第38話 クレーン作戦
淳史が姿を消してから、二年という月日が流れていた。
世界は再び、奇跡のない平凡で残酷な日常へと戻っていた。
公益財団法人イカロスは解散し、あの美しいオフィスも閉鎖された。スタッフたちは散り散りになり、それぞれの人生を歩んでいる。
だが、時計の針を止めたままの人間たちがいた。
永田町、首相官邸。
深紅の絨毯の上を、車椅子のタイヤが音もなく進んでいく。
車椅子に乗っているのは、真千子だった。
二年前のあの地下駐車場での爆破テロ。彼女は一命を取り留めたものの、瓦礫の下敷きとなり、両足を切断する重傷を負った。
かつて剣道で鍛えた足はもうない。だが、その背筋は以前と変わらず凛と伸び、瞳には不屈の炎が宿っていた。
車椅子のハンドルを握り、彼女を無言で支えているのは、隆史だ。
彼らは、この二年間、一日たりとも淳史を探すことを諦めてはいなかった。
通されたのは、総理執務室。
革張りの回転椅子がゆっくりとこちらを向き、一人の女性が立ち上がった。
「……よく来てくれたわね」
日本の憲政史上初となる女性内閣総理大臣。
かつて国土交通大臣として真千子たちを支えた、鶴美だった。
先日の総裁選で与党・民自新党のトップに立ち、この国の頂点に上り詰めた彼女は、威厳のある表情で二人を迎えた。
その傍らには、かつてイカロスで真千子の右腕だった秘書、正則が控えている。彼もまた、鶴美の筆頭秘書官として政界の中枢に復帰していたのだ。
「足の具合はどう?」
「見ての通りよ。でも、車輪がついた分、以前より機動力は増したわ」
真千子が軽口で返すと、鶴美は少しだけ表情を緩め、すぐに真剣な眼差しに戻った。
「単刀直入に言うわ。……見つかったのよ、淳史君が」
その言葉に、隆史の手が車椅子のグリップを強く握りしめた。
「どこです、総理」
正則が無言で大型モニターを操作した。
映し出されたのは、荒涼とした砂漠地帯の衛星写真。
「場所は中東、シンガラテ共和国。内戦が続く紛争地帯よ。彼は今、反政府武装組織『カスタネン』のアジトに囚われている」
アメリカのCIAと連携し、極秘裏に進めていた偵察衛星と現地諜報員の命がけの情報収集が、ついに実を結んだのだ。
「生きているのね……!」
真千子の声が震えた。二年間の絶望的な暗闇に、一条の光が射し込んだ瞬間だった。
「ええ。彼らは淳史君を『魔法のランプ』として利用している。負傷した兵士を治させ、不死身の軍隊を作ろうとしているのよ」
鶴美は悔しげに唇を噛んだ。
だが、問題はここからだった。
海外で囚われた邦人を救出するために、自衛隊や警察を武装させて派遣するには、現行法では限界がある。自衛隊法、警察官職務執行法。法改正を待っていれば、国会で紛糾し、何ヶ月もかかるだろう。その間に情報が漏れれば、淳史は殺されるか、移動させられる。
「時間はかけられない。だから……私は総理の特権を行使する」
鶴美はデスクに置かれた一枚の書類に手を置いた。
「内閣官房令、発動。特定秘密指定任務として、国会の承認を得ずに強行突入を行うわ。全責任は私が取る。たとえ総理の椅子を失ってでもね」
それは、法治国家のリーダーとしては危うい賭けだった。だが、彼女は「友」を救うために、政治生命の全てをベッドしたのだ。
作戦名は『クレーン作戦』。
鶴美の「鶴」を冠した、国家最高機密ミッション。
「編成チームは、陸上自衛隊・第一空挺団のレンジャー部隊と、警視庁SATの精鋭たち。……隆史、あなたにリーダーを頼みたいの」
鶴美の瞳が隆史を射抜く。
彼は民間人だ。だが、かつてSATで歴代最高のスコアを叩き出した伝説の男であり、何より淳史を誰よりも大切に思う「兄」だ。
隆史は迷わなかった。
「……謹んで、お受けします」
その目には、かつてない殺気が宿っていた。
それからの数日間は、地獄のような準備期間だった。
完全封鎖された東富士演習場。
土砂降りの雨の中、隆史は現役の精鋭たちと共に泥にまみれていた。
二年間のブランクを埋めるためではない。現役時代以上のキレを取り戻すための、極限の追い込み。
射撃、ラペリング、CQB(近接戦闘)。
隆史の動きは、若い隊員たちが舌を巻くほど鋭く、そして冷徹だった。
