第5話 スピード解決
その訪問者は、アポイントメントもなしに、まるで自宅の居間に入るかのような気軽さで理事長室に現れた。
国土交通大臣、鶴美(58)。
政財界に太いパイプを持ち、「女帝」の異名をとる次期総理候補だ。
「あら、いい茶葉を使っているわね」
鶴美はソファに深く腰掛け、勝手にお茶を啜ると、頬に手を当てて顔をしかめた。
「でもねえ、美味しく味わえないのよ。今日はこれからアメリカ大統領の歓迎晩餐会があるっていうのに、口内炎ができちゃって」
真千子はデスクで書類の山と格闘しながら、こめかみの青筋を隠すように笑顔を作った。
「……まさか、そのためだけにいらしたのですか?」
「『だけ』とは何よ。外交問題よ? 美味しいステーキが食べられないと、日米関係にヒビが入るかもしれないじゃない」
冗談とも本気ともつかない口調だ。真千子は溜息を飲み込み、弟を呼び出した。
やってきた淳史は、相手が大物大臣だろうが意に介さず、淡々と施術を行った。
「はい、治りました」
「あら! 痛くないわ。さすが『神の手』ね」
鶴美は鏡で口の中を確認し、満足げに頷いた。そして立ち上がり際、急に声を潜めて言った。
「そうそう。最近、随分と稼いでいるみたいじゃない」
「……正規の手続きで納税しておりますが」
「ええ、知っているわ。でもね、あまり派手にやると、妬む連中や頭の固い役人が動くわよ。出る杭は打たれる。気をつけてね」
鶴美の目は笑っていなかった。それは脅しではなく、彼女なりの親切心からの忠告だった。
「悪いわね、借りができちゃった。長居しても迷惑でしょうから、失礼するわ」
嵐のように現れ、嵐のように去っていった女帝の背中を見送り、真千子はどっと疲れを感じていた。
*
事態が急変したのは、夕刻だった。
明日、タッチの施術予定だった患者の容体が悪化したという連絡が入ったのだ。
患者は三ヶ月前のトンネル崩壊事故の被害者。脊髄損傷による下半身不随に加え、内臓機能の低下が著しく、今夜が峠になるかもしれないという。
「行くわよ、淳史!」
真千子は弟を助手席に押し込み、自らハンドルを握った。
だが、財団の地下駐車場を出た瞬間、絶望的な光景が広がっていた。
赤、赤、赤。
テールランプの海だ。車がピクリとも動かない。
「しまった……今日は大統領来日だわ」
都内は厳戒態勢。主要道路は検問だらけで、首都高速に至っては全面封鎖されている。一般道へ逃げた車で、東京中が麻痺していた。
「これじゃ、病院に着く頃には日付が変わってるよ」
淳史がスマホの地図アプリを見て呟く。画面は渋滞を示す真っ赤な線で埋め尽くされている。
真千子はハンドルを切った。
「首都高に乗るわ」
「え? 封鎖されてるんじゃ……」
「緊急車両扱いならいけるはずよ」
近くのインターチェンジへ強引に頭を突っ込む。入り口には数人の警察官と、バリケードが築かれていた。
「止まりなさい! この先は封鎖中です!」
警官が制止する。真千子は窓を開け、必死に訴えた。
「急患がいるんです! 医師と医療従事者です、通してください!」
「駄目です。大統領の車列が通過します。例外は認められません」
「人が死にそうなんですよ!?」
「救急車を呼んでください」
「その救急車が渋滞で動けないから言ってるんでしょう!」
問答無用で追い返されそうになる。真千子は唇を噛んだ。権力。圧倒的な権力の壁が、一人の命の前に立ちはだかる。
(権力には、権力をぶつけるしかない)
彼女はスマホを取り出し、数時間前の着信履歴をタップした。
*
迎賓館赤坂離宮。
絢爛豪華な広間には、日米の要人たちが集っていた。艶やかな着物姿の鶴美は、シャンパングラスを片手に談笑していたが、近づいてきた秘書の耳打ちに眉をひそめた。
