第6話 設立3年前の悲劇
その日は、世界が灰色に塗りつぶされたような豪雨だった。
財団が設立される三年前。当時、陸上自衛隊・第53普通科連隊に所属していた三等陸曹の淳史は、長期行軍訓練の只中にいた。
連日の雨で山道は泥沼と化し、隊員たちの疲労は極限に達していた。四〇キログラムを超える背嚢が肩に食い込み、軍靴が泥に吸われるたびに体力が削ぎ落とされていく。
淳史の役割は、地図判読による作戦展開ルートの選定係だった。彼は濡れた地図ケースを小隊長に示し、声を張り上げた。
「現在地から北東へ進路を取り、沢沿いを抜けるルートを具申します。これが最短です」
「待て、そこは地盤が緩い。この雨だ、危険な箇所があるはずだ」
小隊長は即座に懸念を示した。その指摘はもっともだった。しかし、淳史の目には、疲弊しきった部下や同僚たちの姿しか映っていなかった。一刻も早く、この泥濘の地獄から仲間を解放してやりたい。その焦りが、彼の理性を曇らせた。
「迂回すれば二時間はロスします。隊員たちは限界です。慎重に進めば問題ありません」
「しかし……」
「自分の読みでは、地質的にも崩落の危険性は低いと判断しています。行けます」
淳史は譲らなかった。若き陸曹としての自負と、仲間を想う独りよがりな正義感が、彼を強引な説得へと駆り立てた。結局、小隊長は淳史の熱意と、隊員たちの疲弊具合を天秤にかけ、その進言を採用した。
それが、取り返しのつかない悪夢の入り口だとは知らずに。
行軍は終盤に差し掛かっていた。
雨脚はさらに強まり、視界は白い雨粒のカーテンに閉ざされていた。淳史が先頭付近で足場の確認をしていた、その時だった。
――コツン。
ヘルメットに、小石か何かが当たる乾いた音が響いた。
違和感を覚え、淳史がふと頭上を見上げた瞬間、世界が反転した。
空があるはずの場所から、黒い「質量」が襲い掛かってきたのだ。
「土砂崩れだッ!」
誰かの絶叫も、瞬く間に轟音にかき消された。
山肌が裂け、濁流と共に巨大な岩石と倒木が雪崩れ込んでくる。抗う術などなかった。淳史は泥の奔流に揉みくちゃにされ、天地の感覚を失ったまま押し流された。
静寂が戻ったのは、数分後か、あるいは数十分後だったかもしれない。
泥まみれになりながらも、奇跡的に岩陰に引っかかり難を逃れた淳史は、震える手で無線機の送信ボタンを押した。
「こちら訓練部隊! 状況報告、土砂災害発生! 負傷者多数、至急救援を求む!」
『こちら本部。豪雨によりヘリが飛べない。車両も土砂で道が塞がれている。到着には時間がかかる、持ちこたえろ!』
絶望的な返答に、淳史は無線機を握りしめたまま呆然とした。
その時、泥の中から呻き声が聞こえた。
我に返り、周囲を見渡した淳史の目に飛び込んできたのは、無残な光景だった。なぎ倒された巨木の下に、一人の隊員が挟まれている。
篤人だった。
昔からの友であり、互いの背中を預け合う「バディ」であり、誰よりも心を許せる大親友。
「篤人!」
淳史は泥水を跳ね上げて駆け寄った。巨木は篤人の下半身を完全に押し潰している。淳史は半狂乱で木を持ち上げようとしたが、人間の力で動くような重さではなかった。
「あつ、し……」
「今助ける! 待ってろ、今ここから出してやるから!」
「……おれは、いい」
篤人は血の気の失せた唇で、苦しげに笑った。
「おれは後でいい……他に、もっとひどい奴がいる……そっちを、先に……」
「馬鹿野郎! お前が一番重傷なんだよ!」
「頼む……淳史。お前の、判断だろ……隊員を、守れ」
その言葉は、淳史の胸に鋭い刃物のように突き刺さった。自分の判断ミスが招いた惨劇。その責任を、今まさに死に瀕している親友に諭されたのだ。
淳史は唇を噛み切りそうなほど強く食いしばり、篤人の肩に手を置いた。
「絶対に戻ってくる。死んだら承知しねぇぞ」
その瞬間だった。
篤人の体に触れた掌から、微弱な電流が走ったような奇妙な違和感が駆け抜けた。静電気とも違う、体の奥底が粟立つような感覚。だが、今はそれを気にしている余裕はなかった。
淳史は篤人の言葉に従い、泥の海へ飛び出した。
生存していた隊員たちと協力し、救助活動が始まった。岩の下から、泥の中から、仲間たちを引きずり出す。
しかし、状況は絶望的だった。重傷者が四名。内臓破裂や動脈損傷、いずれも一刻を争う状態だったが、本部の救援は未だ来ない。
「淳史三曹! これ以上は……脈が弱まっています!」
「くそッ、死なせてたまるか!」
淳史は、腹部から激しく出血し、意識を失いつつある後輩隊員の元へ駆け寄った。
罪の意識が、淳史の心を焼き尽くしていた。俺のせいで。俺が強引なルートを選ばなければ。俺が殺したも同然だ。
助けたい。助けなければならない。
その強烈な渇望が臨界点を超えた時、淳史の視界が白く明滅した。
傷口を押さえる両手が、熱かった。
否、熱を持っているのは自分の掌そのものだった。
後輩の体をさすりながら、「死ぬな、治れ」と念じ続けると、信じられない現象が起きた。
溢れ出ていた鮮血が、まるで逆再生映像を見ているかのように傷口へと戻り、裂けた皮膚がみるみるうちに塞がっていくのだ。
(なんだ、これは……?)
