第42話 筋肉ドランカー
その男が現れた時、淳史は我が目を疑った。
地下室の狭い入口をくぐるのに苦労するほどの巨躯。だが、それは肥満によるものではなかった。
男の体は、まるで水風船に空気を限界まで詰め込んだようにパンパンに張り詰めていた。皮膚の下で異常発達した筋肉の束が、互いに押し合いへし合い、いまにも弾け飛びそうだ。
さらに異様だったのは、その全身に食い込むような亀甲縛りの痕跡――いや、それは縛られているのではなく、皮膚という「袋」が中身の膨張に耐えきれず、ピアノ線のように筋肉に食い込んでいるのだ。
人間というより、筋肉で出来た怪獣だった。
「……痛い。痛いんだ、ドクター」
男は呻くように言った。その声もまた、喉の筋肉に圧迫されて湿った音を出していた。
通訳を介して事情を聞くと、その内容は狂気じみていた。
男はボディビルダー崩れだった。
ステロイドでは満足できず、副作用に苦しんだ末に、闇医者に依頼して禁断の領域に手を出した。
ゲノム編集による遺伝子カクテル。
筋肉の成長を抑制する遺伝子「ミオスタチン」を破壊し、さらに成長ホルモンを過剰分泌させるよう改変したウイルスを、自らの骨髄に注射したのだという。
「最初は最高だったよ。寝ているだけで筋肉が増え、理想の体型になった。トレーニングなんて必要なかった」
男は脂汗を流しながら語った。
「だが、止まらなくなったんだ。筋肉が暴走している。骨がきしむ。皮膚が裂けそうだ。……頼む、この痛みを消してくれ」
ダークウェブで大金を払い、淳史のタッチを落札した理由がこれだ。
命を救うためでも、病気を治すためでもない。
自らの欲望で作り出した怪物を、制御するためだけにここに来たのだ。
淳史は溜息をつきたかったが、拒否権はない。
男の、岩のように硬く熱を持った腕に触れる。
どこに触れても、皮膚が張り詰めていて破裂しそうだ。
――タッチ。
光が走る。
通常ならば、遺伝子レベルで修復が行われ、体は正常な状態に戻るはずだ。
だが、今回は反応が違った。
男の表情から苦痛の色が消え、呼吸が楽になったようだが、その異様な体型は微塵も変化しなかったのだ。
「……痛みは、消えた」
男は自分の体をさすり、不思議そうに呟いた。
淳史は理解した。
男は、遺伝子を書き換えてしまった。今の彼にとって、この筋肉だらけの体こそが「正常な設計図」になってしまっているのだ。淳史の力は「本来あるべき姿」に戻すもの。遺伝子そのものが改変されていれば、そこを基準に修復してしまう。
つまり、痛みというエラーは取り除けたが、怪物の体はそのままということだ。
「治りませんね。体型はそのままです」
淳史が告げると、男は落胆するどころか、ニタリと笑った。
「ああ、それでいい。痛みがなけりゃ、もっとデカくなれる」
男は立ち上がり、窮屈そうに筋肉を誇示した。
「ありがとな、ドクター。これでまた別のカクテルを試せる。次はもっと凄いのが手に入るんだ」
懲りていなかった。
痛みが消えたことをいいことに、さらに欲望を加速させようとしている。
男は足音を響かせ、満足げに去っていった。その背中は、人間の形をした欲望の塊そのものだった。
淳史は鉄扉が閉まる音を聞きながら、冷たい壁に背中を預けた。
どうか、あの男が二度とここに来ないことを願うばかりだ。
次に会う時、彼がまだ人間の形を保っている保証はどこにもないのだから。




