第4話 絶望の矛先
小児病棟の四〇五号室。そこは長い間、死の影と隣り合わせの場所だった。
だが今日、その部屋は眩しいほどの陽光に包まれていた。
「ママ、これ持って帰っていい?」
「ええ、もちろんよ。全部持って帰りましょう」
六歳の少女、早紀が悪性白血病から奇跡の生還を果たしたのだ。
淳史による『タッチ』が行われたのはついさっきのこと。骨の髄まで浸食していた病魔は消え去り、早紀の頬には林檎のような赤みが戻っていた。
両親が嬉し涙を流しながら荷物をまとめている間、早紀はベッドの柵に指を這わせていた。
視線の先にあるのは、隣のベッドだ。
今は誰もいない。真っ白なシーツが、痛いほど綺麗に整えられている。
「……トモ君」
早紀が小さく呟いた時、ベッドのマットの隙間から、四つ折りにされた紙切れがひらりと落ちた。
早紀はそれを拾い上げた。拙いひらがなで『パパへ』と書かれている。裏返すと『ともきより』という文字。
それは、三日前にこの部屋から天国へと旅立った友達、智樹(6)が遺したものだった。
*
医師の湊は、白衣のポケットに入れた封筒の重みを感じながら、重い足取りで廊下を歩いていた。
封筒の中身は、退職願だ。
彼はこの大学病院で小児科医として働きながら、研究室で白血病の新薬開発に没頭していた。すべては、自分の息子――智樹を救うためだった。
だが、間に合わなかった。
息子の最期を看取ったあの日、湊の中で何かがプツリと切れた。医師としての矜持も、研究への情熱も、息子と共に棺桶に入れて燃やしてしまったのだ。
(もう、潮時だ……)
院長室へ向かおうとした、その時だった。
「先生! ありがとうございました!」
廊下の向こうから、元気な声が響いた。
見ると、早紀が両親と共に歩いてくる。いや、スキップをしている。昨日までベッドから起き上がるのもやっとだった少女が、笑っている。
湊は我が目を疑った。医学的にありえない回復。
その瞬間、彼の脳裏にある噂が過ぎった。
――財団法人イカロス。神の手を持つ男。タッチ。
(まさか……)
湊もまた、息子のためにその財団へ藁にもすがる思いで応募していた一人だったからだ。
早紀が当選し、智樹は選ばれなかった。
その事実は、冷え切っていた湊の心に、どす黒い炎を点火させた。
なぜだ。なぜ息子じゃない。二人とも同じ病気で、同じ部屋で苦しんでいたのに。運が悪かったというのか。息子の命は、くじ引きのハズレだったというのか。
やり場のない怒りが全身を駆け巡った。
湊は踵を返し、ナースステーションの端末を操作した。防犯カメラのログを遡る。部外者の出入りを確認する。
いた。
三〇分前、早紀の病室から出てくる若い男と、スーツの女。
まだ病院のロビーに映っている。
湊は退職願を握り潰し、獣のような形相で走り出した。
*
自動ドアを出ようとしていた淳史と真千子の背後に、怒号が迫った。
「おい! 待て!」
振り返った瞬間、淳史は胸ぐらを強く掴まれた。
目の前には、充血した目で涙を溜めた男――湊が立っていた。
「お前だろ……あの子を治したのは!」
「離してください!」
真千子が割って入ろうとするが、湊の力は凄まじかった。
「どうしてだ……どうして智樹じゃないんだ! 隣にいたんだぞ! あいつも同じように苦しんでたんだ! 選ぶなら二人とも助けてくれよ!」
ロビーの注目が集まる。だが湊は止まらない。
「苦しんでいる子供全員を治せないんだったら、そんな半端な奇跡を見せつけんじゃねえよ! 俺だって……俺だって、あと少しで病気を治せる手がかりを見つけられたのに……っ!」
それは、息子を救えなかった自分自身への絶望の吐露でもあった。
淳史は抵抗しなかった。
悲痛な父親の叫びを、ただ静かに受け止めていた。淳史自身の瞳にも、苦渋の色が滲む。神の手を持とうとも、彼はすべての悲しみを拭えるわけではないのだ。
「先生……?」
