第34話 調べを律する者
その日、元ピアニストの松子(34)は、吸い寄せられるように銀座の楽器店へと足を踏み入れていた。
引退してから二年。自宅のピアノにはカバーを掛け、鍵盤に触れることさえ避けてきた。それなのに、街中でふと耳にしたピアノの音色に胸がざわつき、気づけばこの店の自動ドアをくぐっていたのだ。
広々としたフロアには、黒塗りのグランドピアノが数台、静かな威圧感を放って並んでいる。
松子はその中の一台、窓際に置かれたコンサートモデルの前に立った。
買うつもりはない。ただ、今の自分にまだ「音楽」が残っているのか、確認したかったのかもしれない。あるいは、完全に枯れ果てていることを確認して、諦めをつけたかったのかもしれない。
店員に視線で許可を求めると、彼は心得たように微笑んで頷いた。
松子は革張りの椅子に座り、バッグを足元に置いた。
鍵盤蓋をゆっくりと上げる。黒と白の配列が、かつての戦場のように目に飛び込んでくる。
震える指先を、そっと鍵盤の上に添えた。
音は出さない。まずは感触を確かめる。
――ん?
松子の眉がぴくりと動いた。
指を左右に揺らした時の、わずかな「遊び」。沈み込む時の抵抗感。そして、足裏に伝わるペダルのしなやかな返り。
その全てが、恐ろしいほどに自分の「好み」だった。
まるで、自分の指の長さ、打鍵の癖、体重のかけ方を知り尽くした誰かが、あつらえたかのようなセッティング。
懐かしさが指先から駆け上がり、心臓を鷲掴みにした。
簡単なコード進行で試すつもりだった。だが、このピアノが「弾いてくれ」と訴えかけてくる誘惑に、松子は抗えなかった。
指が勝手に動いた。
左手が激しい下降旋律を刻み、右手が悲痛な和音を叩きつける。
フレデリック・ショパン作曲、『革命のエチュード』。
激動と憤怒、そして悲劇的な祖国への想いを乗せたその曲は、今の松子の鬱屈した感情を解き放つのに十分すぎた。
音が、奔流となって溢れ出す。
凄い。
松子は弾きながら、背筋が粟立つのを感じていた。
ただ音が合っているだけではない。
高音部はクリスタルのように硬質で輝き、低音部は大地の唸りのように腹に響く。和音を弾けば、倍音成分が空中で溶け合い、一つの色彩となって降り注いでくる。
超一流の仕事だ。
このピアノを調律した人間は、ただの技術者ではない。ピアノという機械に命を吹き込む、魔法使いだ。
松子は無我夢中だった。
長らく忘れていた感覚。自分の感情が指先を通して音になり、空間を支配する全能感。
引退の理由は「限界」だった。
三〇代に入り、自分が弾きたい音と、実際に出る音との間に乖離が生まれた。観客は拍手をくれたが、自分自身が納得できなかった。私の才能は枯れたのだと、逃げるようにステージを降りた。
だが、どうだ。
今、この瞬間。現役の全盛期と変わらない……いや、それ以上の表現ができている。
指が鍵盤に吸い付く。ピアノが私の手の一部になったかのように歌う。
なぜだ。
なぜ、今日は弾ける? ブランクがあるはずの私が、なぜこんなにも自由に飛べる?
