第58話 ただいま
淳史が羽田空港に降り立った、まさにその日の午後。
空港から数キロ離れた踏切内で、一つの悲劇が起きていた。
タイヤのパンクにより立ち往生した乗用車に、快速電車が衝突。その衝撃で電車は脱線し、横転しながら高架下の道路へと雪崩れ込んだ。
黒煙が上がり、サイレンの音が街を埋め尽くす。
多数の死傷者が出た大規模災害。
現場上空には、バリバリという爆音と共に、一機のドクターヘリが旋回していた。
「着陸します! 揺れますからご注意ください!」
機内には、フライトドクターとして勤務するノゾミの姿があった。
イカロス財団解散後、彼女は救命救急の最前線へと戻っていたのだ。
ヘリが降り立つと、そこは地獄絵図だった。ひしゃげた車両、逃げ惑う人々、そして路上に並べられた負傷者たち。
ノゾミはドクターバッグを鷲掴みにし、現場へ飛び出した。
「トリアージを行います! 歩ける人はあちらへ! 動けない人はそのままで!」
彼女は患者の元へ走り、瞬時に生死の判断を下していく。
黒(死亡)、赤(最優先治療)、黄(待機可能)。
タグを付ける手が震えそうになる。数が多すぎる。
瓦礫の下敷きになった老人、腹部を強打した妊婦、頭から血を流すサラリーマン。
赤タグの山だ。救急車の数は圧倒的に足りない。このままでは、助かる命も助からない。
「先生! こちらの患者さん、搬送します!」
救急隊員が、ノゾミが赤タグを付けたばかりの男性をストレッチャーに乗せようとした。
その時だった。
「……あれ?」
隊員が素っ頓狂な声を上げた。
「先生、これ……」
「どうしました!? 急がないと……」
ノゾミが振り返ると、信じられない光景があった。
ついさっきまで呼吸困難で呻いていた男性が、むくりと上半身を起こし、キョトンとした顔で自分の体を触っているのだ。
衣服はボロボロに破け、血がついている。だが、その下の皮膚は綺麗で、傷一つない。
「い、痛くない……?」
男性が立ち上がる。
それだけではない。隣にいた開放骨折の女性も、その向こうの意識不明だった青年も、次々と起き上がっている。
まるで、ビデオの逆再生を見ているかのように。
「な、何が起きてるの……?」
ノゾミは我が目を疑った。医学的にはありえない。集団幻覚か?
いや、違う。
この現象を、彼女は知っている。
世界でたった一人だけ、この理不尽な奇跡を起こせる人間を知っている。
ノゾミは弾かれたように周囲を見回した。
人混みの向こう。
夕日に照らされた瓦礫の山の間を、一人の青年が歩いていた。
倒れている人々の間を縫うように進み、肩に触れ、また次へと進んでいく。
その背中。
三年前に消えた、あの懐かしい背中。
「……淳史さん」
声が震えた。涙が溢れて止まらなかった。
淳史は振り返り、ノゾミを見つけると、静かに微笑んだ。
「ノゾミさん。……ただいま」
それは、三年前に動物園で別れた時と変わらない、穏やかな笑顔だった。
淳史は、空港から真千子の自宅へ向かうハイヤーの中でニュース速報を見たのだ。そして、居ても立っても居られず、制止するSPを説き伏せて現場へ急行した。
「淳史さん、どうして……」
「話は後です。……僕にも限界がある。全員は無理だ」
淳史は額に汗を浮かべていた。一瞬で何十人もの命を救い、エネルギーを消耗している。
「軽傷者は後回しにします。ノゾミさん、トリアージを続けてください。僕が、赤タグの患者から順にタッチしていきます」
その指示は的確で、力強かった。
ノゾミは涙を拭い、医師の顔に戻った。
「……はい!」
最強のタッグが復活した。
ノゾミが走り、診断し、赤タグを付ける。その直後に淳史が現れ、タッチする。
医学の選別と、神の治癒。
二人が通った後には、死の影が消え、生の歓喜が湧き上がっていった。
最終的に、三〇人以上の重傷者が救われた。
現場の混乱は、奇跡への驚愕と感謝の喧騒へと変わっていった。
日が落ち、現場検証が始まる頃。
規制線の外れで、淳史は肩で息をしていた。
ノゾミが駆け寄り、ペットボトルの水を差し出した。
「お疲れ様です。……本当に、凄かった」
「ノゾミさんこそ。的確な判断でした」
二人は見つめ合った。
三年の空白が、一瞬で埋まっていく。
淳史は水を飲み干し、真剣な眼差しで言った。
「ノゾミさん。僕は、イカロスを復活させようと思っています」
「イカロスを?」
「はい。もう隠れません。堂々と、この力で世界を変えていく。……だから、またノゾミさんにも手伝ってほしいんです」
それは、実質的なプロポーズにも似た、共闘の申し込みだった。
ノゾミは嬉しそうに頷いたが、ふと不安がよぎった。
三年前の動物園。
『また明日、話そう』と言って、彼は消えた。
もし、また明日になったら。
彼が遠い国の、手の届かない場所へ行ってしまったら。
ノゾミは思わず、淳史の袖を強く掴んだ。
「……また、突然いなくなったりしませんよね?」
その目には、置き去りにされた日々の寂しさが滲んでいた。
淳史はハッとした。
彼女をどれほど不安にさせ、傷つけてきたか。
淳史はノゾミの手を、自分の両手で包み込んだ。
「大丈夫です。もう二度と、あなたの前からは消えません」
彼は視線を横に向けた。
そこには、警視庁から派遣された四名のSPたちが、鋭い眼光で周囲を警戒していた。その中には、かつて淳史を見失ったことを悔やみ続け、鬼のような形相で警備に当たっている裕貴の姿もあった。
「彼らが守ってくれます。それに、何より……」
淳史はノゾミの目を見て、力強く言った。
「僕自身が、もう逃げないと決めたから」
ノゾミの手から力が抜け、安堵の涙がこぼれた。
その時、周囲が急に騒がしくなった。
現場の異変に気づいたマスコミが、淳史の存在を嗅ぎつけたのだ。
無数のフラッシュが焚かれ、マイクが突きつけられる。
「あの、あなたは!? 三年前の彼ですか!?」
「今の奇跡はあなたがやったんですか!?」
「顔を見せてください!」
以前の淳史なら、帽子を目深に被って逃げ出していただろう。
だが、今の彼は違った。
淳史は一歩前に出ると、カメラのレンズを真っ直ぐに見据えた。
逃げも隠れもしない。
これが、新しい時代の幕開けだ。
「……明日」
淳史の声が、喧騒を切り裂いた。
「明日、会見を開きます。今までのこと、そしてこれからのこと。全てをお話しします」
そう言い残し、淳史はノゾミを促して歩き出した。
背中に浴びるフラッシュの光は、もはや恐怖の対象ではなく、彼らが歩む未来を照らすスポットライトのように輝いていた。
明日は必ず来る。
そしてその明日は、今日よりもきっと、優しい世界になるはずだ。




