第39話 同類っ子
時間の感覚は、とうの昔に失われていた。
日本で誘拐されてから、どれほどの時が流れたのだろう。
暗い船倉に押し込められ、波の音だけを聞き続けた一ヶ月以上の航海。陸に上がってからは目隠しをされ、車の後部座席で揺られ続けた一週間。
暑さと乾き、そして終わりの見えない恐怖が、淳史の精神をヤスリのように削り続けていた。
ある日、車のエンジンが止まった。
粗暴な手つきで引きずり出され、目隠しを取られた瞬間、強烈な日差しが網膜を焼いた。
目が慣れると、そこは赤茶けた岩山に囲まれた、一軒の石造りの屋敷だった。
空気は乾燥し、肌を刺すような熱気を含んでいる。空の青さは、日本のそれとは明らかに違っていた。
中東。
具体的な国名は分からないが、建物の様式や、警備兵たちが頭に巻いているターバン、そして彼らの彫りの深い顔立ちから、淳史はそう直感した。
あてがわれた部屋は、格子のついた窓が一つあるだけの簡素なものだった。
窓から外を覗く。
屋敷の周囲には、自動小銃を肩から下げた男たちが巡回している。彼らの視線は常に外側(侵入者)と内側(逃亡者)の両方に向けられていた。ここは要塞であり、同時に脱出不可能な監獄だった。
ガチャリ。
重い扉が開き、一人の大柄な男が入ってきた。
この屋敷の警備責任者らしき男だ。彼は無言で淳史に近づくと、腰の拳銃ではなく、肩から下げた自動小銃を軽く持ち上げて見せた。
そして、人差し指で出口を指差し、次に自分の首を掻き切るジェスチャーをした。
――逃げれば、殺す。
言葉は通じなくとも、意思は痛いほど伝わった。
淳史はその銃に釘付けになった。
黒く重厚な鉄の塊。銃床には無数の細かい傷が刻まれており、長年戦場で使い込まれてきたことが分かる。だが、可動部にはたっぷりとオイルが塗られ、黒光りしている。隅々まで手入れが行き届き、砂埃一つついていない。
男の太い指は、引き金ではなく、安全装置のダイヤルの上に置かれている。
それは、いつでも殺せる準備ができているプロの所作だった。
映画やドラマの脅しではない。こいつらは本気だ。淳史は背筋に冷たいものが走るのを感じ、ゆっくりと両手を上げて服従の意を示した。
男は淳史の反応に満足したのか、扉の外に向かって顎をしゃくった。
入ってきたのは、二人の女性だった。
褐色の肌に、大きな瞳。現地風の衣服をまとっているが、その表情は怯えきっていた。
姉のアーリヤ、二〇歳。
妹のイーリヤ、一三歳。
彼女たちもまた、淳史と同じ「商品」だった。
他国から誘拐され、人身売買によってこの組織に売り飛ばされてきた姉妹。彼女たちに与えられた役割は、淳史の身の回りの世話――食事の用意、洗濯、掃除――と、淳史にこの国の言葉を教えることだった。
淳史という貴重な「魔法のランプ」を長く使うためには、意思疎通が必要不可欠だからだ。
その日から、奇妙で過酷な共同生活が始まった。
朝、固いパンとスープの食事が運ばれてくる。
その後、銃を持った兵士に伴われて、別室へ移動する。そこには、血と泥にまみれた負傷兵が二人、待っている。
銃撃戦で腕や足に大きな傷をつけた者たち。
淳史は彼らに触れ、その傷を治す。
――タッチ。
一瞬で傷が塞がり、兵士たちが歓喜の声を上げて立ち上がる。彼らは神に感謝し、再び銃を取って戦場へと戻っていく。
自分は、戦争の道具を修理しているだけではないか。
自分が治した兵士が、また誰かを殺す。その罪悪感に押し潰されそうになりながらも、拒否すれば殺されるという恐怖が、淳史の手を動かし続けた。
一日のノルマは二人。淳史の体力の限界を見極めた、冷徹な管理だった。
夕方になると、部屋に戻され、アーリヤたちによる語学のレッスンが始まる。
最初は警戒していた姉妹だったが、淳史が兵士たちとは違う、同じ「囚われの身」であると理解すると、少しずつ心を開き始めた。
「……水」
「ミズ」
「違うわ。もっと舌を巻いて」
イーリヤがクスクスと笑い、アーリヤが優しく訂正する。
言葉を教わる時間は、淳史にとっても唯一の気晴らしだった。
彼女たちは、故郷の村を襲われ、親を殺され、連れてこられたという。
「いつか、逃げ出したい。妹だけでも、故郷に帰したいの」
アーリヤがたどたどしい英語混じりで語った夜、淳史は彼女の手を握り、「僕もだ」と答えた。
極限状態の中で芽生えた、奇妙な連帯感。
監視の目は厳しい。部屋の隅には常にカメラがあり、廊下には足音が響いている。
明日は生きている保証がない。
そんな張り詰めた空気の中で、淳史とアーリヤの距離が縮まるのに、時間はかからなかった。
ある新月の夜。
妹のイーリヤが隣の部屋で眠りについた後、淳史とアーリヤは部屋の隅で身を寄せ合っていた。
砂漠の夜は冷える。
だが、二人が求めたのは、物理的な暖かさだけではなかった。
恐怖。孤独。絶望。
それらを一瞬でも忘れるための、魂の避難場所としての「熱」を求めていた。
淳史の手が、アーリヤの頬に触れる。
彼女の大きな瞳が、月明かりの中で濡れている。
「……怖い?」
「うん。でも、あなたが一緒なら」
言葉はいらなかった。
二人は吸い寄せられるように唇を重ね、互いの体を貪るように抱きしめ合った。
硬いベッドの上で、肌と肌が触れ合う。
淳史の指先が彼女の背中をなぞると、彼女は微かに震え、淳史の首に腕を回してしがみついてきた。
それは快楽というよりも、生存確認に近い行為だった。
心臓の鼓動。体温。吐息。
ここに命がある。まだ生きている。人間としての尊厳を奪われたこの場所で、唯一残された「生」の実感が、そこにはあった。
淳史は彼女を抱きながら、日本に残してきた人々のことを思い出そうとした。
真千子姉ちゃん。隆史さん。……ノゾミさん。
彼女たちの顔が、少しずつ霞んでいくのが怖かった。
だが、今この瞬間、腕の中にいるアーリヤの温もりだけが、確かな現実だった。
「……離さないで」
「離さない」
嘘でもいい。明日には引き裂かれるかもしれない運命だとしても、今だけは、この言葉が必要だった。
事後、二人は毛布にくるまり、互いの体温を分け合いながら眠りに落ちた。
窓の外では、夜警の兵士たちの足音と、遠くで響く銃声が聞こえていた。
ここは地獄だ。
だが、地獄の底にも、小さな灯火のような安らぎはあった。
淳史はアーリヤの髪の匂いを吸い込みながら、明日もまた、生き延びようと強く誓った。
いつか来るかもしれない「救い」の日を信じて。
あるいは、この温もりを守るためだけにでも。




