一
ヘッドフォンを外すと途端に周囲のざわめきが容赦なく包み込んでくる。シーディショップで立ち呆けている僕のことをざわめきたちは気にもせず、各々の目的に手を伸ばしている。
特設コーナーにはこちらが照れてしまうくらいの大仰な賛美の言葉と、拡大された知り合いたちの顔が並んでいる。「ついに大型新人デビュー」と煽られた彼らの、その真面目腐った顔が、憎らしいが様になっている。
音楽から離れて二年になる。もう、ベースの弦も、それを弾くための指も、すっかり錆びた。これからどれだけ努力を重ねてみようと、時すでに遅く、彼らと同じ位置には立てない。ブランクとはそういうことだ。そんな当たり前のことでも、思うと虚しかった。
ファーストミニアルバムの全国流通を記念したツアーで、地元のライブハウスも回るらしい。そこで僕たちはよく対バンとして当てられていたが、きっと蓄積していく戦績にすっかり埋没して久しいことだろう。親友や、あるいは兄弟のように慕ってくれていた記憶も、印刷された彼らの目の奥には、もはやないように見える。
思えば人生の大半を諦めてきた。好きな子も、やりたいことも、続けようと決心したはずのことも、例外なく全てだ。中途半端と言えればまだ良かったが、中途までも進んでいない僕は、何者でもない。ここに居る人間たちからしてみても、僕の価値は路傍の石と同程度だと思えてしまう。ステージの上で汗を掻き音を鳴らしていた僕はもういないし、それを眩しそうに見てくれる人もいない。
言い訳ばかりを先に用意して、何も努力をしてこなかった。悪い癖だ。流されるまま、自分の意思も持たず、優柔不断でありながら自惚れ、意味のない決断をした。
後悔をしているかと言われると、わからない。ただ、今この人生に満足もしていない。それだけははっきりと、嫌にはっきりと、理解できる。
戻れることならば戻りたいと、思ってみることは簡単だ。でも思ってみたところで戻れるわけもない。
ヴォーカルの男にメールをしてみた。気まぐれだ。ライブを観に行ってもいいと思った。でも返って来たのは宛先不明の通知である。
店を出て、片側二車線の国道を流れていく車に視線を向ける。それぞれに何か目的を持っているこの巨大な流れの中に身を投じれば、いともあっさり死ねるだろう。羨望と、嫉妬と、そして自分のうちに確かに存在する虚無感も、一瞬で消えてなくなる。それが楽なのかどうかはわからないが、今よりは、ましだとも思う。
たった一歩足を進めるくらい、何者でもない僕にでも、諦める間もなくできるだろう。
「お兄さん」
そんな声が聞こえて、はっとする。今、確実に死を望んだ自分を、自覚する。
振り返ると、猫がいた。なぜかはっきりと、この猫が声を掛けてきたのだと思った。僕に話しかける人などいないと言う自嘲もあったかもしれない。ファンタジーな妄想は、逃避でしかない。でも猫を見ていると、これは妄想でも何でもないと、どこか強く認識してしまう。それを馬鹿らしいと思う余裕もないくらいに、自分は窮地に立っているのだろうか。
猫は顔を洗いながら、六歩程度の距離を保ったまま、
「僕が盗んであげましょうか」
そう言った。
「盗む?」
前足の肉球を舐める猫の様子は、笑っているようにも見える。
「ええ。あなたの望むものを」
「俺の、望むもの……」
それは、生か。
命のことか。
「違いますよ」すっと姿勢を戻した猫が、何も思わせない目をこちらに向けている。「彼らの、栄光です」
「栄光……」
「あなたが渇望する、これだけは手にしたかったというものを手にした、彼らの未来です」どうしてか、彼の言葉は冗談にも聞こえなかった。「彼らの未来を、僕が盗んであげましょう」
「未来を、盗む」いやそれよりも、「俺が、手にしたかったもの?」
僕は、音楽を続けたかったのか? そんな自覚はない。
それとも、別の何かの話なのだろうか。心当たりもない。
思考に耽っていると、
「あなたはそこで見ていてください」
そうして人ごみに紛れ、猫は存在を隠した。
シーディショップのガラス張りの入り口の向こうに見える知り合いたちが、今、悲しそうな顔をした。
そんな気がする。