ありえない光景。だが、淳史はその現実を受け入れるよりも先に、次の行動に移っていた。理屈などどうでもよかった。仲間が助かるなら、悪魔の力でも構わない。
彼は次の重傷者へ這い寄り、同じように手をかざした。
一人治癒するたびに、自身の魂が削り取られるような、強烈な倦怠感が襲ってきた。立っていることすら辛い。内臓が鉛に変わったような重さ。視界が霞み、耳鳴りが止まない。
それでも淳史は止まらなかった。
「う……ぐぅッ……」
四人目の治療を終えた時、淳史は地面に膝をついた。心臓が早鐘を打ち、呼吸をするたびに肺が軋む。生命力を直接抜き取られたかのような枯渇感。
だが、まだ終わっていない。
篤人が待っている。
淳史は泥を這いずり、親友の元へと向かった。
数メートルが、何キロメートルにも感じられた。
大木の下で、篤人はぐったりと目を閉じていた。さっきまで気丈に振る舞っていたが、その顔色は土気色に変わり、胸の上下動も微弱になっていた。
「あ、つ……と……」
待たせたな。今、治してやる。
そう声をかけたかったが、喉が張り付いて声が出ない。
ふらつく足で立ち上がり、手を伸ばす。
あと一歩。あと数センチで、指先が篤人に届く。
プツン。
淳史の中で、何かの糸が切れた。
限界だった。
伸ばした指先は空を切り、淳史の体は重力に従って泥水の中へと崩れ落ちた。
視界が闇に塗りつぶされる直前、動かなくなった親友の横顔が、網膜に焼き付いた。
***
消毒液の無機質な匂いで、淳史は意識を取り戻した。
目を開けると、白い天井と、自分の腕に繋がれた幾本もの点滴チューブが目に入った。
重い頭を巡らせ、記憶の断片を拾い集める。雨、土砂崩れ、篤人の声、そして手から溢れ出したあの光。
あれは夢だったのだろうか。
「……淳史?」
視線を感じて顔を横に向けると、ベッド脇の椅子に姉の真千子が座っていた。憔悴しきった顔をしていたが、弟が目を覚ましたことに安堵の息を吐いていた。
「姉ちゃん……俺、どれくらい寝てた?」
「丸二日よ。峠は越えたって言われたけど、本当によかった……」
「そうか……。そうだ、篤人は? あいつ、俺が気絶する前はまだ……」
淳史の問いかけに、真千子の表情が曇った。視線を泳がせ、言い淀む。その反応だけで、淳史の心臓は冷たく凍りついた。
「篤人さんは……亡くなったわ」
時間が止まった。
姉の言葉の意味を脳が拒絶する。亡くなった? 誰が? あの頑丈だけが取り柄の篤人が?
嘘だ。姉ちゃんは何故、そんな酷い嘘をつくんだ。
「嘘だろ……。俺、他の四人は助けたんだぞ。あいつだって、俺が……」
そこまで言って、淳史は口をつぐんだ。
助けていない。
自分は、篤人に触れることすらできなかった。他の誰も彼も助けておきながら、一番助けたかった親友だけを、見殺しにしたのだ。
淳史の沈黙をどう受け取ったのか、真千子は静かに事故の状況を尋ねてきた。
淳史はうつろな目で、途切れ途切れに語った。土砂崩れのこと、そして、人を治す不思議な力のことを。
真千子は困惑した表情を浮かべた。当然だ。そんな話を信じられるはずがない。しかし、弟が嘘をついているようにも見えなかったのだろう。彼女は少し考え込んだ後、真剣な眼差しで言った。
「その力のこと……しばらく誰にも言わないで。約束して」
淳史は力なく頷いた。どうでもよかった。篤人がいない世界で、そんな力が何の意味を持つというのか。
三日後、淳史は退院した。
体はまだ鉛のように重かったが、じっとしてはいられなかった。駐屯地で行われる、篤人の殉職者部隊葬送式に参加するためだ。
重厚な葬送行進曲が、曇天の空に響き渡っていた。
整列した隊員たちの制服が、黒い塊のように見える。淳史はその中に混じり、祭壇を見つめていた。
国旗に包まれた棺。あの中に、篤人がいる。二度と動かず、二度と笑わない肉塊となって。
「儀仗隊、捧げ――筒!」
号令と共に、空気を切り裂くような金属音が揃う。
弔銃の銃声が、乾いた音を立てて空へ放たれた。一発、二発、三発。
その音が、淳史の心を打ち抜いていくようだった。
淳史は棺を直視しようとしたが、視界が歪んで焦点が合わない。
敬礼の手を上げたまま、唇が震えた。
理解できない。受け入れられない。
なぜ、お前なんだ。
なぜ、俺は生きているんだ。
四人を救った「奇跡」の代償が、お前の命だったというのか。
涙が止まらなかった。嗚咽を噛み殺し、淳史は雨のような涙を流し続けた。
数日後、淳史は辞表を提出した。
上官や同僚たちは慰留したが、淳史の耳には何も届かなかった。自衛官としての自分は、あの土砂の下で死んだのだ。
あの日以来、淳史の中で何かが決定的に壊れてしまった。
自分の意見を主張することへの恐怖。決断することへの忌避感。
もしまた自分が何かを決めれば、誰かが死ぬかもしれない。その強迫観念が、彼から「意志」を奪い去った。
淳史は実家の自室に閉じこもった。
カーテンを閉め切り、外界との接触を断つ。
暗闇の中で膝を抱え、彼は何度も何度も、あの日の光景を反芻し続ける。
届かなかった指先。親友の最期の笑顔。そして、呪いのように掌に残る、生温かい治癒の感触。
それは、後に彼が長い時間をかけて向き合うことになる、孤独な贖罪の始まりだった。




