第33話 ミラクルタッチ
ニューヨーク、マンハッタン。
摩天楼の谷間を縫うように、一台のリムジンが走っていた。
後部座席には、イカロス財団の「ゴールデントリオ」が揃っていた。理事長の真千子、元刑事で現在は調査・警護担当の隆史、そして施術者の淳史だ。
今回のクライアントは、ウォール街の帝王と呼ばれる大富豪、ロバート・マクンガイア。
原因不明の衰弱により寝たきりとなり、余命幾ばくもないという。世界中の名医が匙を投げた末、イカロスの特別枠を当時のレートで数十億円という破格の金額で落札したのだ。
ハドソン川を見下ろす広大な屋敷に通されると、そこは重苦しい空気に包まれていた。
ベッドに横たわるロバートは、かつての威厳は見る影もなく、骸骨のように痩せ細っていた。
その枕元には、長男のエドワードが立っていた。仕立ての良いスーツを着ているが、その目は笑っていなかった。
「父はもう長くありません。無駄なことだとは思いますが……まあ、好きにやってください」
エドワードは冷ややかな視線を投げかけてきた。
淳史はロバートの元へ歩み寄った。
「……原因不明とのことですので、治せる確証はありません。ですが、全力を尽くします」
淳史がロバートの冷たい手を握る。
――タッチ。
瞬間、淳史は眉をひそめた。
体の中を巡る、ドス黒い異物感。これは病気ではない。外部から継続的に投与された「毒」だ。
淳史の力は、その毒素を分解し、破壊された内臓機能を一瞬で修復していく。
数秒後。
ロバートが大きく息を吸い込み、カッと目を見開いた。
「……おお、体が軽い! 力が漲ってくるぞ!」
ロバートがベッドから起き上がった。その顔色は瞬く間に紅潮し、声には往年の張りが戻っていた。
部屋中がどよめき、医師たちが十字を切る中、ただ一人、長男のエドワードだけが青ざめていた。
(馬鹿な……。あの毒は、最新の科学で合成された完全犯罪用の毒薬だぞ。それを一瞬で消したというのか?)
遺産相続を急ぐあまり、父親に毎日少しずつ毒を盛っていたのは、他ならぬエドワードだった。
彼は淳史を睨みつけた。
余計なことを。あと数日で父は死に、莫大な遺産は俺のものになるはずだったのに。
こいつさえいなければ。
エドワードの瞳に、昏い殺意の炎が灯った。
任務を終えた一行は、その日のうちに帰国の途につくことになった。
JFK国際空港のプライベートジェット専用ターミナル。
淳史たちがチャーター機に乗り込もうとした時、エドワードが見送りに現れた。
「素晴らしい奇跡でした。父に代わってお礼を言います」
エドワードは恭しく頭を下げたが、その口元には不敵な笑みが張り付いていた。
「ああ、そうそう。感謝のしるしに、お土産を荷室に入れておきましたよ。驚かないでくださいね」
「……それはどうも」
淳史は背筋に寒気を感じたが、軽く会釈をしてタラップを登った。
隆史もまた、鋭い視線をエドワードに向けていた。元刑事の勘が、何らかの危険信号をキャッチしていたが、具体的な証拠はない。
飛行機が離陸し、眼下にニューヨークの夜景が広がった頃。
機内では、真千子が空港で買ったハンバーガーを広げていた。
「んー! やっぱり本場のバーガーは肉々しくて最高ね!」
彼女はプラスチックカップに注いだ赤ワインをあおり、至福の表情を浮かべた。
「隆史もどう? 半分あげるわよ」
真千子が差し出すと、向かいの席に座っていた隆史は苦笑して首を振った。
「遠慮しておくよ。それに、ハンバーガーでワインを飲めるのは、世界広しといえど理事長くらいだ」
「あら、失礼ね。これがニューヨーカーの嗜みよ」
「聞いたことないな」
二人が軽口を叩き合っていると、淳史もつられて笑った。元夫婦の、この独特の距離感が淳史は好きだった。
だが、その平穏は唐突に破られた。
ドォォォォン!!
