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自由の終わりと見えない街  作者: ろきむら


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3/3

減りはじめる数字

指先が、ぴくりとも動かなかった。


枕元のスマホの画面に、白い通知がひとつ浮かんでいる。


初回照合を記録しました


長瀬恒一は、上半身を起こしたまま、その短い文を見つめていた。差出人の名前も、見慣れたアイコンもない。ただ白い帯だけが、ホーム画面の上に静かに乗っている。


隣では、美咲がまだ眠っていた。規則正しい寝息が、いやに遠く感じられた。


恒一は、そっと画面に触れた。


通知は、音もなく消えた。

消えたというより、最初からそこになかったみたいに、跡形もなく引いた。通知履歴を開いても何も残っていない。設定をたどっても、見慣れないアプリはどこにもなかった。


それでも、見間違いだったとは思えなかった。


喉が渇いている。胸の奥がまだ速い。夢の中で見た石畳の硬さや、真鍮の札の鈍い光まで、起きたあとも薄れずに残っていた。


もう一度眠る気にはなれず、そのまま階下へ降りた。


キッチンの明かりをつけ、湯を沸かし、いつものようにコーヒーを淹れる。粉がふくらみ、しぼんでいく。細い湯気が立ちのぼる。毎朝と同じ手順だった。何も変わっていないはずなのに、自分だけが少し違う場所から戻ってきた人間みたいに、台所の空気にうまく馴染めなかった。


ダイニングテーブルにノートパソコンを開く。


資産管理表を立ち上げ、最下段までスクロールする。


あの一行は、まだそこにあった。


残り時間 12,418


その文字を見た瞬間、昨夜、帳面の前で自分の口からこぼれた言葉の感触が戻ってきた。声に出したときよりも、こうして白い画面の上で見るほうが、かえって現実味がなかった。


意味はわからない。

けれど、名前だけはもう知ってしまっている。


恒一は数式バーを確認した。相変わらず、見たことのない文字列が並んでいる。記号とも数字ともつかない、不自然に整った列だ。セルの書式を変えようとしても反応しない。コピーもできない。削除キーも効かない。


試しに別のセルを選ぶと、何の問題もなく動いた。おかしいのは、その一行だけだった。


表の上のほうには、見慣れた数字が整然と並んでいる。毎月の支出、ローン、積立、運用の想定。どれも、自分で手を入れてきた数字だった。増えた理由も、減った理由も説明できる数字。長い時間をかけて、自分の側へ引き寄せてきた数字。


問題は、いちばん下の一行だけだった。


それだけが、自分の管理の外にある。


そのとき、二階で物音がした。誰かが起きたらしい。恒一は反射的に画面を閉じた。


朝は、いつも通りに進んだ。


長女を起こし、次女の髪をとかし、パンを焼き、牛乳を出す。柚葉はまだ少し眠そうな顔で、トーストの耳だけを先にかじっている。長女は学校に持っていくはさみを探して、食卓の下までのぞき込んでいた。美咲は洗面所から戻ってくるなり、「今日は冷えるね」と言って、カーディガンをもう一枚重ねた。


そういう細かなやりとりが続くうちに、夜のことは少しだけ遠のく。けれど、完全には消えない。現実の上に、薄い膜が一枚だけ重なっているみたいだった。


「寝不足?」


ジャムの瓶を開けながら、美咲が言った。


「そんな顔してる」


「変な夢見ただけ」


美咲は「へえ」とだけ答えた。詳しく聞くでもなく、流すでもない、その中間の返事だった。


「こわいやつ?」


長女がすぐに食いついた。


「こわいっていうより、変なやつ」


「追いかけられるやつ?」


「そういうのじゃない」


それで会話は終わった。長女はすぐに図工の話へ戻り、柚葉はヨーグルトのふたの裏についた分まで舐めようとして、美咲に止められていた。


家族を送り出したあと、静けさが戻ってくる。


玄関の戸が閉まり、車の音が遠ざかると、家の中には冷蔵庫の低い唸り声だけが残った。恒一はしばらくその場に立ったまま、その音が家の静けさに溶けていくのを聞いていた。


ダイニングに戻り、もう一度パソコンを開く。


残り時間 12,418


見れば見るほど、その一行だけが表の中にうまく収まっていないように見える。異物というほど派手ではない。けれど、よく似たものの列の中に、たったひとつだけ別の材質のものが混じっている感じがあった。


