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雲上タッチ ~触れるだけで、命を救う。神の力を宿した青年が世界を変える、奇跡の物語。~  作者: 団田図


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第52話 猶わが生活

 その日、診療所に担ぎ込まれてきたのは、泥と汗にまみれた初老の男だった。

 右足が丸太のように腫れ上がり、意識が混濁している。

 この村の農夫だ。テキーラの原料となる巨大な植物・アガベの収穫作業中に、葉の陰に潜んでいたサソリに刺されたのだという。

 アナフィラキシーショックによる呼吸困難。一刻を争う状態だったが、彼には町の病院へ行く金も、車もなかった。

 麻薬王ダニーは、時折こうして地元の貧しい人々に「慈悲」を与えることがあった。口外しないことを条件に、淳史のタッチを受けさせるのだ。それは善意などではなく、恐怖支配の中にわずかな恩義を混ぜることで、村人たちをコントロールするための政治的パフォーマンスに過ぎなかった。


 淳史は男の足に触れた。

 ゴツゴツとした、土に生きた手足。

 ――タッチ。

 体内に回った神経毒を分解し、過剰な免疫反応を鎮める。腫れが引き、男の呼吸が正常に戻る。

「……グラシアス、セニョール」

 男は涙ながらに淳史の手を握り、何度も頭を下げて部屋を出て行った。

 命が助かった。貧しいが、懸命に生きる命が。

 淳史が安堵の息をつき、手を洗おうとした、その直後だった。


 パン!

 乾いた破裂音が、窓の外で響いた。

 一発。躊躇いのない音。

 淳史は弾かれたように外へ飛び出した。

 灼熱の太陽の下、砂埃の上に、さきほどの農夫が倒れていた。

 頭から血を流し、痙攣することもなく絶命している。

 その傍らに、まだ硝煙の燻る拳銃を手にしたダニーが立っていた。アロハシャツに、赤い返り血が点々と飛んでいる。

「……な、何を」

 淳史は言葉を失った。

 数分前。自分が助けたばかりの命だ。それを、なぜ。

「こいつはな、村の自警団のメンバーだ」

 ダニーは表情一つ変えず、冷淡に言った。

「昨日、うちの若いのが一人殺された。その報復だ」

「報復……? じゃあ、なぜ治療させたんだ! 助けておいて、すぐに殺すなんて!」

 淳史が詰め寄ると、ダニーは銃口を死体に向けて吐き捨てた。

「サソリの毒で死ぬのと、俺に殺されるのとじゃ意味が違う。これは『掟』だ。俺たちに逆らえばどうなるか、村の連中に思い出させてやったのさ」

「あんまりだ……! 彼はただの農民じゃないか!」

「よくあることだ、アミーゴ。早く慣れろ」

 ダニーは淳史の肩をポンと叩き、興味を失ったように屋敷へと戻っていった。


 残された淳史は、農夫の遺体の前で立ち尽くした。

 足の腫れは綺麗に引いている。毒は消えた。

 だが、その代わりに脳を鉛の弾が貫いた。

 虚しい。あまりにも虚しい。

 この国では、政府は汚職にまみれ、麻薬組織の撲滅など本気でやっていない。警察すらカルテルの犬だ。だから村人たちは自警団を作り、自分たちの手で村を守ろうとする。

 だが、圧倒的な武力と資金力を持つカルテルには敵わない。

 彼らは安い賃金で大麻やケシを作らされ、貧困と飢えに苦しみ、さらにこうして恐怖に怯えて暮らすしかないのだ。

 淳史は自分の手を見つめた。

 この手は、病気を治せる。怪我を治せる。

 だが、この腐りきった社会構造を、暴力の連鎖を、貧困という病を治すことはできない。

 一人の人間を治しても、その一秒後に理不尽な暴力が命を奪う。

 これでは、穴の開いたバケツに水を注ぎ続けているのと同じだ。

(力が欲しい……)

 淳史の胸の奥で、黒い炎のような渇望が渦巻いた。

 人を治すだけでは足りない。

 国を、社会を、この歪んだ世界そのものを治療する力が欲しい。

 そうでなければ、ミライが生きていくこの世界は、いつまで経っても地獄のままだ。

 乾いた風が、血の匂いを運んでいった。


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