ねぇおにいちゃん、どうしてパパは浮気するの?
最近の妹の進化は著しい。
どうして小学校までの坂はあんなに長いの? が、どうして地球は丸いの? に変化するくらい、ぐっとスケールアップしてきた。
そのうちに宇宙はどんな形をしているのか、と気になり出すに違いないから、今のうちにと思って俺は宇宙に関する本をたくさん読んでいる。もしかしたら役に立つ機会がない予感がしているけれど、でもいいんだ。
父さんが言っていた。人生の豊かさとはどれだけ無駄なことをしたかで決まるって。
「ねえ、おにいちゃん」
妹の呼びかけを無視しないことを信条にしているのに、ちょっと違うことを考えていたせいで反応が遅れた。
頬がトマトのように膨れて弾ける前にと、俺は椅子をくるりと回転させた。
「おにいちゃん」
妹は、少し眉を寄せた。
「どうして男の人は浮気をするの?」
ブラックホールってのはな、と説明しようと準備していた口が半開きで止まった。
「………… はあ?」
一言で問い返すと、妹は腕を組みさらに眉を寄せた。
「どうした? 父さんの浮気現場でも見ちゃったのか?」
「パパ、愛人さんがいるの? すごい」
二人はしばらくお互いの瞬きを数えあってから、同時に首をひねった。
たぶん、あのぽっこりと出始めたお腹を思い浮かべたんだと思う。
あれを好きっていう人と出会う確率ってどんなもんだろう。
隕石と隕石がぶつかる確率よりは高いかもしれないけれど。
「おにいちゃんは浮気、したことある?」
「ない」
即答する。
ちなみに、本気もない。とは言わない。兄の沽券に関わるような気がするからだ。
「みあいちゃんがね、あ、内緒ね」
みあいちゃんというのは妹の一番仲のよい友達だ。
未愛と書く。聞くたびに、言葉の持つ不思議な力について考える。名づけた瞬間に、ひとつの命の運命を決めてしまったかのように思える壮大なパワーについて。
何度か家に遊びに来たときに出くわしたことがあるけれど、二つのおさげに眼鏡という、なんとも地味な、もといまじめな印象の子だ。
そういえば今日の妹も、おさげのスタイルだ。
たずねると、うれしそうに二つの束を揺らして、ママに結ってもらったと答えた。
母さん、今日は家にいたのか。
「それで?」
「ん?」
「そのみあいちゃんが、どうした?」
「あ、あのね。浮気、されたの」
「だれに?」
「えっと、好きな人?」
「彼氏?」
「ううん」
おさげが横に大きく揺れる。
「先生」
世の中に、先生と呼ばれる人は複数いる。
でもまだ小学四年生である妹の世界の中なら、学校で教卓の前に立って話す大人のことだろう。
「担任の?」
「音楽の先生。飯島先生」
「みあいちゃんは飯島先生のことが好きなのか」
先生に恋心を抱くというのはよくあるパターンだ。父さん所蔵の少女漫画でも何度も見かけた。
「違うよ、飯島先生がみあいちゃんのことが好きなの」
「ふーん、それで?」
「先生、みあいちゃんのこと好き好きって言ってたのに、結婚するんだって」
それで浮気となったわけか。
俺は腕を組み、うーんと唸りながら言葉を選んだ。
思い浮かんだ言葉を、小学校四年生向けに翻訳しようとする。これが結構むつかしい。
「飯島先生は、みんなに好きって言ってなかったか?」
「言ってたかも」
「結婚ってのは、その中でも一番で好きな人とするもんらしいから」
「でも、チューしたんだよ?」
「……、はあ?」
「キスは一等賞のごほうび、一番に好きな人としかしないんだって、おにいちゃん前に言ってたよね?」
一時期、妹はキスという行為にはまっていて。
うちの両親はいつも距離が遠いくせに、その時期はやたらとベタベタしていたのだ。
その影響をもろに受けたとある素直な娘はぶちゅうっといろんなものに口をくっつけて回った。
ランドセルのふた、冷蔵庫のドア、自転車のサドル、隣の犬、牛乳の配達員、ピアノ教室のヒロトくん、書道教室のオオサワさん、エトセトラ。数え切れない人や物が被害者の会に所属している。
妹には近い将来きっと、ファーストキスはいつ誰と? と聞かれ、見知らぬ通りがかりのきれいなOLさん、と答える未来がやってくるだろう。
「どうして、キスしちゃいけないの?」
このまま被害を拡大させてはならぬと、兄として対策を練っていたら、飛んできた疑問。
それに対して、あのときの俺は確かに答えを返した。
―― キスは好きな人としかしてはいけないんだよ。
「でもちゃんとリコは、みんなのこと好きだよ?」
小首をかしげる博愛主義者である妹に、俺は必死の説明を続ける。
