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自由の終わりと見えない街  作者: ろきむら


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2/3

刻限街 七番門

石畳は、夜の冷たさをそのまま閉じ込めたみたいに硬かった。


長瀬恒一は、しばらく自分がどこにいるのかを掴めずにいた。夢の中だと気づくまでに、少し時間がかかった。目の前には高い門がある。黒い鉄でできた両開きの門扉で、ところどころに鈍い銀色の飾りが打ち込まれていた。装飾は多いのに、どこか無機質だった。教会の門にも、古い官庁の入口にも見える。けれど、そのどちらにも属していない感じがした。


空は暗いのに、真夜中ほどの深さはなかった。夜明けの手前で時間だけが置き去りにされたような、薄い群青色が街全体を包んでいる。風はない。音もない。自分の呼吸だけが、妙に現実的に聞こえる。


門の脇には石の柱が二本立っていた。右の柱に、細い真鍮の板が埋め込まれている。恒一は吸い寄せられるように近づき、その文字を読んだ。


刻限街 七番門


読める。意味もわかる。

なのに、その意味だけが胸の内側に落ちてこなかった。


どこかで、薄い金属を爪先で弾いたような音がした。


硬く澄んでいて、耳に残るくせに、どこから鳴っているのかだけがわからない。眠りに沈む直前、暗い底のほうから浮かび上がってきたあの音と、よく似ていた。


門が、ひとりでに開いた。


きしむ音はしなかった。黒い門扉は左右に静かにひらき、その隙間の向こうに、まっすぐ伸びる通りが見えた。石造りの建物が低く並び、どの窓にも薄い橙色の明かりが灯っている。商店街のようにも見えるし、昔の洋館が並ぶ区画のようにも見える。けれど、どの建物にも看板らしいものはなく、かわりに小さな金属札だけが扉の脇に揃って下がっていた。


門の内側から、人が一人出てきた。


女だった。年齢は三十代にも見えるし、もっと若くも見える。黒に近い紺色のコートを着て、襟元まできっちり留めている。髪は肩のあたりで揃えられ、表情は驚くほど平坦だった。美人かどうかさえ、すぐには判断できない顔だった。ただ、視線だけが妙にはっきりしていた。人を見るというより、その人の奥に置かれた何かを見ているような目だった。


「遅かったですね」


女はそう言った。


責めるでもなく、迎えるでもない。決められた時刻を確認するような声だった。


「……誰ですか」


恒一の声は、自分でも驚くくらい乾いていた。


「案内役です」


「どこへ」


「中へ」


それだけ言って、女は門の内側へ半歩下がった。入ることが前提になっている動きだった。


「ここは何なんですか」


「もう読んだはずです」


女は石の柱の真鍮板を見た。


恒一は言葉を返せなかった。読んだ。だが、読んだことと理解したことは別だった。


「入らないと、見定めが終わりません」


「見定め?」


女は恒一を見た。初めて、ほんの少しだけ表情が揺れたように見えた。何かを思い出した人間の顔に、かすかに近づいただけだったが。


「あなたは、さっき一度、拒みました」


「……何のことを言ってる」


「白い画面の前で、指を止めたでしょう」


背中に、ひやりとしたものが走った。


夢の中の理屈だとしても、その言い方は具体的すぎた。自分の目の前にあったノートパソコンの白い画面。小さな選択肢。カーソルの動き。あれを、この女は見ていたのか。


「でも、記録は始まっています」


女は言った。


「拒むことはできます。ただ、なかったことにはなりません」


恒一は門の外を振り返った。


来たはずの場所は見えなかった。そこには道も家もなく、ただ輪郭のない薄い闇が広がっているだけだった。戻ろうと思えば戻れるのかもしれない。けれど、その闇の先には何もつながっていないと、なぜか最初から知っているような感覚があった。


また、金属の音がした。今度は少し近い。


女は何も急かさなかった。急かさないまま、待っていた。


恒一は自分でも腑に落ちないまま、一歩だけ前に出た。門をくぐる瞬間、空気の温度がわずかに変わった。冷たいのに、乾いている。紙と石と、冷えた鉄の匂いが、かすかに混じっていた。


