナーラを手につけようとしたが、時計を見やる。
「そろそろニュースか」
テレビの電源をつけると、いつものニュース番組が始まった。まずは国会論戦を、次に国際情勢を、あるいは痛ましい事件を、またはスポーツ選手の活躍を伝えていく。空哉はそれらを黙々と見ながらスパゲティーをすすっていった。
「ん、もう食べたのか」
ニュースを見ながらじっくり食べているとニコが近くに寄ってきていた。餌入れは空になっていた。
「僕のご飯が欲しいのか? ダメだ」
「にゃう……」
空哉はニコの喉をなでてやると、残念そうだったニコの表情が微笑むように変わる。
そんなニコを見て、空哉も頬を緩ませるのだった。
物凄く遅筆です。面白いアニメがあったら更に遅れるかもしれませんのでご了承下さい。