第51話 不幸中の不幸
その日、診療所に運び込まれてきたのは、汗と汚物にまみれて痙攣する一人の男だった。
口から泡を吹き、白目を剥いている。モニターの心拍数は異常な速さで跳ね上がり、今にも心停止しそうな状態だ。
「……運び屋だ。仕事中に失敗しやがった」
付き添いのカルテル構成員が、汚いものを見る目で吐き捨てた。
ここ中南米メキテマラ共和国は、巨大な消費地であるアメリカの喉元に位置する。この地を支配する「クロアナカルテル」の主力商品は、密造された安価なアンフェタミンだ。
『スマートドラッグ』という甘い売り文句で世界中の受験生や学生にばら撒かれているが、その実態は不純物だらけの粗悪品。強力な覚醒作用の代償に、毎日数人の若者が心臓発作で命を落としている代物だ。
目の前の男は、その劇薬を国境の向こうへ運ぶための捨て駒だった。
手口は古典的かつ命がけだ。コンドームや指サックに薬物を詰め、それを指先ほどの小包にし、何十、何百個と飲み込む。胃の中に隠して税関をすり抜け、後で排泄して回収する「ボディパッカー」。
だが、男は運に見放されていた。
飲み込む途中で、あるいは胃酸に耐えきれずに、腹の中の小包が一つ、破裂したのだ。
高濃度の覚醒剤が胃粘膜から急速に吸収され、致死量を遥かに超える急性中毒を引き起こしている。
腹の中に、時限爆弾を抱えているようなものだ。
「おいドクター、助かるか? 中の商品は諦めるが、こいつにはまだ借金があるんだ」
構成員の冷酷な言葉を聞き流し、淳史は男の腹部に手を当てた。
解剖図譜で学んだ知識を総動員する。
胃の形状、内容物の位置。そして、血液中に溶け出した毒素の分子構造。
――タッチ。
淳史は「修復」と「消去」を同時にイメージした。
光が走る。
胃の中に詰め込まれていた数十個の小包は、破れた一つも含めて跡形もなく分解・消滅した。同時に、脳と心臓を破壊しようとしていた血中の薬物成分も中和される。
男の痙攣が止まり、荒い呼吸が穏やかな寝息へと変わった。
命は、助かった。
男が目を覚ませば、また借金を背負わされ、別の危険な仕事に従事させられるだろう。
淳史は、眠る男の顔を見下ろしながら、やり場のない虚無感に襲われていた。
悪いのは誰だ。
毒を製造し、人を使い捨てにするカルテルか。
安易に快楽や成績を求め、薬に手を出す先進国の学生か。
命を賭けてまで小銭を稼ごうとする、この男の浅はかさか。
それとも、まともな産業や雇用を生み出せない政府か。教育を受けさせられなかった親か。
根は深すぎて、どこにも辿り着かない。
淳史の「タッチ」は、破裂した袋を消すことはできても、この国を覆う貧困と犯罪の連鎖を断ち切ることはできない。
助けたはずなのに、少しも嬉しくなかった。
ただ、巨大な悪意のシステムの中で、壊れた部品を一つ修理してやっただけのような、虚しい徒労感だけが手に残っていた。