通りは思ったより広かった。石畳の中央には、細い金属の線が二本、平行に走っている。線路にも見えたが、何かが走っている気配はない。両側の建物はどれも二階建てほどで、窓は細く、扉は重そうだった。生活のための街というより、何かの働きだけを集めた場所に見えた。洗濯物も、植木鉢も、子どもの自転車もない。


それでも、人はいた。


通りの向こうから、男が一人歩いてきた。灰色のコートを着て、帽子を目深にかぶっている。足取りはゆっくりしているのに、迷いがなかった。恒一のすぐ脇を通るとき、その男は一度もこちらを見なかった。ただ、胸元に下がっている小さな真鍮の札だけが目に入った。


8,903


恒一は思わず振り返った。男は一定の歩幅のまま、暗がりの向こうへ消えていく。


次に、年配の女が横道から現れた。彼女の胸元の札にも数字が刻まれていた。


31,120


その数字を見た瞬間、胸の奥がざわついた。理由はわからない。ただ、その数字のあり方が、自分のパソコンに現れたあの見慣れない一行と、あまりにもよく似ていた。


「何なんだ、あれは」


恒一は歩きながら聞いた。


「それぞれの残高です」


女は前を向いたまま答えた。


「残高?」


「いまのあなたには、その言い方がいちばん近い」


近い、という言い方が妙に引っかかった。ぴったり合う言葉は、まだ別にあるのだろうか。


通り沿いの建物のひとつの前で、女が立ち止まった。扉の上に、細長い金属板が掛かっている。


照合所


読みたくない文字だった。役所めいていて、逃げ道がない。


女が扉を押すと、重そうに見えたそれは音もなく開いた。


中は広くなかった。天井は高いが、室内は簡素だった。木の長椅子が三つ。壁一面に並ぶ小さな引き出し。正面には横に長いカウンター。その奥に背の高い棚があり、厚い帳面のようなものが何十冊も並んでいる。灯りはあるはずなのに、光源がどこにあるのかわからない。部屋全体が、均一に薄く明るい。