好きは好きでも一等賞の好きではないとダメだ。
一等賞の好きに出会えたときに、恋のキューピッドから一度だけごほうびがもらえる。それがキスだ。
ぴんと来ないようにますますシワが寄った妹の眉間に、俺は指を当て広げた。
「キスには本物のキスと、贋物のキスがあるんだよ。リコがしていいのは本物のほうだけ」
兄の、照れくささに負け、途中から適当になった回答にまんまと言いくるめられ、唇を当てるという行為だけでは完璧なキスにはならないということを、聡明な妹は学びとったらしかった。
さて、そんな過去があり今があるわけだ。
俺は小さく頭痛を感じて、額に手を当てた。とりあえず、もう少し事情を聞かなくてはいけない。
「ええと、みあいちゃんに先生がチュー、じゃない、キスしたのか?」
「したんだよ」
「先生はみんなにキスしてたり……?」
「しないよー。リコは断ったし」
へらっと笑ってそんなことを言う。
聞き捨てならないことを耳にしたような気がしたが、ここでそこに突っこめば底なしの沼地に足を踏み入れるようなもので、帰ってこられなくなりそうなのでやめておく。
遠回りの道を探していたら、妹が自らぐいっと歩み寄ってきた。
「男の人ってもしかして、本物のキス以外をしてもいいの?」
それともそれは大人の特権なのかしら。
「いや、男とか大人とか関係なく、本物のキス以外にはなんの価値もないよ」
「完璧なキス、ね」
ふふっと笑う。
ときどき、目の前の女の子が唇に紅を塗りたくった、見知らぬ生き物になったように見える。
普通に会話していたらあまり登場しないような、特別な言い回しを彼女は好む。
「じゃあ、おにいちゃんは今でもリコにキスできる? 完璧なほうよ」
「…… できるけど、たぶん」
「好きだから?」
「うん。でもしないよ」
「どうして?」
「リコのことをほんとに好きだから」
大きな目がピントを合わすように瞬きをくり返す。
何度目かの後、妹は言った。
「…… ほんとに好きだったら、キスをしない?」
「たぶん。先生はさ、ほんとにはみあいちゃんのこと好きじゃなかったんだろうな」
ぼさぼさの頭を映した目玉、それは真実の姿を宿す水晶玉だ。
何重もの嘘の膜で覆った言葉をフィルターにかけて、純粋なものだけに透過する。
これを知らない大人は、妹のどうして問答の前に敗北する。
途中で目をそらしてエスケープ、勝負の場に取り残されたものの落胆は深い。
妹は別に、どうしてに対する正しい解だけが知りたいわけではない。
賢い彼女たちはすでに不明瞭な言葉を辞書で引く術を、未知の情報をインターネットで検索する方法も知っている。
真実でなく誠実を求めているのだ。この人は私の問いかけに対して、どうやって答えてくれるんだろう。
どれだけ自分をさらけ出してくれるんだろう。
試して、占う。それが真に価値あるものかどうかを。
妹は深く閉じていたまぶたを、静かに開いた。
光があった。
悟りに達した聖人のような微笑を添えて、勝敗の行方を妹は告げる。
ちらりとのぞく、赤い唇の開いた先がブラックホールのように真っ暗で、吸いこまれそうな気分になった。
「パパー、おかえりなさい」
スリッパをぱたぱたと響かせながら、妹が廊下をかけていく。
たまたまトイレに行くために階下にいた俺は、計らずも毎日の恒例行事の目撃者となった。
少し赤ら顔をして玄関に立った父さんは、妹を抱き上げると、そのやわらかな頬にちゅっと音を立てる。
世界で一番の幸せものは俺だ、今インタビューしたら胸を張ってそう答えるだろう。
たとえひきこもりの息子がいようと、母さんの稼ぐ給料のほうが多かろうと、些事にすぎない。腕の中の娘の愛らしさに比べれば。
「…… ねえ、パパ」
そんな娘は自分の頬に手を当て、この世の終わりが訪れたように表情を消し去った。
そのまま、ゆるみきった父親の両頬を手で包みこむと、どこぞの聖母のように目を見据え、疑問を投げかける。
「どうして浮気するの?」
父さんの手から、お土産だという鯛焼きが床に滑り落ち、ぴくりともしなくなった。
―― 娘にくらい浮気したっていいじゃない。
そう訴えるメタボ気味の中年男性の目じりには、キラリと光るものがあった。
空になったグラスに100%のオレンジジュースを注いでやり、すっかり冷めてしまった鯛焼きのしっぽをかじりながら俺は考えていた。
遠い将来、ファーストキスはいつ? と聞かれたとき。
なんと答えたらいいものかということについて。
それはきっと宇宙の神秘について語るより、深遠な問題になるだろう予感がした。