機体を突き上げるような衝撃音。
機体が激しく傾き、テーブルの上のワインボトルが宙を舞った。
「キャッ!?」
「伏せろ!」
隆史がとっさに真千子を庇う。
警報音が鳴り響き、酸素マスクが降りてくる。
機長からの悲鳴のようなアナウンスが入った。
『メーデー! メーデー! 貨物室で爆発発生! 油圧系統喪失! 操縦不能!』
爆発。
淳史の脳裏に、エドワードの「お土産」という言葉が蘇った。
あれは爆弾だったのか。
機体はキリモミ回転をしながら、真っ逆さまに降下を始めた。窓の外には、暗黒の大西洋が迫ってくる。
「くそっ、やられた!」
隆史はよろめきながら立ち上がり、機体後部の収納ロッカーをこじ開けた。
そこに入っていたのは、非常用のパラシュート。
だが、その数は絶望的だった。
「……二人用のタンデム(二人乗り)パラシュートが、二組しかない」
搭乗者は五名。
機長、副機長、真千子、淳史、そして隆史。
定員は四名。一名足りない。
機体は激しく揺れ、高度計の数字が死へのカウントダウンのように減っていく。
議論している時間はない。
「機長! 副機長! こっちへ!」
隆史はコックピットから這い出してきた二人を呼び寄せると、テキパキと指示を出した。
「機長は淳史くんと! 副機長は真千子と飛んでくれ! 急げ!」
「た、隆史さんはどうするの!?」
淳史が叫ぶ。
隆史はパラシュートのハーネスを機長たちに装着させながら、ニカっと笑った。
「俺は残る。誰かがハッチを開けて、最後まで見届けなきゃならないからな」
「駄目よ! そんなの認めない!」
真千子が隆史の腕を掴む。その目は涙で潤んでいた。
「あんたも来なさいよ! 三人で掴まれば……」
「重量オーバーでパラシュートが開かない。全員死ぬぞ」
隆史は冷静だった。SAT時代、数々の死線をくぐり抜けてきた男の顔だった。
彼は真千子の肩を強く抱き寄せ、耳元で囁いた。
「……淳史を頼んだぞ。あいつは世界の宝だ。絶対に死なせるな」
「隆史……っ!」
「行けッ!!」
隆史は非常ハッチを蹴り開けると、機長と淳史のペアを、続いて副機長と真千子のペアを、強引に機外へと突き落とした。
強烈な風圧と共に、四人が闇夜へと吸い込まれていく。
ハッチの縁で、隆史は一度だけ手を振り、そして遠ざかっていった。
パラシュートが開く衝撃。
淳史と真千子たちは、海上ではなく、海岸線に近い荒野へと流されていった。
着地。
機長たちの熟練した操作のおかげで、怪我なく地面に降り立つことができた。
だが、真千子はハーネスを外すなり、空を見上げた。
遥か上空。黒煙を上げて墜ちていく機体が見える。あの中に、隆史がいる。
「隆史……! 嫌よ、死なせない!」
真千子は頭を抱え、必死に思考を巡らせた。
何か方法はないか。彼を助ける方法は。
物理的に不可能だ。パラシュートはない。飛行機は海へ突っ込む。仮に海面に不時着できたとしても、あの損傷具合では着水と同時にバラバラになるだろう。
死ぬ。確実に死ぬ。
諦めかけたその時、真千子の脳裏に狂気じみたアイデアが閃いた。
常識ではあり得ない。物理法則を無視した賭け。
だが、イカロスには「非常識」を現実に変える切り札がある。
「淳史!」
真千子は叫んだ。
「準備しなさい! 隆史を受け止めるわよ!」
「えっ、どうやって!?」
真千子は震える手でスマホを取り出し、リダイヤルした。
繋がれ。頼むから繋がってくれ。
墜落する機内。
隆史は傾いた座席に座り、最後のタバコをくわえていた。火をつけるライターが見当たらないのが残念だ。
高度計は残り二〇〇〇メートルを切っている。あと数分で海面に激突する。
その時、胸ポケットのスマホが震えた。
画面には『真千子』の文字。
隆史はふっと笑い、通話ボタンを押した。
「……飛行機の中で電話に出たら、電波法違反で怒られるんだけどな。まあ、今はいいか」
風切り音と警報音がうるさい中、隆史は穏やかに語りかけた。
「最後に君の声が聞けて嬉しいよ。淳史は無事か?」
『ちょっと何言ってるのよ! センチになってる暇はないわ!』
スピーカーから、真千子の怒鳴り声が響いた。
『いい、よく聞いて! 今すぐそこから飛び降りなさい!』
「はあ? パラシュートが無いんだぞ。自殺しろってか?」
『違うわよ! 飛び降りて、淳史の位置に落ちてくるの! 着地の瞬間、淳史にタッチされれば助かる可能性があるわ!』
隆史は絶句した。