カウンターの奥に、老人がいた。


白い髪をきれいに撫でつけ、丸い眼鏡をかけている。服は黒に近い色で、執事にも司書にも見えた。恒一が入ってきても驚かず、手元の帳面から目を上げただけだった。


「長瀬恒一さん」


老人はそう言って、一冊の帳面を開いた。


心臓が、どくんと強く鳴った。


「どうして名前を」


「照らし合わせに必要です」


老人はそう言った。声は落ち着いていて、低かった。温かくはないが、冷たくもない。ただ、慣れた手順を崩さない声だった。


ページをめくる指が、妙にきれいだった。長いあいだ、同じ道具を使ってきた人の指だった。老人はあるページで手を止め、細いペンの先で一箇所を軽く叩いた。


「仮止まりですね」


女がうなずく。


「一度、拒否がありました」


「なら、最初の照合だけでいいでしょう」


まるで恒一がそこにいないかのように、二人は短く言葉を交わした。自分のことを話されているのに、自分だけが説明の外に置かれている。そのことが、妙に腹立たしかった。


「待ってくれ」


恒一は声を強めた。


「何を話してるんだ。ここはどこで、あの数字は何なんだ」


老人はゆっくりと顔を上げた。眼鏡の奥の目は、驚くほど澄んでいた。冷たいというより、濁りがない。


「あなたは、守るための計算をずいぶん続けてこられた」


「……は?」


「減らさないために確かめる。崩れないように見積もる。先回りして備える。そういうことに、よく手をかけてこられた」


恒一は何も返せなかった。


その言葉には見下しも賞賛もなかった。ただ、長く使ってきた癖を、他人の口から正確に言い当てられたような居心地の悪さだけが残った。


老人は帳面の上に置かれていた真鍮の札を持ち上げ、カウンターの上に置いた。


そこに刻まれていた数字を見て、恒一は息を止めた。


12,418


見間違えようがなかった。


朝、自分の画面に現れた数字。昼になっても消えなかった数字。夜になってもそこに残っていた数字。そのままの形で、今、夢の中のカウンターの上に置かれている。


「いまは仮の値です」


老人が言う。


「単位は、まだ定まっていません」


「……定まっていない?」


「同じ量でも、重さは人によって違いますから」


意味がわからない。いや、言葉はわかる。けれど、その言葉が何を指しているのかだけが、するりと逃げていく。


恒一はカウンターに手をついた。


「これは俺の数字なのか」


「いまのところは、そう見ていいでしょう」


「何の数字だ」


老人は少しだけ黙った。答えを選んでいるというより、答えていい場所まで測っているような沈黙だった。


それから、帳面を恒一のほうへ、ほんの少し押し出した。


開かれたページの左端に、自分の名前があった。長瀬恒一。見慣れたはずの文字なのに、ここでは自分のものに見えなかった。その下に、見たことのない項目がいくつか並んでいる。


保有静穏

未使用欲求

対外役割

残り時間


最後のその文字を見た瞬間、頭のどこかで、薄い金属音が鳴った気がした。


カン。


耳の外ではなく、もっと内側で鳴る音だった。


「……残り時間」


恒一は、自分の口でその言葉を確かめた。


口にした瞬間、それまで輪郭のなかった不安が、急に形を持ちはじめた。名前のなかったものに名前が与えられるとき、人は少し遅れて怖くなる。


老人は静かにうなずいた。


「読めるようになりましたか」


「ふざけるな」


恒一は思ったより強い声を出していた。


「こんなものに、どういう意味がある」


「いまは、意味を渡す段階ではありません」


「じゃあ何のために呼んだ」


「呼んだのは、こちらだけではありません」


老人はそう言って、恒一をまっすぐ見た。


「あなたは、ここへ来る準備を長く続けていました」


「そんな覚えはない」


「覚えていることだけが、準備ではありません」


女が横で、わずかに身体の向きを変えた。帰る時間だ、とでも言いたげな動きだった。


「門までは案内します」


老人は帳面を閉じた。その重たい紙の音が、乾いて部屋に響く。


「今夜はここまでです」


「今夜?」


「次は、もう少し先まで進みます」


勝手に決められている。そう思ったとたん、足もとの感覚がふっと薄くなった。床が遠ざかる。身体が急に軽くなり、同時に、どこかへ引き戻される力が働く。


恒一はカウンターの端を掴もうとしたが、指先はうまく力を持たなかった。視界の輪郭がにじみ、棚も引き出しも、老人の顔も、水の底に沈むみたいに揺れはじめる。


女の声だけが、最後にはっきり聞こえた。


「次は、鐘が三つ鳴ったら入ってください」


その言葉のあと、また、あの金属音が鳴った。


一度。


視界がさらに崩れる。


二度。


石の匂いも、紙の匂いも、遠ざかる。


三度目の音が鳴る前に、恒一は目を開けた。


天井が見えた。見慣れた寝室の天井だった。まだ薄暗い。カーテンの隙間から、朝になりきらない青い光が差し込んでいる。


喉が渇いていた。息も荒い。ただ夢から覚めたというより、どこかから走って帰ってきたみたいな目覚めだった。


隣では、美咲がまだ眠っている。規則正しい寝息が聞こえる。その音だけが、妙に現実らしかった。


恒一はゆっくり上半身を起こした。心臓がまだ速い。石畳の硬さも、真鍮の札の冷たさも、帳面の紙の重さも、起きた瞬間に薄れていくどころか、むしろ手触りのまま残っていた。


そのとき、枕元のスマホが短く震えた。


通知とも着信とも違う、小さな作動音だった。


恒一は息を止めたまま、画面を見る。


何も起動していないはずのホーム画面の上に、見慣れない白い通知がひとつだけ表示されていた。


初回照合を記録しました


指先が、ぴくりとも動かなかった。

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