第7話 設立2年前の裏切り
財団設立の二年前。季節は春だったが、真千子の心は冬のように閉ざされていた。
弟の淳史が自衛隊を辞め、部屋に引きこもるようになってから一年が過ぎようとしていた。
真千子の勤務先である私立高校の保健室。放課後の静けさの中、彼女は養護教諭の鈴子と向かい合っていた。
鈴子は真千子にとって、職場で唯一心を許せる友人だった。明るく、生徒からの信頼も厚い彼女になら、弟の異常な「体質」について相談できるかもしれない。そう思ったのが運の尽きだったのかもしれない。
「……信じられない話かもしれないけど、本当なの。あの子、手で触れるだけで傷を治してしまうの」
重い口を開いて打ち明けた真千子に対し、鈴子の反応は意外なほど冷静だった。
「へえ、すごいじゃない。まるで漫画の世界ね。でも、真千子先生が嘘をつくような人じゃないってことは私が一番よく知ってるわ」
鈴子の瞳が好奇心で怪しく光ったことに、その時の真千子は気づけなかった。
「一度、会ってみたいな。その力が本物なら、弟さんの引きこもりを解決する糸口になるかもしれないし」
親身な提案に、真千子は安堵し、深く頭を下げた。
週末、真千子は自宅に鈴子を招いた。
薄暗いリビングに、淳史がのっそりと現れる。無精髭を生やし、目は虚ろで、かつての精悍な自衛官の面影はどこにもなかった。
鈴子は淳史を一瞥すると、持参したバッグから画鋲を取り出した。
「はじめまして、淳史さん。ちょっと実験させてね」
言うが早いか、鈴子は迷いなく自分の指先に画鋲を突き立てた。赤い血の玉がぷくりと浮かぶ。
真千子が「あっ」と声を上げる隙もなかった。
「治せるかしら?」
「……やってみます」
淳史の声は掠れていた。あの日、親友を救えなかったトラウマが彼を縛り付けている。彼は怯えるように手を伸ばし、傷口から少し離れた手首を掴んだ。
念じる。
すると、指先の血が逆流するように引き、小さな刺し傷が瞬く間に塞がった。
「うわ、本当だ……」
鈴子は感嘆の声を漏らし、指先を光にかざして確認した。そして次の瞬間、彼女はペンケースからカッターナイフを取り出した。
カチ、カチ、と刃を出す乾いた音が響く。
「鈴子、何する気!?」
「データのサンプルは多い方がいいでしょ?」
制止する真千子を無視し、鈴子は自らの二の腕に刃を走らせた。赤い線が走り、血が滴る。狂気じみた行動だったが、鈴子の表情はあくまで冷静な研究者のそれだった。
「さあ、これも治して」
淳史は顔をしかめたが、拒絶はしなかった。再び手をかざす。傷は綺麗に消え去ったが、淳史はその場に膝をつき、激しく息を切らした。
「はぁ、はぁ……もう、無理です。疲れました」
「なるほど。エネルギー保存の法則は無視できないってわけね」
鈴子は満足げに頷いた。その後、三人はこの力の起源について議論した。強い願望が引き金になったのか、先天的なものか。答えは出なかった。
だが、鈴子の中では、もっと別の「答え」が出ているようだった。
「ねえ、淳史さん。その力、腐らせておくのはもったいないわ。人助けボランティア、やってみない?」
それが、転落の始まりだった。
数日後から、鈴子は「困っている人」を連れてくるようになった。
最初は足の悪い老人、次は古傷に悩む中年女性。淳史は言われるがままに手をかざし、彼らを治癒していった。
淳史にとって、それは唯一の救いだった。
親友を死なせた罪悪感に苛まれる日々の中で、「ありがとう」と感謝される瞬間だけが、自分が生きていてもいいのだと許されている気がしたのだ。
週に二回ほどのペースで行われるその行為を、真千子も黙認していた。弟の目に少しずつ光が戻ってきているように見えたからだ。
しかし、違和感はすぐに訪れた。
数週間後。
真千子は、鈴子の身なりが急激に派手になっていることに気づいた。
以前は質素だった彼女が、ハイブランドのバッグを持ち、高級時計を身につけている。香水の匂いも変わった。羽振りが良すぎる。
胸騒ぎを覚えた真千子は、ある日の放課後、鈴子を問い詰めた。
