保健室のふたり
こんな本がある。
ある所に冴えない男子高校生がいて、明朗快活な女子高生と出会って、色々あって人間関係は素晴らしいと締めくくるような本だ。言いたいことはよく分かる。それが多くの人にとって手放しで褒められる内容だと頭の悪い俺ですら理解できる。
だからこそ、思う。彼女にとってその本は、どんな意味があるのだろうかと。放課後の喧騒を尻目に黙々とページを捲る彼女に、人間関係を説く意味があるのかと。
「あら、藤井くんもう来てたの。いつものコーヒーで良いかしら?」
「すいません、お願いします」
養護教諭の明石先生が、甥っ子でも来たかのような笑顔でコーヒーを沸かしてくれる。目上の人にお茶を入れてもらう事に居心地の悪さを覚えていたのも今は昔、最近は少し目線が泳ぐぐらいである。
そして決まって視線の行き着く先は、今日も元気に保健室登校の彼女の姿である。
「なぁ桜庭、そういえばそろそろ文化祭だけど」
どうすんの、お前という言葉は飲み込む。ようやく俺に気づいたかのように、彼女、桜庭静は本を閉じる。
「……単位、他で補填されるなら出ないけど」
彼女は眉を最小限に動かして、行きたくないと顔に書く。
「そりゃそうだよな」
「いいじゃないの、行ってくれば。図書館で本読んでれば良いんでしょ? 簡単簡単」
明石先生が俺達の前にそれぞれコーヒーを置きながら、およそ教師らしくない事を言っている。
「そんな裏技が」
「裏技なのかなぁ」
まぁ結構裏技使う人多いよと言おうと思ったが、やめた。人が多いなら行かないと彼女は言いかねないからだ。それぐらい彼女にとって人間関係は煩わしいものだった。
「藤井はどうなの、文化祭」
「そうだなぁ」
携帯のスケジュール帳を開いて、当日の予定を確認する。自分でもよく安請け合いしたなと苦笑いしてしまう。
「えーっと、クラスでやる喫茶店の接客隊長に、妹の美術部の展示の手伝いに仲の良い先輩に頼まれたクラスの劇の手伝いかな」
「すごい藤井、漫画の人みたい。私が寝ている間にそれだけのことが出来るだなんて」
「いやちゃんと回れば良いだろ」
しかもいつの間にか、文化祭は行かない事が決定したらしい。まぁ普段の授業ですら来ない桜庭に期待する自分の方が間違いだったのだ。
「それで……今日はどんな用事?」
コーヒーに口をつけてから、彼女はそんな事を言う。用事、という言い方は少し正確ではない。俺はクラス委員で、担任に保健室登校の桜庭の様子も伺って欲しいと頼まれている。だからここに来てこうして雑談をした時点で、ある意味目標は達成したとも言える。
「用事って程でもないけど」
のだけれども、桜庭は有り体に言えば頭が良かった。授業に出てはいないのに模試は全国何番目とかそういう冗談みたいな存在だ。どちらかと言うと彼女のほうが『漫画の人』らしい気がしないでもないが、それを気にする様子はない。だから俺はそんな彼女に、気になった事を話すのが恒例行事になっていた。
「サッカー部にいる横山先輩って、キーパーだったんだけど……この間の県大会の決勝の後半でPK入れられちゃってさ。引退試合が自分のミスで負けたなんてさぞ落ち込んでるだろうと思ったんだけど」
今日はどういう繋がりだったか覚えていないが、気がつけば顔見知りになっていた先輩の一人の話だ。キーパーらしく大柄だけど、面倒見の良い優しい先輩である。
「清々しい顔して言ったらしいんだ、『やるべきことはちゃんとやれた、悔いなんてどこにもない』って。一つのことに三年間も熱中したら、そんな感じになれるのかな」
同級生のサッカー部員に聞いた話だと、妙に落ち着いた顔でそう言ったらしい。それにどこか、憧れめいた物を感じてしまうのは帰宅部の性なのだろうか。
「それ、帰宅部の私達が話し合って結論でると思う?」
「思いません」
「他の三年生は?」
「泣いてたみたいだよ。レギュラーの人は殆ど」