最後のハ短調の和音が、雷鳴のように響き渡り、静寂が訪れた。
松子は肩で息をしながら、残響の中に身を委ねた。
目を開けると、店内の客や店員たちが足を止め、驚きの表情でこちらを見ていた。
そして。
ピアノの向こう側、柱の陰に、一人の男性が立っていた。
店のロゴが入ったエプロン姿。穏やかな笑顔。
松子の目が点になった。
「……嘘」
見間違うはずがない。
かつて、松子の専属調律師を務めていた男、高志だった。
彼は松子のデビュー当時から全てのコンサートに帯同し、彼女のピアノを作り上げてきた戦友だった。
だが三年前、彼は突然姿を消した。
風の噂で聞いた。ウイルス性の疾患により、聴力を失ったと。
音楽家にとっての死刑宣告。彼は松子に迷惑をかけまいと、何も言わずに去っていったのだ。
その彼が、なぜここにいる。
松子はふらつく足で立ち上がり、彼に歩み寄った。
「高志さん……なの?」
「久しぶりだね、松子さん。素晴らしい演奏だった」
高志は懐かしい声で答えた。
「聞こえるの……? 耳は」
「ああ。治ったんだよ」
高志は自分の耳に手を当て、少し照れくさそうに笑った。
「『イカロス』という財団を知ってるかい? そこの不思議な施術を受けてね。嘘みたいに聞こえるようになったんだ。……今は、この店で働かせてもらっている」
イカロス。ニュースで騒がれている、あの奇跡の財団か。
松子は彼の手を見た。タコだらけの、職人の手。
「じゃあ、今のピアノ……」
「僕が調律したんだ。……松子さんが来るとは知らなかったけど、無意識のうちに君の好みに合わせてしまっていたのかもしれないね」
高志は愛おしそうにピアノを見つめた。
「君が引退したと聞いて、悲しかったよ。僕の耳が聞こえなくなって、君のピアノを支えられなくなったせいだと、ずっと自分を責めていた」
その言葉に、松子はハッとした。
そうだ。そうだったのだ。
私が弾けなくなったのは、才能が枯れたからではない。
私の音を作ってくれる、私の「片割れ」がいなくなったからだ。
彼の調律は、ただ音程を合わせるだけではない。
その日のホールの響き、湿度、そして松子の体調や気分の揺らぎまで感じ取り、音色をデザインしてくれていた。
時には華やかに、時には妖艶に。彼の作るスリリングな音の土台があったからこそ、松子は安心して冒険ができたのだ。
彼がいなくなり、別の調律師がついた途端、ピアノはただの「楽器」になった。だから違和感が生まれ、自信を喪失し、私はピアノから逃げた。
今、彼が調整したピアノを弾いて、確信した。
私の才能は枯れていない。ただ、スイッチを入れてくれるパートナーが必要だったのだ。
松子の目から、涙が溢れ出した。
「馬鹿ね……。あなたのせいじゃないわ。私が未熟だっただけよ」
「松子さん……」
「でも、もう分かった。私一人じゃダメなの。あなたの音がなきゃ、私は歌えないのよ」
松子は涙を拭い、高志の目を真っ直ぐに見据えた。
引退した時の、死んだような目はもうなかった。そこには、ステージの袖で出番を待つ時のような、野心的な光が宿っていた。
「高志さん。私、現役復帰するわ」
「えっ?」
「撤回よ。引退なんてなし。もう一度、ステージに立つ」
松子は高志の手を取り、強く握りしめた。
「だから、お願い。……また、私のピアノを作ってくれる? あなたじゃなきゃ、嫌なの」
突然のオファー。
高志は驚きに目を見開いたが、やがてその瞳が潤み、職人の顔へと変わっていった。
彼にとっても、松子のピアノを調律することは、人生そのものだったのだ。
「……喜んで。僕の腕が落ちていなければ、だけどね」
「ふふ、何言ってるの。さっきの『革命』、最高だったじゃない」
二人は笑い合った。
店内に流れるBGMよりも、ずっと美しい和音が、二人の間に響いていた。
数ヶ月後。
コンサートホールのステージに、一台のスタインウェイが置かれていた。
その傍らで、最終調整を終えた高志が、舞台袖の松子に小さく親指を立てる。
松子は深呼吸をし、煌びやかなドレスを翻して光の中へと歩み出した。
第二楽章の始まりだ。
その音色は、かつてよりも深く、優しく、そして力強く、満員の聴衆の心を震わせることになるだろう。
なぜならそこには、苦難を乗り越え、奇跡によって再び巡り会った二つの魂が込められているのだから。




