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自由の終わりと見えない街  作者: ろきむら


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1/3

静かな朝と資産表

朝の五時には、台所の床がまだ少し冷たい。


長瀬恒一は、音を立てないように引いた椅子に腰を下ろし、電気ケトルの小さなランプが点くのを見ていた。妻と子どもたちはまだ寝ている。家の中には、冷蔵庫の低い唸り声と、壁の向こうで誰かが寝返りを打つ気配しかなかった。


こういう時間が、会社を辞めてから増えた。


いや、正確に言えば、会社を辞める前からこの時間はあった。ただその頃は、朝は一日の準備のために存在していた。メールを返し、予定を確認し、慌ただしく車のキーをつかんで家を出るための時間だった。いまは違う。朝はただ静かで、誰のものでもない。恒一はその静けさを手に入れるために、かなり長い時間を使ってきた。


コーヒー豆を挽く。湯を注ぐ。ふくらんだ粉の中央がゆっくりと盛り上がり、それからしぼむ。毎朝同じ手順だった。同じ手順で淹れたコーヒーは、だいたい同じ味がした。その安定が好きだった。少なくとも、好きだと思うことにしていた。


マグカップを持って、ダイニングテーブルの端に置いたノートパソコンを開く。画面の明かりが、暗い部屋に四角い白さを作った。最初に開くのは、ニュースでもSNSでもなく、資産管理表だった。


現金、投資信託、米国ETF、個別株。住宅ローンの残高。生活防衛資金。教育費の積立。前年同月比。月の支出予測。年単位の取り崩し率。色分けされたセルが、いつものように並んでいる。よく手入れされた庭を見るみたいに、恒一はその表を眺めた。


数字は悪くなかった。


むしろ、かなりいいと言ってよかった。数年前、彼はこの表の完成形を頭の中に思い描いていた。これくらいの資産があり、これくらいの支出なら、朝の混んだ国道で長い車列に並ばなくても生きていける。上司の機嫌や、四半期ごとの評価や、意味のよくわからない会議から離れても、大丈夫だ。少なくとも計算上は。


計算上は、という言葉を、彼は最近よく心の中で使うようになっていた。


コーヒーを一口飲む。少しぬるかった。壁時計を見ると、五時十七分。外はまだ暗い。窓ガラスには、自分の顔が薄く映っている。会社員だった頃より、顔つきは穏やかになったかもしれない。だが、その穏やかさが、ただ輪郭の薄さでしかないように思える朝もあった。


恒一は、表の最下段までスクロールした。


そこで、指が止まった。


見慣れない一行がひとつ増えていたからだ。


昨日の夜、このファイルを閉じる前にはなかったはずの行だった。書式は他のセルと同じで、罫線も色もきちんと揃っている。誰かが悪ふざけで書き足したようには見えない。けれど、そんなことが起こるはずもなかった。このパソコンを触るのは、基本的に彼だけだ。


右のセルには、数字が入っていた。


12,418


単位は、どこにも書かれていなかった。


恒一はしばらく、その数字を見つめていた。何かの計算式がずれたのかもしれない。参照セルが壊れたのだろう。そう思って数式バーを開こうとしたが、なぜかカーソルがうまく動かない。背中のあたりが、ひどく静かに冷えていくのを感じた。


そのとき、二階から小さな足音がした。


娘のどちらかが、目を覚ましたのだろう。


恒一は反射的にパソコンの画面を閉じた。黒くなった画面に、少しだけ強張った自分の顔が映った。まるで他人のように見えた。


「パパ、もうおきてるの?」


階段の途中から声がした。次女の柚葉だった。まだ寝癖のついた髪で、片手にくしゃくしゃのタオルケットを引きずっている。


「起きてるよ。どうした」


「のどかわいた」


恒一は立ち上がって、冷蔵庫から麦茶を出し、小さなコップに半分だけ注いだ。柚葉は両手でコップを持ち、一気に飲んだ。それから、テーブルの上の閉じたノートパソコンを見た。


「またおしごと?」


「ううん。仕事じゃないよ」


答えてから、少し遅れて違和感が来た。ではこれは何だろう、と自分で思った。仕事ではない。趣味でもない。習慣というには、少し必死すぎる。毎朝、数字を確認しないと落ち着かないこの行為に、名前をつけるのは意外と難しかった。


