第37話 顔バレの代償
その朝、東京の空は不穏な鉛色をしていた。
昨日の動物園での一件により、世界は一変していた。
SNS、ニュースサイト、ワイドショー。あらゆるメディアが「動物園の奇跡」の動画を流し続け、ついに暴かれた「雲上人」の素顔――淳史の顔写真が、デジタルタトゥーとして世界中に刻み込まれていた。
イカロス財団の理事長、真千子は、いつもより一時間早く自宅を出た。
愛車のステアリングを握りながら、ハンズフリーで警視庁の警備部へ怒鳴り込む。
「どういうことですか! 警備の増員は最優先事項でしょう!」
『理事長、お気持ちは分かりますが……急なシフト変更は現場の混乱を招きます。最短でも明日からの配置になります』
「明日じゃ遅いのよ! 世界中の悪党が彼を狙い始めたっていうのに!」
真千子は舌打ちをして通話を切った。役所の縦割り行政には反吐が出る。
その時、ダッシュボードのスマホが着信を告げた。テレビ電話だ。
画面に表示された顔は『国土交通大臣・鶴美』。
真千子は少し安堵して応答ボタンを押した。この国の頼れる「女帝」なら、警察を動かしてくれるかもしれない。
「おはようございます、大臣。ちょうど連絡しようと……」
『おはよう、真千子。悪いけど、緊急の頼みがあるの』
画面の中の鶴美は、いつになく真剣な表情だった。
『今すぐ、指定するホテルへ淳史君を向かわせて。中東の産油国の大物が、極秘で来日しているの』
「中東の……? こんな時にですか?」
『だからこそよ。日本のエネルギー政策に関わる重要人物なの。彼が怪我をして困っている。ここで恩を売っておけば、今後の外交カードになるわ』
真千子は眉をひそめた。話が唐突すぎる。
「大臣、淳史の顔が割れたばかりです。リスクが高すぎます」
『……分かってるわ。でも、これは国益の問題なの。頼めるわよね?』
鶴美の返答に、コンマ数秒の「間」があった。
電波状況が悪いのか? それとも、いつもの彼女らしい切れ味がないだけか。
違和感はあった。だが、今まで幾度となく財団の窮地を救ってくれた彼女の頼みを、無碍に断ることはできなかった。
「……分かりました。すぐに手配します」
真千子はすぐに淳史へ連絡を入れた。
淳史の警護担当であるSPの裕貴にも連絡を入れるべきだったが、一刻を争うという鶴美の口調に急かされ、手順が後手に回った。
それが、致命的なミスとなった。
淳史を乗せたタクシーは、指定されたホテルへ向かう途中、不自然なタイミングで割り込んできた大型トラックによって進路を塞がれた。
後続車を運転していたSPの裕貴は、そのトラックに阻まれ、淳史を見失ってしまったのだ。
「くそっ、妨害か!?」
裕貴はハンドルを叩き、無線で叫んだが、既に淳史の姿はなかった。彼は歯噛みしながら、万が一に備えて財団本部での待機を余儀なくされた。
孤立。
敵の包囲網は、静かに、そして確実に完成しつつあった。
都内の外資系高級ホテル。
スイートルームで合流した真千子と淳史は、VIPであるアラブ系の男性と対面していた。
「足の骨折……ですか?」
真千子は、ギプスを巻かれた男の足を見て、拍子抜けしたような声を漏らした。
命に関わる病気でもない。ただの骨折だ。
こんな軽傷のために、顔バレ直後の淳史を危険に晒してまで呼び出したのか?
男は通訳を介して「痛くてたまらんのだ」と訴えるだけだ。
淳史は黙って男の足に触れた。
――タッチ。
一瞬で骨は繋がり、男は歓喜の声を上げて立ち上がった。
「素晴らしい! アメイジング!」
任務完了。
だが、真千子の胸のざわめきは収まるどころか、警鐘のように鳴り響いていた。
(おかしい。何かが、あまりにも不自然だわ)
まるで、淳史をここにおびき寄せるための「餌」のような任務だ。
ホテルを出て、地下駐車場へ向かう。
真千子は自分の車のキーロックを解除しながら、淳史に言った。
「淳史、私の車に乗りなさい。財団まで送るわ」
「うん、ありがとう」
二人が車に乗り込み、エンジンをかけた時、真千子は意を決してスマホを取り出した。
鶴美に完了報告をするためだ。いや、この違和感の正体を確かめるためだ。
今度はテレビ電話ではなく、音声通話でリダイヤルした。
「もしもし、大臣? 真千子です」
『あら、どうしたの? 朝から珍しいわね』
スピーカーから聞こえてきた鶴美の声は、今朝の緊迫感とは程遠い、寝起きのような気だるげなものだった。
「どうしたって……今、ご依頼の件が終わりました。中東の要人の骨折、完治しましたよ」
『は? 中東? 骨折?』
鶴美の声が裏返った。
『何の話をしてるの? 私、そんな依頼してないわよ』
真千子の心臓が凍りついた。
「え……? だって今朝、テレビ電話で……」
『テレビ電話? 私、今起きたばかりよ。誰とも話してないわ』
戦慄が走った。
朝の会話。不自然な「間」。画面の中の鶴美。
AIによる合成映像。音声合成。
――ディープフェイク。
現代のテクノロジーが生み出した「偽りの指令」に、まんまと踊らされたのだ。
「淳史! 伏せ――」
真千子が叫ぼうとした、その瞬間だった。
ドォォォォォン!!
