第30話 ごぶさた親友
季節は巡り、木々の緑が深さを増した初夏の候。
淳史は七年ぶりに、あの長い石段の下に立っていた。
井之花八幡宮。
かつての親友、篤人が生まれ育ち、そして帰るはずだった場所。
今日は、篤人の七回忌にあたる日だ。
あれから七年という月日が流れた。淳史にとっては、時計の針が止まったり、狂ったように進んだりする、不安定な歳月だった。
自衛隊を辞め、引きこもり、姉に引っ張り出され、今は「イカロス」という翼の下で奇跡を起こしている。
激動の日々の中で、淳史はずっとこの場所を避けてきた。合わせる顔がなかったからだ。篤人を守れず、自分だけがのうのうと生き残っている姿を、彼の家族に見せるのが怖かった。
だが、動物園で文世の言葉を聞き、少しだけ前に進む勇気を得た淳史は、今日、ここに来ることを決めた。
石段を一歩ずつ踏みしめる。
高校時代、二人で駆け上がったこの道が、今日はやけに長く、急に感じられた。
境内に辿り着き、社務所のインターホンを押す。心臓が早鐘を打っていた。もし拒絶されたら。もし罵られたら。
引き戸が開いた。
「……はい?」
現れたのは、篤人の母だった。七年前よりも少し白髪が増え、目尻の皺が深くなっていたが、その優しい雰囲気は変わっていなかった。
淳史は深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しています。……淳史です」
母の目が大きく見開かれた。一瞬の沈黙。淳史が身を硬くしたその時、彼女の顔が柔らかく綻んだ。
「淳史くん……! まあ、よく来てくれたわねぇ。元気だった?」
そこには、息子を死なせた友人への恨みなど微塵もなく、ただ久しぶりに帰ってきた我が子を迎えるような温かさがあった。
「突然すみません。今日、あいつの……篤人の七回忌だと思って」
「いいのよ。さあ、上がって」
通されたのは、かつて二人でテスト勉強をしたあの二階の部屋ではなく、奥座敷だった。
そこには仏壇ではなく、神道形式の祭壇――祖霊舎が祀られていた。
中央にある真新しい白木の霊璽に、篤人の名がある。
淳史は座布団に正座し、二礼、二拍手、一礼の作法で手を合わせた。
目を閉じる。
ここに来るまでは、謝罪の言葉しか出てこないと思っていた。「ごめん」「許してくれ」「代わってやりたかった」。そんな懺悔を繰り返すのだと。
だが、不思議だった。
手を合わせた瞬間、脳裏に浮かんだのは、泥まみれの最期ではなく、あの日の笑顔だった。
カステラにプリントされた真千子の顔を二人で切った時の、馬鹿馬鹿しい爆笑。オナラの音を畳の音で誤魔化した時の、呼吸困難になるほどの笑い。
(なあ、篤人。姉ちゃん、相変わらずだぞ)
(お前、あっちでモテてんのか? 俺は最近、ちょっと気になる人ができたんだ)
(悔しかったら化けて出てこいよ。また笑わせてやるからさ)
湧き上がってくるのは、親友への近況報告と、くだらない冗談ばかり。
涙は出なかった。代わりに、懐かしさが胸を満たしていた。
淳史が目を開けると、いつの間にか後ろに座っていた母が、静かに微笑んでいた。
「……ゆっくり話せた?」
「はい。なんか、あいつがそこで笑ってる気がして」
「そう。あの子も喜んでるわ」
その後、居間でお茶をいただくことになった。
出された羊羹を食べながら、淳史はぽつりぽつりと語り始めた。高校時代の思い出、二人でやった悪戯、自衛隊での訓練の日々。
母は「まあ、そんなことが」「あの子らしいわね」と、時折笑い声を上げながら聞いてくれた。篤人の時間が、この家の中で再び動き出したようだった。
話が途切れた頃、母が尋ねた。
「淳史くんは今、何のお仕事を?」
淳史は少し躊躇ってから、答えた。
「……財団法人イカロスで、働いています。まだアルバイトのようなものですが」
「イカロス……。ああ、あの『タッチ』で有名な?」
「はい」
母は湯呑みを両手で包み込み、遠くを見るような目をした。
「不思議なご縁ね。実はね……あの子のお爺ちゃんも、似たような力を持っていたらしいの」
