第55話 ペットの逆襲
その夜、密林の奥深くに突如として現れた要塞のような豪邸は、狂乱の宴に包まれていた。
麻薬王ダニーの誕生日パーティー。
高い塀と、自動小銃を持った屈強な警備兵たちに囲まれた敷地内。プールサイドには、褐色の肌を露わにした水着の美女たちが溢れ、麻薬ビジネスで稼ぎ出した汚い金が、湯水のように酒と料理に変わっていた。
「飲め、食え! 今日は無礼講だ!」
ダニーが高笑いし、美女を侍らせている。
淳史もその場にいたが、楽しむことなど到底できなかった。彼の周囲には常に三人の見張りが張り付き、会話はおろか、トイレへの移動さえ制限されていたからだ。
広場の隅で、淳史は温くなったコーラを啜りながら、虚ろな目で喧騒を眺めていた。
惨劇は、一瞬の隙から生まれた。
屋敷の隅で、見世物として繋がれていた一頭の猛獣。以前、密猟者が置いていったあのピューマだ。
酒に酔った手下が、不用意に手綱を緩めた瞬間だった。
――ガァァァッ!
野生の咆哮が響き渡る。
ピューマは弾かれたように飛び出した。逃げるためではない。自分たちを檻に閉じ込め、玩具にした人間への復讐を果たすためだ。
狙いは一点。この場の支配者、ダニー。
「うわっ!?」
ダニーが悲鳴を上げる間もなかった。
黄金の閃光が走り、鋭い牙がダニーの右脇腹に食らいつく。肉を引き裂く鈍い音と共に、ダニーが血飛沫を上げて吹き飛んだ。
直後、護衛たちが発砲するが、ピューマはしなやかな動きで銃弾をかわし、驚異的な跳躍力で数メートルの塀を飛び越え、闇夜のジャングルへと消えていった。
残されたのは、血の海に沈むボスだけだった。
「ボ、ボスがやられた!」
会場はパニックに陥る。
淳史は反射的に駆け寄った。傷は致命的だった。右腹部がごっそりと食いちぎられ、内臓が露わになっている。出血多量で、放っておけば三十秒も持たない。
(……今、見捨てれば)
悪魔の囁きが頭をよぎる。ボスが死ねば組織は混乱する。その隙に逃げられるかもしれない。
だが、淳史の体は思考よりも先に動いていた。目の前で消えゆく命を見殺しにはできない。それがどんな悪党であっても。
淳史は血まみれの傷口に手を突っ込んだ。
解剖学のテキストで得た知識を総動員する。
右脇腹。ここにあるのは肝臓だ。肝動脈からの出血を止め、実質細胞を再生させる。
――タッチ。
イメージを送る。だが、光が走らない。
「……な、なぜだ!?」
淳史は焦った。欠損修復のコツは掴んだはずだ。設計図は完璧なはずなのに、細胞が応答しない。
ダニーの瞳孔が開きかけている。
「どけっ! 心音を確認する!」
パーティーに参加していた現地の医師が飛び込んできて、ダニーの胸に耳を当てた。
そして、驚愕の声を上げた。
「右だ! 心音が右から聞こえる!」
「えっ?」
「内臓逆位だ! こいつの臓器は左右が逆なんだよ!」
数千人に一人とも言われる、臓器の配置が鏡写しになっている特異体質。
淳史は戦慄した。
右脇腹にあるのは肝臓じゃない。反転しているなら、そこにあるのは――胃と、脾臓だ!
淳史は即座に脳内の解剖図を裏返した。
肝臓のイメージを捨て、胃壁の構造と、脾臓の血管網を詳細に描き直す。
――タッチ!
今度は反応した。
強烈な光と共に、食いちぎられた胃袋が再生し、血管が繋がり、皮膚が覆っていく。
数秒後。
ダニーが大きく息を吸い込み、生還した。
「……はぁ、はぁ、痛てて……」
ダニーは自分の腹をさすり、傷が消えていることを確認すると、ニヤリと笑った。
「まったく、狂暴な飼い猫だ。俺の胃袋を味見していきやがった」
命拾いした直後だというのに、軽口を叩く神経。
淳史は愛想笑いもせず、全身の血を拭った。
遠くの森から、獣の遠吠えが聞こえた気がした。
あのピューマは逃げ切ったのだ。
淳史は空になったコーラのグラスを手に取り、心の中で自由を手にした野獣に乾杯した。
僕はまだ、この塀の中だ。
だが、いつか必ず。
淳史は夜空を見上げ、その時を待ち続けた。




