第40話 ふるさとはいずこに
砂塵の舞う異国の地で、囚われの身となってから一年と数ヶ月が過ぎていた。
絶望という名の砂漠に、一輪の花が咲いていた。
淳史の腕の中には、小さな命があった。
ミライ。
そう名付けた娘は、もうすぐ3か月になる。アーリヤ譲りの大きな瞳と、淳史に似た穏やかな眉を持つ、二人の愛の結晶。
この地獄のような監禁生活の中で、ミライの無垢な笑顔だけが、淳史とアーリヤが人間性を保つための唯一の光だった。
ある日の午後。
厳しい日差しが鉄格子の窓から差し込む部屋で、アーリヤが淳史に歩み寄ってきた。
彼女は少し照れくさそうに、けれど真剣な眼差しで、淳史が教えた言葉を紡いだ。
「あつしサン」
たどたどしい、けれど美しい日本語だった。
「わたしは、あなたと出会えて、とてもとても幸せです」
淳史は作業の手を止めた。
「あなたの心は、とてもきれいです。でも……ここから出たいです」
アーリヤは、部屋の隅で妹のイーリヤと遊んでいるミライに視線をやった。
「ミライと、イーリヤといっしょに、あなたのふるさと、日本へ行ってみたいです。……どうぞ、よろしく」
それは、彼女なりの精一杯のプロポーズであり、未来への切実な祈りだった。
淳史は胸が締め付けられるのを感じた。
彼はアーリヤを優しく抱き寄せ、その髪を撫でた。
「……ありがとう、アーリヤ。僕も同じ気持ちだ。必ず、みんなで日本へ行こう。桜を見せたいんだ」
「サクラ?」
「うん。春になると咲く、薄紅色のきれいな花だよ。きっとミライも気に入る」
約束した。
だが、その約束を守るためには、行動を起こさなければならなかった。
淳史はこの一年間、ただ従順に兵士を治療していたわけではなかった。
部屋に置かれた古いテレビから流れるニュース映像と、治療に訪れる兵士たちの会話。それらを繋ぎ合わせ、自分たちが置かれている状況を分析していたのだ。
ここは中東、シンガラテ共和国。
そして、淳史たちを監禁しているのは、反政府武装勢力「カスタネン」。
反西洋主義を掲げ、民間人の虐殺や誘拐を繰り返す、国際的に指名手配されている極悪非道なテロ組織だ。
彼らに慈悲はない。
利用価値がなくなれば、あるいは政府軍に追い詰められれば、自分たちは「証拠隠滅」のために消されるだろう。
逃げるなら、今しかない。
決行は、新月の深夜だった。
淳史は兵士たちの見張りの交代時間と、死角になるルートを何ヶ月もかけて観察し、記憶していた。
イーリヤがミライを背負い、アーリヤが淳史の手を引く。
音を立てずに鉄格子を外し、裏口から外へ出る。
砂漠の夜気は冷たく、星明かりだけが頼りだった。
心臓が早鐘を打つ。
行ける。この岩場を抜ければ、街道に出られる。そこまで行けば、通りがかりの車に助けを求められるかもしれない。
一〇〇メートル。二〇〇メートル。
屋敷が闇に沈んでいく。
自由への距離が縮まっていく。
だが。
五〇〇メートルほど進んだ岩陰で、絶望は待ち構えていた。
――カチャリ。
乾いた金属音が響き、強烈なサーチライトが四人を射抜いた。
「……どこへ行くつもりだ?」
闇の中から現れたのは、待ち伏せしていた兵士たちだった。
計画は、最初から筒抜けだったのだ。
「あっ……!」
アーリヤが悲鳴を上げ、ミライが泣き出した。
淳史はとっさに三人の前に立ちはだかろうとしたが、背後から銃床で殴りつけられ、地面に這いつくばった。
屋敷の前庭に引きずり戻された時、そこは処刑場へと変わっていた。
淳史は杭に縛り付けられ、身動きが取れない状態にされた。
目の前には、アーリヤが膝をつかせられている。
組織のリーダーが、冷酷な目で淳史を見下ろした。
「逃げればどうなるか、教えたはずだ」
リーダーが顎をしゃくる。
部下の兵士が、アーリヤの背中に鞭を振り下ろした。
ビシッ!