淳史の手が止まった。
「え……お爺さんが?」
「ええ。ずっと昔、戦時中の話よ。戦地で傷ついた仲間を、不思議な力で治したことがあったんですって。でも、そんな力が知れ渡れば、軍に利用されるか、化け物扱いされて殺されるか分からない。だからお爺ちゃんは、その力をひた隠しにして、戦後はここでおとなしく神職を務めていたの」
淳史の心臓がドクンと鳴った。
自分と同じ境遇。力を隠し、恐れていた先人が、身近にいた。
「もっと……詳しく聞かせてもらえませんか」
「ええ。この井之花八幡宮はね、祀っている神様が『少彦名命』なの」
スクナヒコナ。日本神話に登場する、医薬とまじない、そして温泉の神。
「代々の宮司の中には、稀に神様の力を色濃く受け継ぐ者が出る、なんて言い伝えがあるのよ。眉唾だと思っていたけど、お爺ちゃんは本物だったみたい」
母は懐かしそうに目を細めた。
「篤人がね、亡くなる一週間前に帰省していたでしょ? あれは、お爺ちゃんの容態が悪くなったからなの。あの子、ずっとお爺ちゃんの枕元に付き添って、最期を看取ったのよ」
――看取った。
淳史の中で、バラバラだったピースが繋がり、戦慄が走った。
篤人の祖父が息を引き取った瞬間、その場にいた篤人。
そしてその一週間後、土砂崩れの現場で、篤人の最期に立ち会った自分。
もし、この力が「血」ではなく「魂」を介して受け継がれるものだとしたら?
祖父から篤人へ。そして篤人から、自分へ。
あの日、泥の中で篤人の手に触れようとした瞬間、掌に走ったあの電流のような感覚。あれは、親友が最期に託した「バトン」だったのではないか。
(俺の力は……お前から貰ったものだったのか?)
淳史は自分の掌を見つめた。
人を治すこの手が、急に重く、そして熱く感じられた。
篤人は自衛官を目指した。「困っている人を直接助けたい」と言って。
その遺志ごと、この力は俺に宿ったのかもしれない。
喉まで出かかった言葉を、淳史は飲み込んだ。
『僕がその力を受け継ぎました』とは言えなかった。それは、息子を失った母親に対し、あまりに残酷で、そして重すぎる告白になると思ったからだ。
ただ、この力を使う意味が、明確に変わった気がした。
これは俺一人のものではない。篤人と、その祖父と、連綿と続く祈りの結晶なのだ。
夕暮れ時。
玄関先まで見送ってくれた母は、帰り際の淳史に言った。
「今日は本当にありがとう。淳史くんが来てくれて、あの子も寂しくないわ」
「いいえ、もっと早く来るべきでした」
「ふふ。でもね、淳史くん」
母は悪戯っぽく笑った。
「うちは神道だから、法要は『七回忌』じゃなくて『五年祭』の次は『十年祭』なのよ。七年目は何もないの」
「えっ!?」
淳史は顔を真っ赤にした。仏教のノリで来てしまった。
「す、すみません! 俺、てっきり……」
「いいのよ、気持ちが嬉しいから。……また、いつでもいらっしゃい。ここは、あなたの帰ってくる場所でもあるんだから」
その言葉に、淳史は目頭が熱くなるのを堪え、深く一礼した。
「……はい! また来ます!」
神社の石段を降りながら、淳史は胸元のシャツの下にある、硬い金属の感触を確かめた。
ドッグタグ。
自衛隊に入隊した時に支給された、認識票。
二枚一組のプレートには、淳史の名と血液型、そして自衛隊員としての番号が刻まれている。
あの日以来、これを外したことはなかった。篤人への贖罪の鎖として、十字架のように身につけていた。
いつかこれを外し、全てを忘れて楽になりたいと思っていた。
だが。
淳史はドッグタグを服の上から強く握りしめた。
忘れる必要なんてない。
篤人は、この力と共に、俺の中で生きている。
過去を背負い、友の夢を背負い、それでも前へ進む。
重い足枷だと思っていたこの金属片は、今、未来への羅針盤のように淳史の胸で温かい熱を帯びていた。
石段を降りきると、街には夜の帳が下り始めていた。
淳史は一度だけ振り返り、鳥居の向こうに小さく頭を下げると、確かな足取りで歩き出した。
その背中は、来る時よりも一回り大きく見えた。




