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泥棒猫は今日も盗む  作者: 枕木きのこ
「お姉さんの四年間、僕が盗んであげる」
1/7

 家を、飛び出してしまいました。

 四年付き合って、結婚も視野に入れ、お互いの両親にも挨拶を済ませていた彼に、先ほど別れを告げられたのです。原因は、彼の浮気です。職場の、私より二つ若い女の子に惚れ込んでしまい、もうお前とは終わりにしたい、と言われてしまいました。

 もともとセックスレスで、二人で出かけることも少なく、私の家に彼が転がり込んでからも、仕事に行く前とあとの二人で顔を合わせる僅かな時間でさえ、些細なことで諍いを起こしお互いの機嫌が悪くなるのは、確かに事実でした。それでも私は彼のことを好きでいましたし、こんな日が来ようことなど毛頭考えておりませんでした。多分、この私の楽観的思考が、よくなかったんだと、今なら思えます。

 二十代後半となった私を、次に好いてくれる男性はいるのでしょうか。私のみならずこの年代の女性にとって四年間というものがどれほどの意味を持つのか、彼はきっと知らないでしょう。

 出来ることならば、彼と出会う前の、二十三歳の私に、戻りたいと願ってしまいます。

 そんなこと、叶うはずもなかろうに。

「あなたを二十三歳に、戻すことが出来ますよ」

 そんな思考の渦にあったからか、最初、その声は幻聴か何かかと思われたのです。幼い少年を思わせる声音での、背伸びしたような口調は、頭の中で作り上げた妄想だと、思い込んでしまいました。

 ましてや人通りの少ない路地裏で、周囲には、その声に該当するしないを問わず、人などいなかったのですから。

「僕なら出来ます」

 しかも視線をさ迷わせると、あろうことに、声の出処と思われるのは、一匹のロシアンブルーだったのですから、頭がおかしくなったんだわと考えても、無理ないことと承知していただけましょう。

 猫は、私の方を見ていました。何も感じさせないその瞳は、畏怖さえ覚える精巧なガラス玉のようです。

「お姉さん、その四年間を取り戻したい?」

 声と、猫の口の動きは、当たり前に合致しません。思考をするときのように、それは頭の中で響いている風に感ぜられます。

 ですが彼の、その一心に私を見つめる目に、思わずしゃがみこんでいました。

「出来るの?」

 彼は笑った、のでしょうか。

「出来るよ。お姉さんの四年間、僕が盗んであげる」


 目覚まし時計の音を認識した時、私はまたどうしようもない夢を見たものだと思いました。いつものとおり、彼と暮らすアパートの一室で、いつものとおり、目を覚ましたと、そう気楽に構えていたからです。

 彼に話したらきっと笑ってくれると、隣の空虚を見つめてようやく、ある程度までは夢などではなかったのだと、そう悟りました。

 すっかり、悲しくなってしまいました。ただ純粋に、事実が目の前に転がっているだけなのに。

 身体を起こし、顔を洗って朝食をこしらえます。トーストにスクランブルエッグ、それからベーコン。彼のお決まりのセットを無意識に作る私は、傍目になんと哀れなのでしょう。

 髪を整え着替える際、おや、と思いました。二年前、不注意で鍋に触れてしまいできた腕の火傷の痕が、あるべきところになかったからです。大泣きし、心配してくれた彼を感情に任せ叩いてしまった記憶は、今もここにあるのに。それでも彼が救急車を手配し、翌日の仕事も顧みず夜通し付き添ってくれた優しさも、まだここにあるのに。

 不思議に思い、鏡の中の自分を仔細に見つめていると、

「やあ」

 と聞き覚えのある声がしました。ただ昨日より少し、大人びた印象があります。

 声は窓辺から私に向けられたもので、そちらを見ると、ロシアンブルーが顔を洗っています。

「無事盗めてよかったです」

「盗んだ?」

「お望み通り、あなたの四年間を」

 顔を洗う手を止め、彼はこちらを見ました。

「私の、四年……」

「お姉さんは今、紛れもなく二十三歳ですよ」

「どういうこと?」事実火傷の痕がなくなっている以上、猫がしゃべることなど棚上げです。「盗んだ?」

「ええ、盗みました。簡単に言うなれば、戻ったのです。四年前のあなたの身体に」

「戻った?」

「ええ、無事に」彼は前足の付け根に顔を伸ばして毛並みを整え始めます。「これからお姉さんがどうするかはお任せします。たまに様子を見に来ますね。その時は缶詰でもごちそうしてください」

「缶詰……」

「かつお味でね」

 ロシアンブルーはそうして、ふるふると首を回し、姿を隠してしまいました。

 慌てて窓外に顔を突き出しますが、彼は左右どちらにも、もう居ません。

 私の頭は、混乱に飲まれました。

 これから、どうしましょう。

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