「イカロスの真千子? 後にさせなさい」
「それが……『口内炎の借りを今すぐ返せ』と」
鶴美は目を丸くし、そして吹き出した。
「言うわねぇ。電話を寄越しなさい」
優雅にスマホを受け取った鶴美は、真千子の悲痛な叫びを聞いた。
『患者が危篤なんです! 首都高を通してほしいのです!』
「無茶を言うわねえ。今まさに、大統領が羽田からこちらへ向かっている最中よ」
『患者は、あの浜森トンネル崩壊事故の被害者です』
鶴美の表情から笑みが消えた。
あの事故は、国交省の点検不備が指摘されている人災だ。管轄大臣である鶴美にとって、最も触れられたくない、そして悔やんでも悔やみきれない古傷だった。
『……分かったわ。どこの入り口?』
場所を聞くと、鶴美は通話を切り、すぐ近くにいた恰幅のいい男に声をかけた。警視総監だ。
「総監、ちょっとお願いがあるの。私の友人が急患を運んでいるのだけど、首都高に入れてやってくださる? ……ええ、責任は私が持つわ」
*
インターチェンジの前で焦燥に駆られていた真千子の前に、先ほどの警官が青ざめた顔で走ってきた。無線機を握りしめている。
「し、失礼しました! 直ちにバリケードを撤去します! どうぞ!」
ものの数分での手のひら返し。
真千子はアクセルを踏み込みながら、鶴美という政治家の恐ろしさと、その義理堅さに身震いした。
封鎖された首都高は、完全な無人だった。
アスファルトが月明かりに照らされ、滑走路のように続いている。
真千子はスポーツカー並みの速度で車を飛ばした。
「……姉さん、あれ」
淳史が前方を指差した。
遥か前方に、赤色灯の列が見える。
白バイ隊に囲まれた、巨大な黒塗りのリムジン。「ザ・ビースト」と呼ばれるアメリカ大統領専用車を中心とした車列だ。
安全確保のため、彼らは時速六〇キロほどの低速で走行している。
「追いついちゃったわね」
「どうするの? 後ろをついていく?」
真千子はスピードメーターと、時計を交互に見た。患者の命は刻一刻と削られている。
「ついていったら間に合わない」
彼女はウィンカーを出した。追い越し車線への変更合図だ。
「えっ、まさか」
「しっかり掴まってなさい!」
真千子の車は加速した。
エンジンが咆哮を上げ、黒塗りの車列に並ぶ。
SPたちが驚愕の表情でこちらの車を睨みつけ、威嚇するように身を乗り出すのが見えた。だが、こちらには警視総監直々の許可がある。手出しはできないはずだ。
防弾ガラスの向こう、リムジンの後部座席に座る大統領のシルエットを一瞬だけ横目に見ながら、真千子はアクセルを床まで踏み抜いた。
「お先に失礼、ミスター・プレジデント!」
風を切り裂き、真千子の車は大統領車列を抜き去った。
誰もいない首都高を、一人の命を救うためだけに疾走する。それは、世界最強の権力さえも置き去りにする、痛快な瞬間だった。
*
病院に到着したのは、ギリギリのタイミングだった。
淳史が処置室に飛び込み、数分後。
心電図の警告音が、安定した電子音へと変わった。
廊下のベンチで、真千子は深く息を吐き出した。
手のひらがまだ震えている。だが、それは恐怖ではなく、高揚感によるものだった。
「……終わったよ」
処置を終えた淳史が出てきて、隣に座った。
「お疲れ様。……私たち、とんでもないことをしちゃったわね」
「大統領をあおり運転で追い抜くなんて、姉さんくらいだよ」
「人聞きが悪いわね。あれは正当な医療行為の一環よ」
二人は顔を見合わせ、声を殺して笑った。
夜空を見上げると、遠くで大統領歓迎の花火が上がっていた。その華やかな光の下で、誰にも知られることなく、一つの命が静かに救われていた。