「鈴子、最近おかしいわよ。あのお金、どこから出てるの?」
「どこって……ああ、これ? 副業がうまくいっててね」
「まさか、淳史の治療でお金を取ってるんじゃないでしょうね」
真千子の鋭い指摘に、鈴子は悪びれる様子もなく、ふっと笑った。
「ボランティアなんて綺麗事じゃ続かないわよ。彼らは治る、私は潤う、淳史さんは生きる意味を見つける。これぞウィンウィンの関係じゃない」
「信じられない……! 人の善意を利用して、弟を金儲けの道具にするなんて!」
「善意? あのね真千子。タダより高いものはないのよ。それに、あの患者たちはお金を払ってでも治したいの。需要と供給よ」
鈴子の論理は冷徹だった。そこには、かつての信頼していた友人の面影はなかった。
憤る真千子に対し、鈴子はあろうことか提案を持ちかけてきた。
「真千子も堅いこと言わないで、一緒にやりましょうよ。マネージメント料として売り上げの三割、あなたに渡すわ。淳史さんにも還元してあげられる」
「ふざけないで! 二度と淳史に近づかないで!」
「……そう。残念ね」
真千子が拒絶すると、鈴子は少し困ったような顔をして、声を潜めた。
「じゃあ、あと一件だけ。最後にお願い。すごく羽振りのいいお客さんがいて、高額の治療費を約束してくれてるの。その人との約束だけ果たさせて。そうしたら足を洗うから」
「ダメよ。絶対に許さない」
「お願い、怖いのよ! 断ったら何されるか……」
鈴子の懇願を、真千子は冷たく突き放した。これ以上、弟を汚させたくなかった。
その数日後、鈴子は学校に来なくなった。
無断欠勤が続き、やがて連絡が取れなくなった。
風の噂で聞いたところによれば、彼女が最後に「予約」を入れていた相手は、裏社会の人間――ヤクザだったらしい。約束を反故にしたことで報復を恐れ、夜逃げ同然で姿を消したのだという。
あまりにあっけない、欲に溺れた人間の末路だった。
真千子は、誰もいない保健室で立ち尽くしていた。
窓の外からは、合唱部が練習する歌声が聞こえてくる。
――勇気一つを友にして。
その清らかな歌詞が、真千子の胸を締め付けた。
人は、強大な力を目の前にすると、こうも容易く変わってしまうのか。
鈴子は決して根っからの悪人ではなかったはずだ。ただ、目の前に転がってきた「奇跡」という名の果実が甘すぎたのだ。
淳史の力は、人を救うと同時に、人の心を狂わせる魔力も秘めている。
そのことに気づかず、友人を怪物に変えてしまったのは、他ならぬ自分ではないか。
強烈な罪悪感が真千子を襲った。
だが、感傷に浸っている時間はなかった。
鈴子が撒いた種は、既に芽吹き始めている。淳史の力の噂は、口伝てで広がり、得体の知れない者たちが弟に興味を持ち始めている。
守らなければならない。
誰にも利用させず、誰にも狂わされないように。
真千子は決意を固め、職員室へ向かった。
退職届を提出するために。
教師としてのキャリアを捨ててでも、弟の力を管理し、彼を守る盾になる。それが、この力を世に出してしまった姉としての責任だと感じたからだ。
一方、自宅の淳史は、鈴子がいなくなったことなど気にも留めていない様子だった。
彼は自分の掌を見つめていた。
人を治した時の、あの温かい感覚。命が繋がる感触。
親友を殺したこの手でも、誰かを救うことができる。
ここ数日の「人助け」は、淳史にとって麻薬のような安らぎを与えていた。
もっと治したい。もっと救いたい。
その純粋すぎる欲求は、危うい光を帯びていた。
真千子は帰宅すると、淳史の背中を見て思った。
この子の心を癒やすには、確かに人助けが必要なのかもしれない。
ならば、それを正しい形で行えるように、私が道を作らなければ。
それが茨の道であろうとも、二人で歩いていくしかないのだ。
しかし、彼らはまだ知らなかった。
鈴子という窓口を失っても、一度広がった噂は消えないことを。
淳史が治療した数人の証言を元に、嗅覚の鋭い週刊誌の記者が、既に「奇跡のヒーラー」の正体を暴こうと動き出していることを。
平穏は、もう二度と戻らない。
財団設立まで、あと二年。