恒一は、できることを一つずつ試した。再起動。バックアップの確認。ウイルススキャン。クラウド側の履歴。前日の自動保存データの読み込み。どれを試しても、その一行だけは残ったままだった。過去の保存履歴をたどっても、昨日の夕方までは確かに存在していない。


それが、いちばん気味が悪かった。


正体がわからないことより、いつ入り込んだのかわからないことのほうが、ずっと気味が悪い。人は理由のない侵入より、気づかないうちに済まされていた侵入を怖がるのかもしれない、と恒一は思った。


十一時を回ったころ、これ以上画面を睨んでいても仕方がない気がして、恒一は車のキーをつかんだ。


急ぎで買うものは特にない。それでも、家の中にいるよりは少し走ったほうがましに思えた。


エンジンをかけると、フロントガラスの向こうに、まだ色の薄い三月の空が見えた。道の両側には、冬を抜けきらない田んぼが広がっている。土は乾いて、ところどころ白っぽい。遠くの低い山の輪郭は、薄い雲に溶けかけていた。


平日の昼前の国道は、朝ほどではないにしても、途切れず車が流れていた。営業車らしい白いバン。軽トラック。配送のトラック。信号で止まるたび、隣の車の運転席に座る人の横顔が目に入る。誰もがそれぞれの行き先へ向かっていて、その行き先があること自体が、少しうらやましく感じられた。


スーパーの駐車場に車を入れる。


卵、豆腐、しめじ、子どもたち用のヨーグルト。かごの軽さに、自分の一日の軽さまで映っている気がした。レジ待ちの列で、前に並んでいた作業着姿の男が、電話越しに「午後いちで行きます」と言っている。短い会話の向こうに、その人の午後がきちんと続いているのがわかる。


自分の午後には、何があるだろう。


帰宅して、買ってきたものを冷蔵庫にしまい、昼食代わりにおにぎりを一つとインスタントの味噌汁を食べた。食べながら、またパソコンを開いてしまう。


残り時間 12,418


変わっていない。


何も変わっていないのに、何かがもう始まっている。

そんな感じだけが、画面の奥に残っていた。


味噌汁を飲み終えたところで、スマホが震えた。


今度は見慣れた通知音だった。メッセージアプリを開くと、元の職場の同僚、沢村からだった。最後にやりとりしたのは、半年ほど前かもしれない。


久しぶり。来週、そっち方面に行くかも。昼、時間ある?


恒一は、その短い文をしばらく見つめた。


沢村は二つ年下で、仕事が速く、声も大きく、少し雑だった。会社員だった頃、恒一とは何度か同じ案件を担当した。気が合うかと言われれば、必ずしもそうでもない。けれど、嫌いではなかった。ああいう、放っておいても前へ進んでいく人間を、恒一は少し苦手にし、少しうらやましくも思っていた。


返信を打ちかけて、消す。

空いてるよ。

と入れて、また消す。


時間はある。あるどころか、たいていの日にある。だが、そのことをそのまま返すのに、妙なためらいがあった。暇だと思われたくないのかもしれないし、本当に暇なのかどうか、自分でもよくわからないのかもしれない。


結局、


たぶん大丈夫。日にちわかったら教えて。


とだけ返した。


送信してから、自分でもずいぶん曖昧な返事だと思った。けれど、最近の自分は何に対してもこんなふうに答えている気がした。肯定でも否定でもない、少しだけ逃げ道を残した言い方。生活は安定しているのに、答え方だけが不安定になっていく。


午後は、洗濯物を取り込み、掃除機をかけ、子ども部屋の散らかった絵本を棚に戻した。やることがないわけではない。やろうと思えば、家の中の細かなことはいくらでも見つかる。だが、それらは一つ終わるたびに元の静けさへ戻ってしまう。仕事みたいに次の予定が押し寄せてくるわけではない。自分で動かなければ、一日はどこまでも薄くのびていく。


三時を過ぎたころ、美咲からメッセージが入った。


今日、少し遅くなる。迎えお願いしていい?


