第50話 パンデミック前夜
その日、密林のアジトに運び込まれたのは、人間ではなく、巨大な棺桶のような物体だった。
透明な強化プラスチックで密閉されたアイソレーター(隔離カプセル)。
その周囲を、宇宙服のような防護服に身を包んだ男たちが取り囲んでいる。
物々しい雰囲気の中、カプセルの内部には、一人の男が横たわっていた。顔は土気色で、呼吸器に繋がれ、苦悶の表情を浮かべている。
「……近づくな、ドクター。こいつは歩く生物兵器だ」
監視役がマスク越しに警告した。
男は、アメリカの巨大軍事企業の兵器開発部門、その中でも極秘中の極秘である「生物化学兵器グループ」の研究員だった。
彼らは「殺人ウイルス」を製造していたのだ。
現代の遺伝子工学において、ウイルスの設計はコンピューターウイルスを作るのと同じくらい容易になっているという。致死率、潜伏期間、標的とする遺伝子タイプ。それらを自在にプログラムし、ドローンに搭載して散布すれば、証拠を残さずにターゲットを暗殺できる。
男は研究中、誤ってその試作品を吸い込んでしまったのだ。
「サイトカインストーム(免疫暴走)を起こしている。肺が溶けかかっているそうだ」
自分の免疫細胞が、ウイルスを排除しようと暴走し、正常な細胞まで攻撃して自滅していく。
あと数日の命。
「感染力は低いように調整してある。接触しても大丈夫だとは聞いているが……保証はない」
監視役たちは恐怖で後ずさっていた。
淳史はゴクリと唾を飲み込んだ。
見えない死神。もし自分が感染すれば、ここには誰も治せる者はいない。
だが、カプセルの中で男が痙攣し、助けを求めるようにガラスを引っ掻いた。
淳史は覚悟を決めた。
カプセルに設置された、外部から手を入れるためのグローブポート。そこに自分の手を差し込む。
ゴム手袋越しの感触。
男の胸に手を当てる。
――タッチ。
淳史はイメージした。
体内で暴れまわる免疫細胞を鎮め、核となるウイルスのRNAを分解する。
光が走る。
男の呼吸が穏やかになり、モニターの心拍数が正常値へと戻っていく。
体内の「死のプログラム」は消去された。
カプセルから出された男は、礼も言わず、逃げるように迎えの車へと乗り込んでいった。彼もまた、自らが作り出した怪物の恐怖に怯えていたのだろう。
静寂が戻った部屋で、淳史は震えが止まらなかった。
怖い。
テロリストの銃よりも、麻薬王の脅しよりも、今触れた「悪意」の方が遥かに恐ろしかった。
ワクチンも特効薬もないウイルスを意図的に作り出すこと。
それは、超低速で核融合反応を起こし、じわじわと人々を殺していく核爆弾を作っているに等しい。
もし、感染力を極限まで高めたウイルスがデザインされ、何かの手違いで、あるいは悪意を持ってばら撒かれたら?
パンデミック。世界崩壊。
淳史は今までの経験から知っていた。人間の欲望と好奇心には底がない。
「できることは、やってしまう」のが人間だ。倫理や人道など、知的好奇心の前では無力だ。
想像できることは、大体現実になる。
淳史は、窓の外に広がるジャングルの緑を見つめた。
この美しい地球が、いつか人間の手によって「巨大な隔離カプセル」に変わる未来が見えるようで、吐き気がした。
あの研究者が、今回の恐怖に懲りて、開発を断念してくれることを祈るしかない。
だが、それはあまりにも儚い、無力な祈りだった。