柚葉はあくびをひとつして、恒一の脚にぺたりとくっついた。


「じゃあ、なにしてたの?」


恒一は笑ってごまかそうとしたが、うまくいかなかった。


「ええと……家の、お金の確認」


「ふーん」


柚葉は関心があるのかないのかわからない顔で、それだけ言った。そしてしばらく黙ってから、思いついたように続けた。


「パパって、いま、なんのおしごとなの?」


その問いは、あまりにもまっすぐだった。


まだ朝の五時台で、眠そうな子どもが、麦茶のコップを持ったまま無邪気に投げた言葉だった。深い意味なんてない。ただ、園で誰かに聞かれたのかもしれないし、ふと気になっただけかもしれない。


それでも恒一は、すぐには答えられなかった。


会社を辞めてから、同じような質問を何度か受けたことはある。親戚にも、近所の人にも、元同僚にも。「いま何してるの?」「次は何をやるの?」と。そんなとき恒一は、だいたい「少し仕事を減らしてる」「家のことをしながら、いろいろ考えてる」「小さい案件だけたまに」みたいな曖昧な言い方で切り抜けてきた。


でも、子ども相手にその曖昧さは通用しない。子どもは、肩書きよりも、ずっと単純な場所で世界を見ている。


恒一は、柚葉の頭に手を置いた。


「いまはね、家にいる時間を増やしてるんだよ」


「それ、おしごと?」


「……まだ、ちがうかもな」


柚葉はその答えに納得したのかしないのか、よくわからないまま首をかしげた。それから、「じゃあママといっしょだ」と言って笑った。意味はよくわからなかったが、その笑い方に救われるような、少しだけ傷つくような気持ちになった。


妻の美咲が起きてきたのは、その十分後だった。髪をひとつにまとめ、カーディガンを羽織りながら、キッチンに入ってくる。恒一の手元の空のマグカップを見て、何も言わずに自分の分の湯を沸かしはじめる。そういうところが美咲らしかった。相手の機嫌や空気をわざわざ言葉でなぞらない。


「今日は早いね」


「いつも通りだよ」


「そう?」


美咲はそれ以上は聞かなかった。だが、ノートパソコンにちらりと視線を送ったのを、恒一は見逃さなかった。


朝食の準備をしながら、恒一は何度か画面を開こうとした。けれど家族が近くにいると、なぜかその一行を見られたくなかった。自分でも理由はわからない。ただ、言葉にすると、それが本当に存在してしまう気がした。


小学生の長女を起こし、トーストを焼き、ヨーグルトを出し、牛乳をこぼした次女の服を着替えさせる。そういう細々した朝の仕事は、会社員時代にはほとんど美咲に任せきりだった。いまの恒一はかなり手際よくそれをこなせる。エプロンの紐も、連絡帳の確認も、給食袋のチェックも、だいたい問題なくできる。


それでも、どこかで自分は代役のような気がしていた。


家族が食卓を囲む。長女が学校で図工があると言い、次女が今日は園庭で鬼ごっこすると張り切り、美咲が洗剤を買い足さなきゃと言う。そういう会話のあいだに、恒一は何度か、自分の頭の中にだけ浮かんでくる数字を追い払おうとした。


12,418。


時間だとしたら、何の時間なのか。


日数なら、およそ三十四年。時間なら、一年半にも届かない。分だとしたら、八日と少し。秒なら、たいした意味はない。どの単位で考えてもしっくりこなかった。


家族を見送ったあと、家の中は急に広くなった。


さっきまで散らかっていた食卓を片づけ、シンクの皿を洗い、洗濯機を回す。そういう一つひとつの動作が終わるたび、部屋の静けさが戻ってくる。昔は手に入れたかった静けさだった。いまは、ときどき音のない圧力みたいに感じる。


十時前、恒一はようやくノートパソコンを開いた。


白い画面が浮かぶ。資産管理表を開く。最下段までスクロールする。


朝に見つけた、あの見慣れない一行は、まだそこにあった。


右端の数字は、変わらず12,418のままだった。


朝から一度も動いていない。


今度は数式バーを確認できた。だが、セルに入っているはずの関数は、見たことのない文字列だった。英数字とも記号ともつかない、不自然に整った並び。コピーして検索しようとしても、文字列は選択できなかった。セルの保護設定を外そうとしても、なぜかそのセルだけ反応しない。


