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雲上タッチ ~触れるだけで、命を救う。神の力を宿した青年が世界を変える、奇跡の物語。~  作者: 団田図


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第36話 ガッツ逸脱

 その作戦は、イカロス財団・調整部の休憩コーナーで密かに実行された。

 淳史は、自販機のコーヒーを飲むふりをしながら、心の中でカウントダウンを唱えた。

 三、二、一、今だ。

 彼はズボンのポケットからハンカチを取り出す動作と共に、わざとらしく何かを床に滑り落とした。

 パサリ。

 落ちたのは、動物園の年間パスポートだ。

「あら、淳史くん。何か落ちたわよ」

 隣にいたノゾミがそれを拾い上げた。計画通りだ。

「あ、ありがとう。……おっと、見られちゃったな」

「動物園の年パス? へえ、淳史くん、動物好きなんだ」

 ノゾミが興味深そうにパスポートを眺める。ここまではシミュレーション通り。淳史は平静を装いながら、次のフェーズへと移行した。

「うん、まあね。休みの日にぼーっとしに行くのが好きなんだ」

「いいなあ。私、小学校の遠足以来行ってないんですよね。久しぶりに行きたいなぁ」

 カーン!

 淳史の脳内で、試合開始のゴングが高らかに鳴り響いた。

 来た。千載一遇のチャンス。ここ三ヶ月間、常に考えて練り上げたデートへの布石が、今まさに実を結ぼうとしている。

 焦るな。ここでガツガツしてはいけない。

 淳史は深呼吸し、ジャブを繰り出した。

「ここの動物園、実はソフトクリームが絶品なんだよ。牧場直送の牛乳を使っててさ」

 ノゾミは甘いものに目がない。これは効くはずだ。

「えー! 食べてみたい! ……でもなぁ、今ダイエット中なんですよねー」

 まさかのガード。しかし、淳史は動じない。相手が引いた時こそ、カウンターのチャンスだ。

 彼は懐からとっておきの切りストレートを切った。

「そうか、残念だな。……最近、パンダの赤ちゃんが公開されたんだけど、コロコロしててめちゃくちゃ可愛いんだよ。今しか見られないサイズ感なんだけどなぁ」

 ノゾミの瞳が、パァッと輝いた。

「パンダの赤ちゃん!? うわぁ、見てみたい!」

「チケット、余ってるけど……行く?」

「行く! 行きます!」

 KO勝ち。

 淳史は「じゃあ今度の日曜ね」とクールに去りながら、廊下の角を曲がった瞬間に無言で渾身のガッツポーズを決めた。


 デート当日。

 待ち合わせ場所の時計台の下に現れたノゾミを見て、淳史は息を呑んだ。

 普段のきっちりしたオフィスカジュアルではない。チェック柄のシャツに、動きやすそうなキュロットスカート、足元はトレッキングシューズ。

「お待たせ! 今日は歩くから『山ガール』をテーマにしてみたの。どうかな?」

 はにかむ笑顔が、破壊的に可愛い。

「す、すごく似合ってる。行こうか」

 二人は並んで動物園のゲートをくぐった。

 お目当てのパンダ舎は混雑していたが、ガラス越しに見る白黒の毛玉のような赤ちゃんに、ノゾミは「キャーッ! 可愛い!」と大はしゃぎだ。その横顔を見ているだけで、淳史のテンションも最高潮に達していた。

 人混みを抜けた先で、作業着姿の男性とすれ違った。

 文世だ。

 彼は淳史と、その隣にいるノゾミを見て、状況を察したようにニカっと笑い、無言で親指を立ててみせた。

(楽しんでおいで)

 そんな声が聞こえた気がして、淳史も軽く会釈を返した。

 世界は平和で、幸福に満ちていた。

 ――あの事故が起きるまでは。


 二人がゴリラの展示エリアに差し掛かった時のことだ。

 前方に、修学旅行生らしき高校生の集団がいた。その中の一人が、自撮り棒を伸ばし、柵から身を乗り出すようにしてライブ配信をしていた。

「うぇーい! 見てくれよ、この距離! ゴリラ近すぎワロタ!」

 制止する警備員の声を無視し、彼は再生数を稼ごうとエスカレートしていく。

 そして。

「あっ」

 足がもつれた。

 高校生の体はバランスを失い、そのまま柵の向こう側へと宙を舞った。

 ドスンッ!

 鈍い音が響き渡る。

 三メートル下のコンクリートの床に、彼は頭から叩きつけられた。ピクリとも動かない。

 一瞬の静寂の後、悲鳴が上がった。

「落ちた! 人が落ちたぞ!」

 騒ぎを聞きつけ、エリアの奥から巨大な影が現れた。

 群れのボスであるシルバーバックだ。

 ゴリラは倒れた侵入者に気づき、のっしのっしと近づいていく。

 ギャラリーがざわつく。「逃げろ!」「食われるぞ!」

 その時、バックヤードの扉が蹴破られた。

 飛び出してきたのは、文世だった。その手には、麻酔銃ではなく、殺傷能力のあるライフルが握られていた。

 ゴリラは高校生の顔を覗き込み、まるで心配するように手を伸ばそうとしていた。襲う気配はない。文世にはそれが分かったはずだ。

 だが、万が一興奮して暴れれば、高校生の命はない。

 人命優先。飼育員としての最悪の、しかし避けて通れない義務。

 文世は苦渋の表情で構え、引き金を引いた。

 パン!