「私、サッカーってよくルール知らないのだけれどPKって……ファウル? が起きてからだったかしら」
「そうだよ。ペナルティーエリアってゴールの近くでファウルされたらPK。それ以外だったらフリーキック」
「ふーん」
桜庭は短い質問を俺にしてから、またコーヒーに口をつける。つられて俺も一口飲めば、少し頭がスッキリしたような気分になれる。
「まぁ、キーパーって責任重大だからさ。ずっと後悔するよりいいのかな」
「でも、その態度が引っかかったから私に話してるんでしょう?」
「おっしゃる通りです」
即答してしまう。横山先輩の人となりは知っている。だから彼が引退試合の後に取る態度は、一緒に涙を流す事だと思ってしまう。
「推論だけど、良いかしら」
桜庭の言葉に、俺はゆっくりと頷く。
「『やるべきことはちゃんとやれた』のやるべきことって、本当にサッカーの事だったのかしら」
「……サッカー部なのに?」
「だって自分のせいで負けたんでしょう? それを周りの人が泣いてる時に言えるものなのかしら。どうなの?」
「そりゃ、まあ……難しいだろうね」
想像する。控室で皆が泣いているというのに、一人だけ淡々と帰る準備をする先輩。後輩になにか言われて、答えた言葉がやりきったから。
それだけで、人の顔を伺いがちな俺の胃は痛くなる。余程の事でも無い限り、そんな態度は取れないだろう。
「ならそういう事。その先輩にはサッカーより他の部員の心証よりも重要な事があって、それをやりきった」
「やりきったって……横山先輩はずっとゴール守ってたのに? あ、でもそうかハーフタイムがあるか」
反射的に出た言葉に、後出しの思考がついてくる。ハーフタイムであれば何か行動する時間はあっただろうと納得する。少しだけ頭が良くなった気がした。
「いえ、それは難しいんじゃないかしら。一般的に試合結果が決まる前に、責任重大なキーパーが自由にウロウロしてたらおかしくない?」
一瞬で砕け散った自信が、俺の頭を下げさせる。試合が決まる前にそんな勝手な事をしているなら、俺の耳に入ってくる情報は『最後の引退試合のハーフタイムで横山先輩がどこかに消えた』になる筈だ。そして現実はそうなっていない。
「じゃあ、桜庭の話をまとめると……横山先輩は自分の引退試合でサッカーよりも大事な何かをやりきった、と」
「でしょうね。当たってる保証はどこにもないけど」
「あ、わかった。この試合で負けたら人質の子供が解放されるとか……」
ほらよく、日本代表が凡ミスした時のネットのジョークみたいに。
「藤井がそれでいいならいいわよそれで」
「いや、ごめん嘘。できれば続けて欲しい」
ほんの少しだけ満足そうな顔をして、桜庭が口を開く。
「続ける前に一つ聞きたいんだけど、もしかしてファウルしたのってその先輩?」
「あ、よくわかったね。いやこう凄かったらしいよ、相手のエースがこう一直線に向かってきて、ギリギリで先輩が足を掴んでさ。褒められる類のプレーじゃないのは当然だけど、ゴールを守ろうとする横山先輩の熱意が伝わってくるような気がするね」
まさに一瞬の攻防。あくまで気にするだけだけど。
「走ってる時に足掴んだの? 怪我とかしないかしら」
「したらしいよ、相手の選手は」
そこで桜庭は表情を緩め、一人で数回頷いた。これがいつもの、彼女が結論に至ったときの合図だった。
「じゃあ、それじゃないかしら」
「それって?」
「ファウル……というよりその相手に怪我を負わせる事が目的だったのよ。だからPKの結果なんてどうでもよかったの。だっておかしいでしょ、試合自体がどうでもいいならそんな褒められない事しないはずよ」
一瞬言葉が詰まる。確かに相手に怪我までさせておいて、やりきったとは普通は言えない。事実を並べればそのとおりだ。相手に怪我をさせて、それが原因でPKになり、敗北して、やりきったと言い切る。