(待ってろ、淳史。必ず迎えに行く)
泥水をすすりながら、彼は心の中で繰り返した。
そして、実行の日。
漆黒の闇に紛れ、航空自衛隊のC-2輸送機が日本を飛び立った。
現地付近の同盟国基地を経由し、強襲用ヘリコプターに乗り換える。
砂塵舞う中東の空。
眼下には、岩と砂だけの荒野が広がっている。
「目標地点まであと三分! 降下準備!」
隆史はアサルトライフルを点検し、ゴーグルを装着した。
胸にはボディカメラが装着されている。その映像は、リアルタイムで衛星回線を通じて日本の官邸へ送られている。
東京、官邸地下の危機管理センター。
大型モニターの前には、鶴美総理をはじめ、官房長官、外務大臣、防衛大臣、統合幕僚長、国家公安委員長、警視総監といった、国のトップたちが息を呑んで座っていた。
その最前列に、車椅子の真千子もいた。
彼女は祈るように手を組み、揺れるカメラ映像を見つめていた。
『降下! 降下!』
映像が激しく乱れ、隆史たちがロープで地上へ舞い降りる様子が映る。
敵のアジトは、断崖にへばりつくように作られた要塞だ。
乾いた銃声が響く。
敵の見張りが発砲してきたのだ。
『接敵! 排除する!』
隆史の冷静な指示と共に、サプレッサー(消音器)付きの銃声が短く響き、敵が倒れていく。
無駄のない動き。圧倒的な制圧力。
真千子は画面越しに、元夫の背中を見ていた。優しい隆史ではない。修羅となった彼の姿を。
部隊はアジト内部へと侵入した。
薄暗い廊下。怒号と銃火。
次々と部屋をクリアリングしていく。
『A棟制圧。ターゲット不在』
『B棟クリア。痕跡なし』
焦りが募る。
最深部にある、監禁用の地下牢。
隆史がドアを蹴破った。
「淳史!」
だが、そこはもぬけの殻だった。
あるのは、使い古されたベッドと、血の滲んだ包帯だけ。
「……くそッ!」
隆史は近くにいた敵の幹部を捕まえ、壁に押し付けた。
「どこだ! 日本人はどこにやった!」
銃口を突きつけられた男は、恐怖に歪んだ顔で現地の言葉を叫んだ。
通訳の隊員が青ざめる。
「隊長……! 奴ら、襲撃に合ってさらわれたそうです」
「さらわれただと?」
「中南米の麻薬カルテルだそうです…」
官邸のモニター室に、絶望的な沈黙が落ちた。
中東から、地球の裏側へ。
僅差だった。
クレーン作戦、失敗。
鶴美が崩れ落ちそうになるのを、正則が支えた。真千子は唇を噛み切り、血を流しながらも画面を睨み続けていた。まだだ。まだ終わっていない。
現地のアジト。
戦闘が終わり、静寂が戻った廃墟に、熱風が吹き抜ける。
隆史は銃を下ろし、空を見上げた。
また、届かなかった。
あんなに近くにいたのに。
撤収の合図を出そうとした時、瓦礫の陰から小さな人影が現れた。
現地の少女と、その妹らしき幼女だった。服はボロボロで、痩せ細っている。
隊員たちが銃を構えるが、隆史は手で制した。
少女たちは怯えながらも、隆史の方へ歩み寄ってきた。
その小さな手には、何かが握られていた。
少女は隆史の前に立つと、無言でそれを差し出した。
銀色に光る、金属片。
「……これは」
隆史は震える手でそれを受け取った。
ドッグタグだ。
半分に割られているが、刻まれた文字は読み取れた。
『JGSDF』。そして『ATSUSHI』の名前。
かつて淳史が、「親友への贖罪」として肌身離さず持っていたもの。
少女が拙い英語で言った。
「……ヒーロー。彼は、ヒーロー」
彼女たちは、囚われていた淳史に助けられたのかもしれない。淳史は、自分が連れ去られる直前に、このドッグタグを彼女たちに託したのだ。
――俺は生きている。諦めていない。
そんなメッセージが、冷たい金属から伝わってくるようだった。
隆史はドッグタグを握りしめ、額に押し当てた。
まだ、繋がりは切れていない。
地球の裏側だろうが、地獄の底だろうが関係ない。
このタグが、次の道標だ。
「……総理」
隆史はカメラに向かって、低い声で告げた。
「作戦は継続です。ターゲットは移動しただけだ。……必ず、連れ戻します」
官邸のモニター越しに、真千子が深く頷くのが見えた気がした。
中東の砂漠に、ヘリのローター音が近づいてくる。
戦いは、新たなステージへと移ろうとしていた。