恒一はすぐに

大丈夫

と返した。


その一言だけで、自分の午後に輪郭ができるのがわかった。四時に家を出て、小学校の学童へ寄り、そのあと園へ向かう。たったそれだけの予定なのに、妙に救われる。行き先と時刻が決まっているだけで、人は少しまともになれるのかもしれない。


四時前、車で家を出る。


学童の前で長女を乗せると、後部座席から今日あったことが途切れずに流れ込んできた。図工で何を作ったか。隣の席の子が給食で牛乳をこぼしたこと。先生が少しだけ怒ったこと。次に園で柚葉を乗せると、今度は園庭で鬼ごっこをした話が重なる。二つの話が前後も脈絡もなく車内に響く。恒一は相づちを打ちながら、バックミラー越しに二人の顔を見た。


この時間だけは、自分がちゃんと何かの役に立っている気がした。


信号待ちで止まったとき、柚葉がふいに言った。


「パパ、きょうはおしごとした?」


恒一は一瞬、ハンドルを握る手に力を入れた。


「うーん……ちょっとだけ、したかな」


「なにのおしごと?」


「家のこととか、あと、考えごと」


長女がすぐに笑った。


「考えごとは仕事じゃないじゃん」


「そうかな」


「そうだよ」


その言い方に悪意はない。ただ、子どもの世界では、言葉は言葉の形のまま置かれる。考えごとは考えごとで、仕事ではない。恒一は赤信号のまま前を見ていた。フロントガラスの向こうに、夕方の薄い光の中で車の列が続いている。


帰宅して、子どもたちにおやつを出し、宿題を見て、洗濯物を畳んでいるうちに、美咲も戻ってきた。夕食の支度は二人でやった。長女は途中で音読を聞いてほしいと言い、柚葉は食卓の下で折り紙を広げる。味噌汁が沸き、フライパンの油がはねる。そういう小さな音が重なっているあいだは、夜のことも、朝の通知も、少し遠くへ退いた。


けれど、子どもたちが寝て、家の中がまた静かになると、遠ざかっていたものは同じ距離で戻ってきた。


恒一は、なるべく何でもない顔をしてダイニングテーブルに座った。ノートパソコンを開く。いつもの動作なのに、指先が少し冷たかった。


資産管理表を開き、最下段までスクロールする。


そこで、恒一は息を止めた。


残り時間 12,417


一つ、減っていた。


昨夜も、今朝も、昼も、動かなかった数字が、夜になって初めて変わっていた。たった一つ。たった一つなのに、その一つがあることで、これはただの表示の不具合ではなくなる。


恒一は画面に顔を近づけた。見間違いではない。

昨日まで最後にあった八が、七に変わっている。


背中のあたりを、冷たいものが静かに這い上がった。


なにが減ったのか。

いつ減ったのか。

どこで減ったのか。


そのどれにも、答えはなかった。

ただひとつわかるのは、動きがもう始まっているということだけだった。


そのとき、家のどこでもない場所から、カン、と小さな音がした。


薄い金属を爪先で弾いたような、乾いた音だった。


恒一はゆっくり顔を上げた。


暗い窓ガラスに、部屋の中と自分の姿がぼんやり映っている。その向こう、ガラスの黒さの奥に、ほんの一瞬だけ、門のような縦の影が見えた気がした。


次の瞬間には、ただの夜の窓に戻っていた。

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