第32話 学友友情情熱
消毒液の特有のツンとする匂いが、洋平(17)の憂鬱を加速させていた。
県立高校の二年生。サッカー部のレギュラー。クラスのムードメーカー。
そんな輝かしい青春のど真ん中にいた彼に突きつけられたのは、「急性リンパ性白血病」という残酷な診断名だった。
放課後の病室。窓の外からは部活の掛け声が聞こえてくるが、今の洋平には別世界の雑音にしか聞こえない。
パイプ椅子に座っているのは、幼稚園からの幼馴染であり、親友の健太だ。
「……なぁ、健太」
洋平はベッドの柵を爪でカリカリと引っ掻きながら、絞り出すように言った。
「これから始まる抗がん剤治療でさ、髪の毛が抜けてハゲになるらしいんだよ。マジで嫌なんだけど」
死への恐怖はもちろんある。だが、多感な一七歳にとって、容姿が変わることへの恐怖は、死と同じくらい切実で、耐え難い屈辱だった。
健太は持ってきたマンガ雑誌を閉じ、努めて明るい声で言った。
「なんだよ、そんなことか。でも病気が治ったら、また生えてくんだろ? 大丈夫っしょ。洋平は元がイケメンだから、髪無くても似合うって」
「お前はいいよな、他人事だから。……しかもさ、もし抗がん剤が効かなかったら、もう他に打つ手が無くて死ぬらしいからね。やだよ俺、ハゲで棺桶に入るなんて。最悪の遺影じゃんか」
洋平の声が震えだした。強がっていても、恐怖が堰を切って溢れてくる。
健太は一瞬、表情を歪めたが、すぐにいつもの悪態をつく調子で返した。
「泣いてんの? バカな事言ってんなよ。絶対治るって。学校でみんな待ってんだからよ」
健太は立ち上がり、背中を向けた。
「……じゃあな。また来るわ」
病室を出て、廊下を歩く健太の拳は、白くなるほど強く握りしめられていた。
(なんで洋平なんだよ。あいつが何したっていうんだ。クッソ……神様の馬鹿野郎が)
誰もいない非常階段の踊り場で、健太は壁を殴りつけ、声を殺して泣いた。
(ぜってー治って戻って来いよ。……俺ができることなら、何でもやってやるからよ)
それから数時間後のことだった。
病室のドアが勢いよく開き、母親が飛び込んできた。その目は赤く腫れていたが、悲しみの涙ではなかった。
「洋平! やったわよ!!」
「母さん? どうしたの?」
「応募していた、病気が治る例のあれ……『イカロス』の抽選、当たったわよ! たった今連絡が来たの!」
母親はスマホを握りしめたまま、洋平に抱きついた。
「よかった……本当によかった……っ!」
洋平は呆然と天井を見上げた。
イカロス。ネットで噂になっていた、どんな病気も一瞬で治すという財団。ダメ元で母が応募していたのは知っていたが、まさか当たるなんて。
じわじわと実感が湧いてくる。
死ななくていい。痛い治療もしなくていい。
そして――髪も、抜けなくて済む。
「……また、みんなに会えるんだ」
洋平は母親の背中に手を回し、心の中で見えない神様に感謝した。
(ありがとう、神様。前言撤回、アンタ最高だよ)
数日後。
タッチ当日。
洋平の個室は、厳戒態勢のような緊張感に包まれていた。
先に現れたのは、調整部のノゾミだった。彼女は部屋のカーテンを閉め切り、セキュリティチェックを済ませると、優しく微笑んだ。
「洋平くん、準備はいい?」
「は、はい。お願いします」
「これから裏手のドアより、この部屋に施術者が現れます。痛みは全くないので安心してくださいね。私は退室して廊下で待ってますから、終わったら呼んでください。それでは」
ノゾミが一礼して部屋を出ていく。
静寂。心臓の音だけがうるさいほど響く。
カチャリ。
普段は使われていないスタッフ用の裏口ドアが開き、パーカーを目深に被った青年が入ってきた。
淳史だ。
彼はマスク越しでも分かる穏やかな目で、洋平を見た。
(3号棟209号室、ここだな。時間だ)
「初めまして、洋平くん。僕は淳史と言います」
「あ、よろしくお願いします……」
「緊張しなくていいよ。一瞬で終わるから。はい、手を出して」
洋平が恐る恐る差し出した右手を、淳史が両手で包み込む。
(いくよ!)
――タッチ。
瞬間、洋平の体内を温かい奔流が駆け巡った。
骨の髄で暴れていた異常な細胞たちが、光に浄化されるように消え去り、代わりに正常な血液が力強く脈打ち始める。
重だるかった体が、羽が生えたように軽くなる。
「……終わったよ」
淳史が手を離した。
「今まで辛かったね。それも今日でおしまい。これからは、新しい人生を全力で楽しんでください。……それじゃあね」
淳史は爽やかに言い残すと、風のように裏口から去っていった。
残された洋平は、自分の体をペタペタと触った。
痛くない。だるくない。何でもできる気がする。
「……本当に、終わったの?」
洋平はベッドから飛び降り、軽くジャンプしてみた。体が軽い。
「すげー……マジですげー! おっしゃー!!」
歓喜の雄叫びを上げ、洋平は廊下に向かって声を張り上げた。
「あのー! 終わりましたー! 部屋に入ってもらって大丈夫でーす!」
その瞬間だった。
ガラララッ!