「……正気か? 高度一〇〇〇メートル以上からの自由落下だぞ。終端速度は時速二〇〇キロを超える。地面に激突した瞬間、俺の体はトマトみたいに弾け飛ぶ。タッチする暇なんてない」
『あんたの体はトマトより頑丈でしょ!』
真千子の声は真剣そのものだった。
『淳史のタッチは一瞬よ。体が砕ける速度と、治る速度。……治る方が勝てば、生き残れる!』
無茶苦茶な理論だ。
細胞が破壊されるスピードと、再生するスピードの競争。
コンマ一秒でもズレれば即死。いや、合ったとしてもショック死する可能性が高い。
だが。
隆史は窓の外を見た。このまま機内にいれば、爆発炎上して終わりだ。生存率はゼロパーセント。
それに比べて、真千子の狂った作戦の生存率は……限りなくゼロに近いが、ゼロではない。
「……分かった。乗ったよ、その賭け」
隆史はシートベルトを外した。
「わかった、真千子。……もしトマトになったら、ケチャップにして食べてくれ」
『馬鹿言ってないで! GPSで位置を送るわ! スマホのライトで照らしながら淳史が手を伸ばして待ってる! 迷わず飛び込んでらっしゃい!』
隆史はハッチの前に立った。
眼下には、豆粒のような明かりが見える。あそこか。
恐怖はなかった。むしろ、この土壇場でこんな無茶な作戦を思いつく元妻への愛おしさと、それに応えようとするアドレナリンが全身を駆け巡っていた。
「行くぞッ!」
隆史は空へ踊り出た。
轟音。
風が全身を叩く。呼吸ができない。
隆史は手足を広げ、姿勢を安定させながら落下した。
時速二〇〇キロ。新幹線並みの速度で地面が迫ってくる。
目指す一点。スマホのライトが点滅している場所。
あそこに淳史がいる。
視界が狭まる。意識が飛びそうになる。
だが、隆史は目を見開いた。
見える。
地面で、淳史が両手を空に向けて広げている。
まるでキャッチャーのように。
(受け止めろよ、淳史……!)
隆史は体を一直線にし、弾丸のように突っ込んだ。
地上。
淳史は空から降ってくる黒い点を見つめていた。
怖い。
もしタイミングが遅れれば、目の前で隆史さんが肉塊に変わる。
でも、やるしかない。
姉ちゃんが信じた。隆史さんが信じてくれた。
なら、俺が応える番だ。
淳史は集中力を極限まで高めた。
来る。
速い。
あと一〇〇メートル。
五〇メートル。
一〇メートル。
今だ!
ドォォォォォン!!
隕石が落ちたような衝撃音と、土煙が舞い上がった。
地面が揺れ、真千子は吹き飛ばされそうになりながらも目を凝らした。
「隆史! 淳史!」
土煙の中、クレーターのようになった中心地に、二つの人影があった。
一人は座り込み、もう一人は仰向けに倒れている。
真千子は転がるように駆け寄った。
仰向けに倒れているのは隆史だ。服はボロボロに裂け、体中が血まみれに見える。
だが。
その胸が、大きく上下していた。
「……い、てて……」
隆史が呻き声を上げ、ゆっくりと上体を起こした。
骨折一つしていない。内臓破裂もない。
着地の瞬間に全身が粉砕されたはずの肉体は、淳史の神速のタッチによって、破壊と同時に再生されていたのだ。
死と再生のデッドヒート。淳史が勝ったのだ。
傍らで、淳史は肩で息をしながら、へたり込んでいた。
「……し、死ぬかと思った……」
淳史の手は震えていたが、その顔にはやり遂げた男の笑みがあった。
隆史は自分の体を触り、生きていることを確認すると、空を見上げて深く息を吐いた。
「……危うくミンチになるところだった」
その言葉に、真千子は涙を拭いながら、いつもの憎まれ口で返した。
「あら。あんたをバンズで挟んでも、筋っぽくて美味しくなさそうね」
一瞬の静寂の後、三人は顔を見合わせ、堰を切ったように笑い出した。
狂った夜の、狂った奇跡。
生きていればこそ、笑えるのだ。
後日談。
JFK空港の監視カメラには、チャーター機の荷室に爆発物を積み込むエドワードの姿がばっちりと映っていた。
彼は殺人未遂と航空機爆破の容疑でFBIに逮捕された。
父親は健康を取り戻し、エドワードは廃嫡。彼は重罪人として、一生を刑務所の冷たい壁の中で過ごすことになった。
皮肉にも、彼が父に盛っていた毒よりも、彼自身の悪意という毒の方が、彼自身の人生を蝕んでしまったのだ。
日本へ帰国した淳史たちは、いつものように財団での業務に戻った。
だが、あの日以来、隆史を見る淳史の目は、そして淳史を見る隆史の目は、以前よりも深い信頼の色を帯びていた。
空から降ってくる信頼を受け止めた絆は、地上のどんな重力よりも強く、二人を結びつけていた。