 乾いた破裂音と共に、ゴリラの巨体が崩れ落ちた。


 その瞬間、淳史の隣から影が消えた。

 ノゾミだ。

 彼女はバッグから救急セットを取り出しながら、迷わず柵を乗り越えた。

「ノゾミさん!?」

 着地の際、飛び出していた施工用の針金がノゾミのふくらはぎを切り裂いた。鮮血が吹き出す。だが彼女は痛みに顔を歪めながらも、倒れている高校生の元へ這うように駆け寄った。

「聞こえますか! 分かりますか!」

 返答はない。

 ノゾミはペンライトで瞳孔を確認し、脈を診る。

 顔色が絶望に染まった。

 頭蓋底骨折の疑い。脳挫傷。そして急速に進む脳内出血。

 彼女は気道確保を試みるが、手が震えている。

「……ダメ。間に合わない」

 救急車の到着を待っていては助からない。医師である彼女には、残酷なほど正確に「死」までの残り時間が見えてしまった。

 淳史も柵を飛び降り、ノゾミの元へ駆けつけた。

「ノゾミさん! 足、血が!」

「淳史くん、来ちゃダメ! 危ないから!」

「そんなことより、彼は助かるのか!?」

 淳史が叫ぶ。

 ノゾミは血まみれの手を握りしめ、下を向いたまま首を強く横に振った。

「……無理。もう、脳のダメージが深すぎる」

 医学の敗北。

 その言葉を聞いた瞬間、淳史の中で何かが弾けた。

 周囲を見渡す。

 柵の上には、何十人もの野次馬がいる。全員がスマホを構えている。ライブ配信のカメラも回っている。

 今ここで力を使えば、どうなるか。

 日常は終わる。平穏な生活も、ノゾミとの淡い恋も、すべてが崩れ去る。

 でも。

(……ここで見捨てたら、俺は一生、自分を許せない)

 淳史は高校生の元へ歩み寄った。

「淳史くん? 何を……」

 淳史は無言で、少年の肩に手を置いた。

 深く、念じる。

 ――治れ。

 掌から、目映いばかりの黄金の光が溢れ出した。

 ノゾミが息を呑む。

 光は少年の砕けた頭蓋骨を修復し、溢れ出た血液を浄化し、損傷した脳細胞を再生させていく。

 ドクン、と力強い鼓動が戻った。

 少年が「うぅ……」と呻き声を上げ、身じろぎをした。

 助かった。

 淳史は休むことなく、次は呆然としているノゾミの方へ向いた。

「あ、淳史くん……?」

 彼はノゾミの裂けたふくらはぎに手を当てた。

 温かい。

 ノゾミはその感触を知っていた。

 飛行機の中で、子供を助けた時に感じた視線。仕事場で、いつも陰ながら支えてくれていた存在。そして、拓馬さんの目が治った時に感じた、あの気配。

 傷口が塞がり、痛みが消えていく。

 それと同時に、彼女の心の中にあった最後のピースが埋まった。

「あなたが……雲上さん、だったの?」

 淳史は答えず、寂しげに微笑んだだけだった。

 そして彼は、移動式檻に入れられようとしていたゴリラの元へ歩み寄った。

 銃弾を受けてぐったりしている巨体。

 文世が、悲痛な面持ちで彼を見つめている。

「……すまない、淳史くん」

 文世は、淳史が正体を晒してまでここに来た意味を理解していた。

 淳史は柵の中に手を差し込み、ゴリラの分厚い胸板に触れた。

 ――生きろ。

 三度目の発光。

 弾丸が排出され、傷が癒える。

 ゴリラがカッと目を開き、むくりと起き上がった。何が起きたか分からない様子で、目の前の文世を見つめる。

 ワァァァァッ!

 上から、割れんばかりの歓声と拍手が降り注いだ。

 奇跡の三連発。

 死んだはずの少年が動き、傷ついた女性が立ち上がり、撃たれたゴリラが蘇った。

 その中心にいるのは、紛れもなく淳史だった。

 無数のスマホが、その姿を捉えている。

 終わった。

 淳史は強烈な疲労感に襲われ、その場に膝をついた。

 ノゾミが駆け寄ってくる。

「淳史くん!」

 彼女は淳史の体を支えようとしたが、その手は震えていた。驚き、感謝、そして隠されていた真実への戸惑い。

 淳史は荒い息を吐きながら、ノゾミの手をそっと押し返した。

「……ごめん、ノゾミさん。今日は、ちょっと疲れたよ」

「待って、私……!」

「また明日、話そう」

 淳史はふらつく足取りで立ち上がり、文世に一礼すると、群衆の視線を背中に浴びながら、逃げるようにその場を去った。


 その夜。

 SNSのトレンドは、一つの話題で埋め尽くされた。

 『動物園で奇跡』『謎のヒーラーの正体』『イカロスの雲上人』。

 拡散された動画には、光を放つ淳史の横顔が、鮮明に映し出されていた。

 秘密のベールは剥がれ落ちた。

 世界が、淳史を見つけたのだ。

 彼の平穏な日々は、唐突に、そして完全に終わりを告げた。


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