第47話 神降臨
痛みも、音も、重力さえも消えていた。
淳史は、乳白色の光の中に漂っていた。
それは覚醒と睡眠の狭間であり、あるいは生と死の境界線なのかもしれない。
不思議と恐怖はなかった。
腹を撃ち抜かれたはずなのに、熱さも苦しみもない。ただ、懐かしいような、温かい浮遊感だけがある。
(……ああ、俺は死んだのか)
安堵にも似た感情が湧き上がった。
もう、治さなくていい。追われなくていい。誰かの欲望の道具にならなくていい。
アーリヤの元へ行ける。
そう思って意識を手放そうとした時、視界の端に何かが映った。
人影だ。
いや、人と言うにはあまりに小さい。一寸法師のような小人が、光の中に胡座をかいて浮いていた。古風な装束をまとい、威厳のある、しかしどこか愛嬌のある顔でこちらを覗き込んでいる。
「……誰だ?」
淳史が声に出さずに問うと、小人はニヤリと笑った。
『我こそは、少彦名である』
頭の中に直接響くような声。
少彦名。聞き覚えがある。
そうだ、篤人の実家、祀られていた祭神だ。医薬とまじないの神。
『なぜここに……?』
『愚問じゃな。我は古代より、選ばれし者の体の中に宿りし「人宿神」なり。今は主の体に宿っておる』
小人――少彦名は、我が物顔で言った。
『主が「タッチ」と呼んでおるあの力は、我が持つ治癒の技じゃ』
淳史は呆然とした。
突然変異でも、超能力でもなかった。自分の体の中に、神様が住み着いていたのか。
『どうして、僕なんだ……』
『我は宿主が死を迎える直前に、次の宿主を探し、乗り移る習性がある』
少彦名は、遠い昔を懐かしむような目をした。
『主の前は、篤人なる若人じゃった。その前は、その祖父。……あの土砂崩れの日、篤人は息絶える寸前、そばにいた主に我を託したのじゃよ』
繋がった。
あの日、泥の中で感じた電流のような感覚。あれは、親友からの命のバトンだったのだ。篤人は最期まで、淳史に何かを残そうとしてくれていた。
『そして今。鉛玉を土手っ腹に食らった主は、まさに絶命しようとしておる』
少彦名は淡々と告げた。
『我もそろそろ、お暇する頃合いかのう』
それを聞いて、淳史はふっと肩の力を抜いた。
やはり、終わりなのだ。
『……そうか。分かったよ。次はもっと、幸せな奴に取り憑いてくれ。僕はもう、疲れた』
生きることに、執着はなかった。この悪夢のような日々から解放されるなら、死は救済だ。
淳史が目を閉じようとすると、少彦名が慌てたように声を上げた。
『待て待て! 早まるでない! 困ったことがあるのじゃ!』
『……困ったこと?』
『うむ。我は古代日本の神ゆえ、日本人の体にしか馴染めんのじゃよ。体質的にとでも言うかの』
少彦名は周囲を指差した。
『見てみぃ、今の状況を。周りはラテン系の人間ばかりじゃ。主がここで死んだら、我は次の宿主を見つけられず、路頭に迷ってしまうわ!』
なんという理由だ。
神様の都合による、生存の危機。
『よって今回は特別じゃ。主を助けてやる』
少彦名は腕組みをして、偉そうに宣言した。
『いいか、生きよ。生きて、何としても日本の地に戻るのじゃ。我のために!』
淳史は苦笑したかったが、笑う気力もなかった。
『……勝手なことを』
『勝手ついでにもう一つ教えてやろう』
少彦名の表情が、ふと真剣なものに変わった。
『かつて我の力を得た者は数多おる。金儲けに走る者、気づかず一生を終える者、力の強大さに恐れをなして隠遁する者……。だが、主のような奴は初めてじゃ』
『……?』
『己を犠牲にしてまで、公に尽くそうとするその心意気。……見事じゃった。神として、少しばかり感心したぞ』
褒められた。
人智を超えた存在に、自分の生き方を肯定された気がした。
『だがな、主はまだ力の使い方が分かっておらん。下手くそじゃ』
少彦名は説教をするように指を振った。
『主はいつも、気合と根性で全力で治そうとしておるだろう? それではすぐにガス欠になる。傷や病がどこにあり、どれだけの大きさか。それを「理解」し、意識して患部に触れれば、効率は格段に上がる。今の十倍は治癒できようぞ』
イメージと理解。
ただ念じるのではなく、解剖学的にアプローチしろということか。
『さらに、主は「欠損した部位は治せない」と思い込んでおるようだが、それは間違いじゃ』
『えっ……?』
『無いものは作ればいい。人体の構造を精緻に理解し、設計図を頭に描きながら触れれば、失われた腕や足、臓器でさえも復元できる。……主なら、できるはずじゃ』
欠損の修復。再生医療の極致。
それが可能なら、今まで救えなかった多くの人々を、救うことができる。
淳史の心に、消えかけていた灯火が再び灯った。
『よいな。心してかかれ』
少彦名の体が光に溶け出し、粒子となって淳史の腹部へと吸い込まれていく。
『生きよ、淳史。……道はまだ、続いておるぞ』
カッ!
猛烈な光と共に、感覚が戻ってきた。
轟音。風圧。ガソリンの臭い。
「……はっ!」
淳史は大きく息を吸い込み、目を見開いた。
ヘリコプターの機内だ。
腹部に手をやる。
服にはべっとりと血がついており、穴が開いている。だが、その下の皮膚は滑らかで、傷跡一つ残っていなかった。
治っている。
神様の「特別措置」だ。
「……生きてる」
自分の心臓の音を聞きながら、淳史は震える手を見つめた。
あのアドバイスが本当なら、俺はもっと強くなれる。
ヘリコプターが着陸態勢に入った。
ハッチが開く。
まばゆい日差しの中に、数人の人影が見えた。
(もしかして……救助か?)
日本政府か、あるいは隆史さんが来てくれたのか。
淳史は期待を胸に、機外へと降り立った。
だが。
ガチャリ。
目の前に突きつけられたのは、無機質な銃口の列だった。
銃を持っているのは、迷彩服を着た屈強な男たち。そしてその中心には、あのマニキュアの女が不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「あら、生きてたのね。頑丈なドクターだこと」
彼女の瞳に、慈悲の色はない。あるのは「高価な商品」を見る目だけだ。
救助ではない。
所有者が変わっただけだ。
淳史は深く息を吐き、落胆の表情を浮かべた。
だが、その瞳の奥には、以前のような絶望とは違う、静かで冷たい光が宿っていた。
(……いいだろう。生きてやる)
日本へ帰る。
少彦名との約束。そして、まだ見ぬ未来のために。
淳史は両手を上げ、新たな地獄への一歩を踏み出した。