張り詰めた空気を破ったのは、幼い少女の声だった。
早紀だ。両親と共に、騒ぎを聞きつけて駆け寄ってきたのだ。
湊の手から力が抜けた。淳史の胸から手を離し、力なく後ずさる。合わせる顔がない。自分が救えなかった息子と同じ病気から、他人の手で救われた少女。
「……おめでとう、早紀ちゃん。元気でな」
背を向けて立ち去ろうとする湊に、早紀は小さな手を差し出した。
「待って。智樹君のパパ。これ、あったよ」
それは、四つ折りの手紙だった。
「智樹君からのお手紙。ベッドの隙間に落ちてたの」
湊は震える手でそれを受け取った。
早紀の母親が、涙を堪えて湊を見つめ、そして早紀に頷いた。
「早紀、先生に読んであげて」
「うん」
早紀は自分の記憶をたどるように、そして天国の友達に語りかけるように、手紙の内容を口にした。
『パパへ。
パパは、ぼくのスーパーヒーローです』
湊の動きが止まった。
『パパの研究は、ぼくだけじゃなく、早紀ちゃんや、ほかの苦しんでいる子供も治すお薬を作ってくれるんだよね。ぼくは知ってるよ。夜遅くまで病院で頑張ってるパパを見てたから』
湊の喉から、押し殺した嗚咽が漏れた。
『だから、ぼくはタッチはいらない。だってパパが治してくれるんだもん。
パパのお薬で治るほうが、ずっとかっこいいよ。
パパ大好き。智樹より』
その場にいた誰もが、言葉を失った。
智樹は知っていたのだ。父親が自分のために戦っていることを。そして、安易な奇跡に頼るよりも、父親の努力を信じ、誇りに思っていたことを。
「う、あああぁぁ……!」
湊はその場に崩れ落ち、手紙を胸に抱いて泣き崩れた。
どれほど悔しかっただろう。どれほど生きたかっただろう。それでも息子は、最期まで父親を信じ抜いたのだ。
真千子が、静かに湊のそばに膝をついた。
彼女の目にも、光るものがあった。だが、彼女はプロとして、伝えるべきことを口にした。
「湊先生。……実は、智樹君についても、我々は調査済みでした」
湊が涙に濡れた顔を上げる。
「彼もまた、今週のタッチの候補者リストに入っていました。ですが、間に合いませんでした。……私たちの力が及ばず、本当に申し訳ありません」
真千子は深く頭を下げた。そして、顔を上げて力強く続けた。
「それと、私たちはあなたの研究論文も調査しました。あなたの進めている小児白血病治療薬のアプローチは、極めて革新的で、実用化の可能性が高いと評価しています」
真千子は懐から名刺を取り出し、湊の手に握らせた。
「タッチで救える人数には限りがあります。だからこそ、あなたのような医師が必要なんです。……財団から、研究費の助成をさせてください。金額に上限は設けません」
湊は名刺と、息子の手紙を交互に見た。
「どうか、研究を続けてください。亡くなった智樹君のためにも。そして、これから生まれてくる、第二、第三の智樹君たちのためにも」
湊は自分の愚かさを恥じた。
自分は八つ当たりをしていただけだ。奇跡に嫉妬し、自らの敗北から逃げようとしていただけだ。
だが、息子は見ていた。スーパーヒーローであるパパを。
「……先生」
早紀が近づき、湊の頭を小さな手で撫でた。
「痛いの痛いの、とんでいけ」
それはかつて、湊が注射のあとに早紀にしてあげたおまじないだった。
淳史も、早紀の両親も、静かにその光景を見守り、最愛の子を亡くした男の悲しみに寄り添った。
*
数日後。
大学病院の片隅にある研究室に、明かりが戻っていた。
顕微鏡を覗き込む男の背中は、以前よりも少し痩せたように見える。だが、その瞳に宿る光は、決して消えることのない強さを帯びていた。
デスクの傍らには、一枚の写真と、拙い文字の手紙が飾られている。
――パパは僕のスーパーヒーロー。
その言葉がある限り、彼は戦い続けるだろう。
神の手ですら救いきれない命を、人間の叡智と執念で救い出す、その日が来るまで。