鼓膜を破るような爆発音。
車の真横で閃光が走り、強烈な衝撃波が車体を襲った。
数トンの鉄塊である高級車が、紙細工のように宙を舞い、アスファルトの上に無残に横転した。
ガラスが砕け散り、エアバッグが作動して視界を塞ぐ。
「う、ぐ……っ」
真千子は全身を強打し、薄れゆく意識の中で必死に目を開けた。
逆さまになった視界の外から、不気味な排気音が近づいてくる。
ブォン、ブォン、ブォン……!
一台ではない。十台、いや二十台。
地下駐車場の闇の中から現れたのは、フルフェイスのヘルメットを被った黒ずくめのライダー集団だった。
彼らは訓練された軍隊のように、横転した車を完全包囲した。
一人の男がバールのようなもので後部座席のドアをこじ開ける。
「がっ……は……」
淳史が、ぐったりとした状態で引きずり出された。爆発の衝撃で気を失っているようだ。
「やめ……淳史を……!」
真千子は手を伸ばそうとしたが、体が動かない。激痛と眩暈が思考を奪っていく。
男たちは手際よく淳史にフルフェイスのヘルメットを被せると、待機していたバイクの後部座席に乗せ、ライダーの体と淳史の体をロープで強固に固定した。
これで、誰が淳史なのか、外見からは全く判別がつかない。
準備が整うと、二十数台のバイクが一斉にエンジンを吹かした。
グルグル、グルグル。
彼らは横転した車の周りを旋回し始めた。
まるで獲物を嘲笑うハイエナのように。あるいは、追跡者の目をくらますための攪乱戦術のように。
そして次の瞬間、彼らは蜘蛛の子を散らすように、四方八方の出口へと走り去っていった。
どのバイクに淳史が乗っているのか、もう誰にも分からない。
「淳史……!」
真千子の悲痛な叫びは、虚しく地下駐車場に響き、やがて彼女の意識は深い闇へと沈んでいった。
一方、イカロス財団・調整部のオフィス。
窓の外は不穏な曇り空だが、室内の空気はいつも通りだった。
ただ一人、ノゾミを除いて。
彼女はデスクに座り、パソコンの画面を見つめていたが、その目は上の空だった。
昨日の動物園での出来事。
命を救った瞬間の、あの温かい光。そして、淳史が「雲上人」だったという衝撃の事実。
(私、これからどういう顔で彼に会えばいいんだろう……)
驚きよりも、尊敬よりも先に、胸を占めていたのは「恋心」だった。
自分の無力さを痛感した時、彼が助けてくれた。その温もりが、まだ体に残っている。
今日は彼が出勤してくるはずだ。
昨日、「明日話そう」と言ってくれた。
何を話そうか。まずは「ありがとう」か。それとも「秘密にしててごめんね」と謝られるのだろうか。
ノゾミは時計を見た。
始業時間を過ぎている。いつも真面目な彼が、まだ来ない。
胸騒ぎがした。
ニュースでは、淳史の顔バレが大々的に報じられている。まさか、来る途中でファンに囲まれているのだろうか。
ノゾミは知らなかった。
彼が今、ファンの熱狂など比ではない、冷酷な悪意によって連れ去られたことを。
待ち人は、もう来ない。
揺れ。
規則的な、ゆっくりとした揺れ。
淳史は、その不快な感覚で意識を取り戻した。
頭が割れるように痛い。
目を開けると、そこは殺風景な狭い部屋だった。鉄製の壁、低い天井。
硬いベッドの上に寝かされている。
起き上がろうとして、金属音が響いた。
ガチャリ。
両手首に、冷たい手錠がかけられていた。鎖はベッドのフレームに繋がれている。
「……ここ、どこだ?」
淳史は混乱する頭を振った。
ホテルに行った。骨折を治した。真千子姉ちゃんの車に乗って……爆発。
そうだ、襲われたんだ。
姉ちゃんは? 無事なのか?
焦燥感に駆られ、辺りを見回す。
部屋には小さな丸窓が一つだけあった。
淳史はベッドの上で背伸びをし、その窓から外を覗いた。
絶句した。
見渡す限りの、青黒い海原。
白波が立ち、遠くには水平線しか見えない。
ゴォォォ……という重低音は、船のエンジンの音だったのだ。
車でも、飛行機でもない。船。
それは、自分が既に日本という国から切り離され、どこか遠い場所へと運ばれていることを意味していた。
「……嘘だろ」
淳史は力なくベッドに座り込んだ。
動物園での平和なデートが、まるで数年前の出来事のように遠く感じられた。
イカロスの翼は折られ、籠の中に囚われた鳥。
孤独な航海が、今始まっていた。