「いやいや、だけど無いってそれは。だって横山先輩、びっくりするぐらいいい人だよ? いつもニコニコしてて後輩にも優しくてさ」
それでも、俺は彼を知っている。練習中も優しいと二年生でも評判で、ほとんど接点のない俺にも笑顔で接してくれるような人だ。それが、相手を怪我させて大満足です。納得できない自分がいる。
「そういう人ほど怒ったら怖いって言うじゃない。それにその怪我した人、県大会で勝ってしまったから次は全国だかに行くんでしょう? さぞ無念でしょうね、ベンチでひたすら指を咥えているのは。きっとその先輩がやりたかった事は、サッカーじゃなくてそういう事だったのでしょうね」
「……おっかない事言うなぁ」
「まあ、正解かどうかなんて私には無関係な話だし。答え合わせがしたかったら、その怪我した人と先輩の関係でも探ってみればいいじゃない。藤井の自慢の人脈で」
そこで俺の言葉は詰まる。自分にはそれが出来る。安請け合いと八方美人と小心者を積み上げて得た人脈を使えば、彼女の言葉が事実かただの推理なのかはっきりさせられる。後者であって欲しいと願うのだけれど。
「はい、じゃあお話も終わった所で下校時間です。私も帰って旦那の晩ごはん作らないと」
ぱん、と手を叩く明石先生。現実に引き戻されたような、目が覚めたような感覚が襲えば、もう窓の外はオレンジ色に染まっていた。
「……帰るかな」
少しだけ、聞かなきゃ良かったかなと後悔する。後味の悪さのせいか、手に持った鞄がずっしりと重かった。
「ばいばい藤井」
「はいはい桜庭さん? あなたも帰るんだからね?」
少し不満そうな顔をした桜庭と一緒に昇降口を目指す。家にも帰りたくないのかなと妙な勘ぐりをしそうになったが、下衆なようで途中で止める。代わりに向かってきた大柄な三年生に意識が全部集中してしまった。
「あ、横山先輩」
噂をすれば、で良いのだろうか。一人、廊下を歩く先輩に思わず名前を読んでしまった。
「どうした藤井か。こんな時間まで……」
彼は、やはり優しそうな笑顔をしていた。そして横にいる桜庭の顔を見て、ニヤけて口だけ動かした。彼女? そう動いたのは間違いない。
「違います、学級委員として保健室登校の生徒と相手をしていただけです」
「相変わらず忙しそうだなあ」
さっきまでの桜庭の推論が頭を過る。横目で彼女を伺えば、興味なさそうに外の景色を眺めていた。
「あ、その……」
本当に怪我をさせたかったんですか? そんな不躾な質問を、好奇心に負けつい口から出そうになるけど。
「横山先輩。三年間、部活お疲れ様でした」
頭を下げてそう言った。むしろ、言えたような気がした。
「おう、ありがとな」
ほんの少しだけ微笑んで、先輩はそのまま校舎を後にする。その姿が見えなくなってから、桜庭に制服の裾を引かれた。
「答え、聞きそびれちゃったじゃない」
「それはほら、俺達には資格が無いっていうか」
結局当事者ではない俺達が、何かを言うべきことではない。例え桜庭の推論が正しかったにせよ、踏み込んで良い事じゃない。外野の出来ることは先輩が過ごした事実に頭を下げる事だけ。本人にしかわからないなら、それで良いのだと俺は思う。
「ああ、そういう類の話。だから教室に行きたくないのよ私」
桜庭は両手を広げ、ため息混じりにそう言った。推理は得意かもしれないが、誰もが咽び泣くような人間関係なんて煩わしいことこの上ない。彼女はそういう性格だから、横山先輩に対する俺の態度は呆れるものでしかないだろう。
「まあ先生には教室に連れてきて欲しいとは言われてるけど、個人的に桜庭は教室に来なくていいとは思うよ」
「どうして?」
真顔で彼女は聞き返すから、思わず顔を背けてしまう。
「そこはほら……華麗な推理で当てて下さい」
放課後の校門を黙って歩いていく彼女と、少しだけニヤけた俺との関係を、いつか解いて欲しいと思った。