恒一は、別のファイルを開いてみた。家計簿の月次表。教育資金のシミュレーション。保険の見直しメモ。どれも問題ない。おかしいのは、この表の、この一行だけだった。


自分で作ったはずのものが、突然少しだけ自分の手を離れる。そういう感覚は、不快というよりも、気味が悪かった。机の引き出しの中に見知らぬ鍵が入っているのを見つけたときに似ている。その鍵がどこのものかわからないのに、なぜか自分に関係があると感じてしまうような。


恒一はファイルをいったん閉じ、再起動した。もう一度開いた。行は消えなかった。


昼前、気分転換に車のキーをつかみ、恒一は家を出た。

エンジンをかけると、まだ冷えの残った空気がフロントガラスの向こうに薄く張りついていた。スーパーまでは車で十分ほど。牛乳、卵、豆腐、安売りの鶏むね肉。いつもと同じものをかごに入れる。店内BGMが妙に明るくて、その明るさが余計に自分を現実から遠ざける感じがした。


レジ待ちの列で、前に並んでいた同年代くらいの男が、スマホを見ながら部下らしい相手に短いメッセージを打っていた。眉を寄せ、ため息をつき、また何かを打つ。会社員時代の自分も、たぶんああいう顔をしていた。


戻りたいとは思わない。思わないはずだった。


けれど、ああいうふうに、外側から与えられた予定や役割に押されて一日が進んでいく感覚を、完全に嫌いだったとも言い切れないことに、恒一は最近気づきはじめていた。いまの生活には自由がある。自由はあるが、輪郭が薄い。輪郭のない一日を、彼は毎朝、数字で縁取っているのかもしれなかった。


帰宅して昼食を済ませたあと、スマホに通知が入った。証券アプリの値動き通知だった。保有しているETFが前日比で二パーセント近く下げている。たったそれだけのことで、胸の奥が少しざわつく。


長期で見れば誤差みたいなものだ。恒一は自分にそう言い聞かせた。二パーセントなんて、年単位で見ればただの波だ。そういう波を受け止めるために、現金比率も生活防衛資金も、十分に確保してきた。冷静でいるための準備はしてある。


それなのに、値下がりの数字を見た瞬間、呼吸が浅くなる。


恒一はふと、今朝見た見知らぬ一行のことを思い出した。資産表の中に紛れ込んだ、あの得体の知れない項目。自分が管理しているはずの世界に、管理できない一行がある。その事実だけで、他の数字まで微妙に信用できなくなる。


午後、美咲からメッセージが届いた。

帰りに洗剤買ってくる。牛乳あった?


恒一は、

買ったよ。ありがとう。

と返した。


送信してから、しばらくその短いやり取りを見ていた。ありがとう、という言葉が、最近の自分にとって便利すぎる気がした。感謝もしている。けれど、それだけではない。言わないで済ませていることが多すぎる。たとえば、朝から妙な行が一つ増えていること。たとえば、それを美咲にうまく話せないこと。たとえば、家にいる時間が増えたのに、自分が家の中で完全には馴染めていないこと。


夕方になると、子どもたちの声が戻ってきた。ランドセルを放り出し、今日あったことを一方的に話しながら、二人はリビングを横切っていく。美咲は買ってきた洗剤を棚にしまい、夕飯の支度に取りかかる。恒一も隣で野菜を切った。


「今日、なんか変だった?」


包丁を動かしながら、美咲が聞いた。


「え?」


「朝。ちょっと顔、固かったから」


恒一はにんじんを切る手を止めた。美咲は鍋のほうを見たままで、こちらを見ていない。責める調子ではなかった。ただ、事実を確認するみたいな声だった。


「たいしたことじゃないよ」


「そう」


「パソコンの表が、少し変で」


美咲はそこで初めて手を止めた。「表?」とだけ聞く。


「資産のやつ。変な項目が増えててさ。たぶんバグだと思う」


「直せないの?」


「たぶんそのうち直る」


言ってから、ずいぶん頼りない答えだと思った。表計算の不具合なんて、いつもの自分ならすぐ原因を探して直すはずだ。それを「そのうち直る」と言っている時点で、すでに恒一自身、この問題を単なる不具合として扱えていなかった。


美咲は数秒だけ黙って、それから火加減を弱めた。


「ずっと気になるなら、今日は見ないほうがいいんじゃない」


「見ないほうが?」


「だって、朝からそれで変な顔してる」


それはもっともだった。だが、見ないという選択肢を示されて、恒一はかえって落ち着かなくなった。見ないで済むなら、最初からこんなに引っかかってはいない。見なければ、見えない場所で何かが進んでしまう気がした。