肉が裂ける音と、アーリヤの絶叫。
「やめろ! やめてくれ!」
淳史は叫んだ。縄を引きちぎろうともがくが、びくともしない。
「彼女は関係ない! 僕が無理やり連れ出したんだ! 罰なら僕にくれ!」
「黙れ、ドクター。お前の体は組織の財産だ。傷つけるわけにはいかん」
リーダーは嗜虐的な笑みを浮かべ、ナイフを取り出した。
「だが、こいつは違う」
ナイフが、アーリヤの太腿に突き立てられた。
鮮血が噴き出す。
「あああっ!!」
「アーリヤ!!」
淳史は狂ったように叫んだ。
目の前だ。わずか数メートル。
手が届けば。
触れることさえできれば、どんな傷だって治せる。痛みだって消してやれる。
なのに、届かない。
この数メートルが、永遠の距離のように遠い。
兵士たちの暴行はエスカレートしていく。もはや懲罰の域を超え、娯楽としての殺戮ショーと化していた。
アーリヤの声が弱まっていく。
地面が赤く染まっていく。
「頼む……頼むから! タッチさせてくれ! 何でも言うことを聞く! 一生お前たちの奴隷になるから! だから……!」
淳史は額を地面に擦り付け、血を吐くように懇願した。
プライドも尊厳もいらない。ただ、彼女を助けたい。
だが、リーダーは冷ややかに言い放った。
「教訓が必要なのだよ。二度と、飼い主に逆らわないためのな」
最後の一撃が、アーリヤの胸に突き立てられた。
彼女はぐらりと体を揺らし、淳史の方を見た。
その瞳から光が消えていく。
最期に彼女の唇が動いた気がした。
『ミライヲ……』
アーリヤの体が崩れ落ち、動かなくなった。
「あ……あぁ……」
淳史の喉から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
神の手を持ちながら。
何百人もの他人を救っておきながら。
一番愛した女性、一番守りたかった人を、目の前で見殺しにした。
自分の無力さが、魂を焼き尽くしていく。
リーダーは血のついたナイフを拭いながら、凍りついているイーリヤと、泣き叫ぶミライの方を指差した。
「いいか、よく聞け。……次に妙な真似をすれば、このガキがこうなる」
淳史は虚ろな目で頷くことしかできなかった。
心の中で、何かが音を立てて砕け散った。
翌日から、淳史は変わった。
感情を失った人形のように、運ばれてくる兵士たちに触れ続けた。
抵抗しない。逃げない。思考しない。
ただ、ミライとイーリヤを生かすためだけに、その身を捧げた。
人間の醜い悪意。欲望。暴力。
ここでは命に価値などない。法律も、秩序も、道徳もない。
あるのは力による支配と、終わりのない搾取だけ。
淳史の心は、深い闇の底へと沈んでいった。
そんな日々が続いたある日。
屋敷の空気が変わった。
組織の指導者が交代したという噂が流れた。より過激で、より冷酷な派閥が実権を握ったのだ。
淳史は粗暴な兵士たちによって部屋から引きずり出された。
「パパ! パパ!」
ミライが泣き叫び、イーリヤが必死に手を伸ばすが、兵士たちに銃床で殴られ、引き離された。
「ミライ! イーリヤ!」
淳史の抵抗も虚しく、彼は屋敷の地下深く、光の届かない独房へと放り込まれた。
そこは、以前の部屋よりもさらに狭く、汚穢にまみれた場所だった。
扱いはさらに過酷になった。
一日のノルマなどない。
次々と運び込まれる瀕死の兵士たち。淳史は食事も睡眠も与えられず、気絶する寸前まで酷使された。
倒れれば水をかけられ、殴られ、無理やり起こされる。
タッチ、タッチ、タッチ。
癒やしの光は、今や淳史の生命力を削り取る呪いの光となっていた。
暗闇の中で、淳史は薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めていた。
アーリヤの最期の顔。
ミライの泣き声。
日本へ帰るという約束。
(生きなきゃ……。あの子を、守らなきゃ……)
だが、その希望さえも、底なしの闇に飲み込まれようとしていた。
世界は、神を見放したのだ。




