第44話 ペットコアラのマーク
その日、地下室に現れたのは、映画から抜け出してきたようなダンディーな男だった。
仕立ての良いスーツに、磨き上げられた革靴。彼はイタリアンマフィアのボスだと名乗った。
彼が抱えていたのは、人間ではなく、一匹の小さな動物だった。
「……見てくれ、ドクター。うちの『マーク』の調子が悪いんだ」
差し出されたのは、コアラだった。
だが、ただのコアラではない。全身の毛が雪のように白く、その瞳は右がブルー、左がイエローのオッドアイ。
アルビノ種というだけでも希少なのに、この瞳の色。自然界の奇跡が生んだ、生ける宝石だ。
本来、コアラはオーストラリア政府によって厳重に保護されており、個人がペットとして飼うことなど不可能なはずだ。間違いなく、裏ルートで密輸されたものだろう。
「最高のユーカリを取り寄せて食わせているのに、全く食欲がない。獣医に見せても原因不明だと言う」
男は困ったように肩をすくめたが、その目に心配の色は薄かった。
淳史はコアラの背中を撫でた。フワフワとした毛並みだが、その下にある体は痩せ細っていた。
ふと、動物園に通っていた頃の記憶が蘇った。
ベテラン飼育員の文世が言っていた言葉。
『コアラというのはね、とてもデリケートな生き物なんだ。音や光、温度の変化。些細な環境の変化が大きなストレスになって、命を落とすことさえある』
ここは中東の砂漠地帯。空調で管理されているとはいえ、移動の連続や慣れない環境音は、この繊細な生き物にとって拷問に等しいはずだ。
淳史はコアラの背中に手を当て、念じてみた。
――タッチ。
……手応えがない。
病気や怪我なら、治癒する感覚が掌に返ってくる。だが、今回はそれがなかった。
肉体的な疾患ではない。環境による極度のストレス。心が拒食を選んでいるのだ。こればかりは、淳史の力でもどうにもならない。
「……病気ではありません。ストレスです。この環境が彼を苦しめている」
淳史が告げると、男はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「なんだ、繊細すぎるのも考えものだな。……まあいい、このまま死んだら新しいのを買うさ。代わりはいくらでもいる」
男はコアラを無造作に抱き上げ、帰っていった。
そこには、命への慈しみなど欠片もなかった。あるのは、レアなブランド品を所有する優越感と、壊れたら買い換えればいいという冷徹な消費者の論理だけ。
文世さんとは真逆だ。
言葉は通じなくとも、動物たちと魂で対話し、家族として接していたあの温かい背中が、無性に恋しかった。
鉄扉が閉まる音を聞きながら、淳史は膝を抱えた。
あの白いコアラは、自分だ。
希少な能力を持っているがゆえに、裏社会で高値で取引され、所有者のエゴで連れ回され、意志を無視して消費される。
マーク。君も、ここから出たいよな。
淳史は暗闇の中で、名も知らぬ遠い異国の森を夢見る小さな同志の行く末を案じ、深く目を閉じた。




