第56話 窮地に一生
その日の午後、ダニーはいつになく上機嫌で、淳史の宿舎に現れた。
手には上等な葉巻、顔には粘りつくような笑みを貼り付けている。
「よう、ドクター。とびきりいいことを思いついたぞ」
ダニーは淳史の肩に腕を回し、耳元で悪魔のビジネスプランを囁いた。
「先日、俺の腹を治しただろう? あれで確信したんだ。お前の力は『無限の生産ライン』になり得るってな」
提案されたのは、臓器売買だった。
だが、ただドナーを解体して売るのではない。
地下牢には、組織の金を横領しようとして捕まった裏切り者がいる。そいつを使うという。
「手順はこうだ。まず、そいつから腎臓や肝臓の一部を取り出す。で、お前がタッチして再生させる。また取り出す。また再生させる……」
ダニーはジェスチャー付きで、何度も腹を裂き、取り出す動作を繰り返した。
「無限ループだ! これならわざわざお前を移動させなくても、注文が入るたびに新鮮な臓器を『お取り寄せ』できる。在庫切れなしの錬金術だぜ!」
淳史は吐き気を催した。
人間を、生きる肉塊、あるいは臓器製造マシンとして扱う。今まで数々の非道を見てきたが、こればかりは一線を越えている。
生理的な嫌悪と恐怖で、指先が冷たくなる。
「……断る。そんなこと、できるわけがない」
「おやおや、まだ立場が分かってないようだな?」
ダニーの目が剣呑に光った。
「拒否権はないと言ったはずだ。やるんだよ、今日からな」
逃げ場はない。
どうする。どうやって回避する。
淳史が必死に思考を巡らせようとした、その刹那だった。
カラン、カラン……。
硬質な金属音が、足元に転がってきた。
ダニーが「ん?」と下を見た瞬間。
ドカァァァァン!!!
視界が真っ白に塗りつぶされた。
閃光弾だ。
鼓膜を突き破るような爆音と、網膜を焼く閃光。さらに、同時に炸裂した催涙ガスの白煙が瞬く間に部屋中に充満した。
「ぐあぁぁっ!」
ダニーや護衛たちが目を押さえてのたうち回る。
淳史も床にうずくまり、咳き込みながら目を閉じた。耳鳴りがキーンと響き、平衡感覚がない。
その混沌の中で、力強い手が淳史の腕を掴んだ。
「……クン! 淳史君、無事か!」
日本語だ。
聞き覚えのある、太く、頼りがいのある声。
目を開けることはできない。涙と痛みで視界はゼロだ。
だが、淳史には分かった。
「……隆史、さん……?」
催涙ガスのせいではない、熱いものがこみ上げてきた。
口元が勝手に緩む。来てくれた。本当に、助けに来てくれたんだ。
隆史は淳史を引きずるようにして、煙の届かない隣の小部屋へと退避させた。
「目を開けるな、こすらずに涙で流せ!」
数分後。痛みが引き、淳史は恐る恐る瞼を持ち上げた。
そこには、フル装備の特殊部隊員たちがいた。
防弾ヘルメット、プレートキャリア、アサルトライフル。その中心で、ゴーグルを外した隆史が、泥と汗にまみれた顔で優しく微笑んでいた。
「待たせたな。……迎えに来たぞ」
「隆史さん……!」
抱きつきたい衝動を抑え、淳史は渡されたヘルメットと防弾チョッキを装着した。
隆史の背後には、選抜された精鋭隊員が四名。彼らもまた、頼もしげに淳史に頷いた。
だが、状況は予断を許さなかった。
「脱出ルートだが……想定より敵が多い」
隆史が厳しい顔で端末の地図を示した。
「爆発で敵が集まってきている。この部屋を出た瞬間、蜂の巣にされるぞ。ヘリの着陸地点まで約二〇〇メートル。……強行突破するには、火力が足りない」
敵は数十人、あるいは百人近いカルテル兵だ。いくら精鋭でも、淳史を守りながらの移動は困難を極める。
隊員たちが沈黙する中、淳史が口を開いた。
「……陣形を組みましょう」
「陣形?」
「僕を中心に、円陣を組んでください。皆さんは外を向いて、敵を撃つ。僕は真ん中で、皆さんの背中に手を当てて進みます」
淳史は隆史の目を真っ直ぐに見つめた。
「もし誰かが撃たれたら、すぐに後ろからタッチして回復させます。即死さえしなければ、僕が何度でも治す。……不死身の盾になって、進むんです」
それは、回復役を要塞のコアにするという、淳史にしか提案できない禁断の戦術だった。
隆史は一瞬驚愕したが、すぐにニヤリと笑った。
「……なるほど。ゾンビ部隊か。悪くない」
隆史は隊員たちに向き直った。
「聞いたか! 背中は淳史君に預けろ! 痛みは一瞬だ、恐れずに突っ込め!」
「了解!」
ドアが開かれた。
外は、既に戦場だった。
ダダダダッ!
カルテル兵の一斉射撃が襲いかかる。
「進めぇッ!」
隆史を先頭に、五人の隊員が淳史を囲む円陣を組み、発砲しながら前進する。
だが、敵の弾幕は濃い。
「ぐっ!」
右翼の隊員が、太腿を撃ち抜かれて膝をつきそうになる。
その瞬間。
背後から淳史の手が伸びた。
――タッチ。
瞬時に筋肉と骨が繋がり、激痛が消える。
隊員は倒れることなく、そのまま体勢を立て直して反撃の弾丸を撃ち込んだ。
「すげぇ……! 本当に治った!」
次は左の隊員が肩を撃たれた。淳史は即座に反応し、走りながら手を当てる。
一瞬で完治。
血は流れるが、傷は残らない。
敵から見れば、それは悪夢のような光景だったはずだ。撃っても撃っても倒れない。血飛沫を上げながら、平然と歩みを進めてくる不死身の集団。
「ば、化け物だ! こいつら死なねえぞ!」
恐慌をきたした敵兵が逃げ出し、包囲網に穴が開く。
その隙を逃さず、隆史が叫んだ。
「ヘリが見えた! 一気に抜けるぞ!」
淳史は必死に食らいついた。
右へ、左へ、傷ついた仲間に触れ続ける。
解剖学の知識が活きた。どこをどう撃たれたか、瞬時に判断し、最適な修復を行う。
一人の脱落者も出すことなく、六人の塊はヘリコプターへと雪崩れ込んだ。
バリバリバリ!
ローターが回転数を上げ、機体が浮き上がる。
眼下に、悔しげに空を撃つダニーの姿が小さくなっていく。
機内で、隆史が淳史の肩を抱いた。
「やったな。……完璧な作戦だった」
淳史はヘルメットを脱ぎ、荒い息をつきながら、震える手で隆史の手を握り返した。
「……帰れるんですね。日本へ」
「ああ。帰ろう」
二年の地獄。
その終止符は、あまりにあっけなく、そして力強く打たれた。
遠ざかる密林を見つめながら、淳史はようやく、心の底からの涙を流した。