ノゾミが入ってくるはずの表の扉が、乱暴に開け放たれた。
「洋平ぇぇぇーーッ!!」
ドカドカと雪崩れ込んできたのは、ノゾミではなく、制服姿の男たちの集団だった。
先頭にいるのは、親友の健太。
そしてその後ろには、サッカー部の仲間や、クラスの男子たちが勢揃いしている。
だが、何かがおかしかった。
全員の頭が、ツルツルに輝いていたのだ。
「洋平! サプラーイズ!」
健太が得意げに自分の青々とした頭を叩いた。
「俺、人生で初めて坊主にしちゃったぜ! 似合うだろ?」
洋平はポカンと口を開けたまま固まった。
「……は?」
「驚いたか? なんと俺だけじゃなく……おーい! みんな入れ入れ!」
健太の合図で、十数人の男子生徒がベッドを取り囲む。
見渡す限りの坊主、坊主、坊主。
病室の照明が反射して眩しいほどの、見事なハゲ頭集団だ。
「ジャーン! クラスの男子、全員道連れにして坊主にしちゃったぜ!」
健太はニカっと笑った。
「お前が『ハゲるのが嫌だ』『一人だけ違う姿になるのが怖い』って言ってたからよ。俺たち全員でハゲれば、怖くねぇだろ?」
他の友人も口々に叫ぶ。
「そうだぞ洋平! これが今年のトレンドだ!」
「髪なんて飾りです! エロい人はみんなハゲるんです!」
「だから治療頑張れよ! 俺たちは、お前が戻ってくるのをずっと待ってっからな!」
熱い友情。
命を懸けた治療に挑む友のために、思春期の男子が一番気にする髪を捨ててまで連帯感を示したのだ。
涙が出るほど美しい話だった。
……もし、洋平の病気が治っていなければ。
洋平は、感動よりも先に押し寄せる強烈な気まずさに、冷や汗を流していた。
みんなの視線が痛い。
彼らは「さあ、感動して泣け」と言わんばかりのドヤ顔で待っている。
「……ん? どうした洋平? そんな気まずそうな顔して」
健太が怪訝そうに顔を覗き込む。
洋平は視線を泳がせ、意を決して口を開いた。
「……えっと、あのさ、みんな」
「おう、なんだ?」
「……じ、実は……病気、治っちゃいました」
時が止まった。
病室に、完全な静寂が訪れる。
健太の笑顔が凍りついた。
後ろにいた友人が持っていた千羽鶴が、バサリと床に落ちた。
「……は?」
健太の声が裏返った。
「いや、だから……たった今、イカロスの人が来て、治してくれたんだ。もう元気なの。抗がん剤もやらないし、髪も……抜けないんだ」
洋平は申し訳無さそうに、自分のフサフサな髪を指差した。
坊主軍団の視線が、洋平の黒髪に集中する。
沈黙。
そして、爆発。
「まじでぇぇぇーー!?」
「ふざけんな! 俺たちの坊主どーすんだよ!」
「俺、昨日美容院で泣きながら刈ったんだぞ!」
「明日デートあんだぞ! 振られるわ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図となった病室で、健太がゆらりと前に出た。その手には、なぜかコードレスの電動バリカンが握られていた。
「……健太? なんでバリカン持ってるの?」
洋平が後ずさる。
健太の目が、怪しく光った。
「この際だ……洋平も坊主にしちゃえ!!」
「はあ!?」
「俺たちだけハゲてて、お前だけフサフサなんて許されると思ってんのか! 連帯責任だ! 俺が今やってやんよ!」
健太がバリカンを起動させる。ウィィィン、という不穏なモーター音が響く。
「みんな! 洋平を押さえろー!!」
「うおおお! 剃れ剃れー!」
「そのフサフサを刈り尽くせー!」
暴徒と化した友人たちが洋平に襲いかかる。
「まてまてまて!! 治ったんだぞ!? 病み上がりだぞ!?」
「うるせぇ! 元気なら剃れる!」
「ギャーー! やめろー!」
ベッドの上で繰り広げられる、男たちのくんずほぐれつの大乱闘。
もみくちゃにされながら、健太が洋平の耳元で叫んだ。
(……本当によかったな。マジで安心したわ。……おめでとう、バカ洋平)
その声は少し震えていた。
洋平は抵抗する手を止め、笑いながら涙を流した。
「……みんな、ありがとう!」
次の瞬間、バリカンが洋平の前髪をジョリっといった。
「あああっ! やりやがったなコイツ!」
その騒ぎを、廊下からそっと見守る二人の女性がいた。
ノゾミと、様子を見に来た真千子だ。
ノゾミは苦笑いしながら、騒がしい病室を見つめた。
「……せっかくみんなで坊主にしたのに、無駄になってしまいましたね」
真千子はサングラスを直し、口元を緩めた。
「いいえ。あれはあれで、一生の思い出になるからいいのよ」
青春の馬鹿馬鹿しさと、尊さ。
髪はまた生えてくる。だが、この瞬間、彼らが共有した絆と、奇跡の喜びは、決して色褪せることはないだろう。
病室からは、まだ若者たちの笑い声と、バリカンの音が響いていた。