夕食のあと、長女の宿題を見て、次女の歯磨きを手伝い、絵本を一冊読んだ。子どもたちが寝ると、家の中はまた静かになった。美咲はソファでしばらくスマホを見ていたが、やがて「先に寝るね」と言って二階へ上がっていく。


一人になると、恒一はダイニングテーブルに戻った。


ノートパソコンを開く。白い画面が浮かぶ。資産管理表を開く。最下段までスクロールする。


朝から気味の悪かった一行と、その右端の12,418が、変わらずそこにあった。


もしこれがいたずらやバグなら、どこかに原因があるはずだ。もし原因があるなら、突き止められるはずだ。恒一はそう信じたかった。だが、その一行に向かい合うたびに、原因や修正方法より先に、妙な感覚だけが胸に広がった。まるで、その数字が何かを計算した結果ではなく、先にそこにあって、自分のほうが後から追いついただけみたいな感覚だった。


恒一は指先で、そっとその数字に触れた。


その瞬間、画面がわずかに暗くなった気がした。


反射的に手を引っ込める。見間違いかもしれない。けれど、部屋の空気が一段だけ冷えたように感じる。冷蔵庫の唸り声はいつも通りのはずなのに、それがやけに遠くから聞こえた。


どこかで、金属が小さく鳴る音がした。


家の中ではない。もっと遠い場所から、硬く澄んだ音が、ひとつだけ届いた気がした。


恒一は席を立ち、窓の外を見た。住宅街の夜は静かだった。向かいの家の二階に明かりがひとつついている。街灯の下に、自転車が二台止まっている。それだけだ。鐘も、風鈴も、金属が鳴るようなものは見当たらない。


もう一度、音がした。


今度は少し近く、しかしやはり家の外とも言い切れない、不思議な位置から聞こえた。

カン、と短く、薄い金属を爪で弾いたような音だった。


恒一はゆっくりと振り返った。


ノートパソコンの画面には、まだあの一行が表示されている。

けれど、その下に、朝にはなかった小さな文字が増えていた。


確認しますか


その右隣に、小さな四角いセルが二つ。

はい

いいえ


恒一は立ったまま、その画面を見つめた。


自分で作った表には、こんな対話形式のセルなんて存在しない。マクロも組んでいない。外部連携もしていない。そもそも、こんな表示が表計算ソフトの中に現れること自体、ありえない。


だが、ありえないものは、確かにそこにあった。


背中にじっとりと汗がにじむ。二階では、美咲と子どもたちが眠っている。洗濯物はもう乾いているだろうし、明日の朝はまた早い。いつもの夜だ。何も変わっていない。変わっていないはずなのに、自分だけが、何かの境目に立たされている気がした。


恒一はしばらく考えた。


そして、考えるというより、ほとんど反射に近い動きで、カーソルを**「いいえ」**のほうへ動かした。


クリックする。


その瞬間、画面が真っ黒になった。


思わず息をのむ。だが次の瞬間には、デスクトップが何事もなかったように戻っていた。資産管理表は閉じられ、壁紙の上にアイコンが整然と並んでいる。異常はどこにもない。さっきまでの表示が、はじめからなかったみたいだった。


恒一は肩の力を抜き、ゆっくりと椅子に座り直した。自分の鼓動がやけに大きい。


疲れているのかもしれない。最近、眠りが浅かった。朝は早いし、夜中に何度も目が覚める。そんな状態で毎日同じ表ばかり見ていれば、目の疲れや思い込みでおかしなものが見えても不思議じゃない。そういう説明はいくつか考えられた。


どれも、ぴったりとはこなかったけれど。


恒一はパソコンを閉じ、キッチンの明かりを消した。階段を上がる。廊下の暗がりの中で、子ども部屋の戸が少しだけ開いていて、そこから寝息が漏れていた。寝室に入ると、美咲はもう眠っていた。恒一は起こさないようにベッドに入り、目を閉じた。


しばらくは眠れなかった。


まぶたの裏に、白いセルと黒い文字が何度も浮かんだ。

見慣れない一行。

12,418。

確認しますか。


やがて、意識が少しずつほどけていく。


深く沈む直前、また、あの金属の音がした気がした。今度はもっとはっきりと、遠くの夜の底から響いてくる。ひとつ、ふたつ。一定の間隔をあけて鳴る、乾いた鐘のような音。


恒一は夢の中で、石畳の上に立っていた。


見知らぬ門が、目の前にあった。

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