第46話 ラテン襲来
その日、監禁部屋の重い扉が開くと、強烈な香水の匂いが鼻をついた。
砂埃とカビの臭いが染み付いたこの場所には、あまりに不釣り合いな香りだった。
入ってきたのは、派手なドレスに身を包んだ、ラテン系の美女だった。豊かな黒髪、情熱的な瞳、そしてボディラインを強調した服。彼女はまるでパーティ会場から抜け出してきたかのような足取りで、淳史の前の椅子に座った。
後ろには、いつものように銃を構えたテロ組織の監視役が立っている。だが、彼女はそんな男たちを一瞥もしない。
「……ドクター。これ、治してちょうだい」
彼女が差し出したのは、左手の人差し指だった。
深紅のマニキュアが塗られた爪。その先端が、わずかに欠けてヒビが入っている。
「……は?」
淳史は絶句した。
「質の悪いマニキュアを使っちゃってね。爪が割れちゃったのよ。お気に入りだったのに」
彼女は真顔で言った。
冗談ではないらしい。
今まで、手足を吹き飛ばされた兵士や、末期癌の富豪、果ては遺伝子操作で怪物化した男など、数多の「絶望」を見てきた。
だが、これは何だ。
爪割れ。
ダークウェブで数千万円、あるいは億単位で取引されている「神の奇跡」を、彼女は爪の修復だけに使おうとしているのか。
「……本気ですか? たかが爪ですよ」
「たかが爪? 女にとっては命より大事なパーツよ。早くして」
彼女は急かすように指を突き出した。
狂っている。この世界は、もう完全に狂ってしまった。
淳史は諦めにも似た溜息をつき、彼女の指先に触れた。
――タッチ。
微かな光と共に、欠けた爪が再生し、滑らかな曲線を取り戻す。マニキュアごと元通りになった指先を見て、女は妖艶に微笑んだ。
「完璧ね。グラシアス(ありがとう)」
そして、彼女はその美しい指を自分の口元へ持っていった。
艶めかしい仕草に見えた。
だが、次の瞬間。
ピュィィィィッ!!
彼女の唇から、空気を切り裂くような鋭い指笛が響き渡った。
それが、合図だった。
ズダダダダダッ!!
建物の外で、爆竹が弾けたような音が連続して鳴り響いた。
銃声だ。それも、一丁や二丁ではない。
「なっ……!?」
監視役の兵士が慌てて無線機に手を伸ばそうとした瞬間、窓ガラスが粉々に砕け散り、兵士の胸に赤い花が咲いた。
「伏せて!」
女が叫び、淳史の腕を強引に引いた。
淳史は訳も分からぬまま、女と一緒に頑丈な木製デスクの下へと転がり込んだ。
頭上で銃弾が飛び交う。木屑が舞い、硝煙の臭いが充満する。
「な、何が起きてるんですか!?」
「お迎えよ! あなたを買いに来たの!」
女はドレスの裾をまくり上げると、太腿のホルスターから大型の自動拳銃を抜き放った。その表情からは、さきほどまでの優雅さは消え失せ、冷酷な兵士の顔になっていた。
ドアが蹴破られ、迷彩服を着た男たちが雪崩れ込んでくる。
女の仲間だ。彼らは手慣れた動きで、室内のテロリストたちを次々と射殺していく。
制圧完了まで、わずか数十秒。
「行くわよ、ドクター!」
女が立ち上がり、淳史の手を引こうとした。
その時。
まだ息のあったテロリストの一人が、血まみれの手でアサルトライフルの引き金を引いた。
ダダッ!
至近距離からの発砲。
淳史の腹部に、焼けるような衝撃が走った。
「あ……がっ……」
熱い。痛いというより、熱い鉄棒を腹に突き刺されたような感覚。
淳史はその場に崩れ落ちた。
視界がぐらりと歪む。
「チッ、手間をかけさせて!」
女が舌打ちをし、瀕死のテロリストの頭を撃ち抜いてトドメを刺した。
そして、彼女は淳史の元へ戻ると、出血する腹部を一瞥し、驚くべき怪力で淳史を担ぎ上げた。
「しっかりしなさい! 死んだらタダじゃおかないわよ!」
彼女の肩に担がれ、淳史は揺れる視界の中で天井を見つめていた。
外に出ると、猛烈な風圧と轟音が襲ってきた。
ヘリコプターだ。
ローターが砂煙を巻き上げ、着陸しようとしている。
(ああ……また、連れて行かれるのか……)
意識が急速に遠のいていく。
腹の傷から、命が流れ出していくのが分かる。
自分の傷は、自分では治せない。
皮肉なものだ。何百人も治しておいて、最後はこうして誰かに撃たれて終わるのか。
ヘリに放り込まれる感覚と、上昇する浮遊感。
薄れゆく意識の淵で、淳史はミライの笑顔を思い出そうとしたが、それも砂嵐のようなノイズにかき消されていった。
深い闇が、彼を飲み込んだ。




