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雲上タッチ ~触れるだけで、命を救う。神の力を宿した青年が世界を変える、奇跡の物語。~  作者: 団田図


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第29話 絆の先

 日曜日。

 それは、イカロス財団の「雲上人」である淳史が、ただの動物好きな青年に戻れる唯一の日だ。

 いつものように変装用の伊達眼鏡をかけ、帽子を目深に被って、淳史は行きつけの動物園を訪れていた。


 園内の並木道は、家族連れやカップルで賑わっていた。

 ふと、淳史の足が止まった。

 目の前にある木製のベンチ。以前、淳史が文世と一緒に修理したあのベンチだ。

 そこには今、一組の若いカップルが座っていた。

 二人は一つのソフトクリームを分け合い、時折顔を見合わせては楽しそうに笑っている。

(……リア充め)

 淳史は心の中で悪態をつきつつも、口元が緩むのを止められなかった。

 かつて腐りかけて誰かを傷つけそうになっていたベンチが、今はこうして恋人たちの愛を支える場所になっている。自分が施した「修復」が、日常の風景の中で誰かの役に立っている。

 その事実は、病気を治して感謝されるのとはまた違う、じんわりとした温かさを淳史の胸にもたらした。

 隣に座るのが、もしノゾミだったら。

 そんな妄想が一瞬頭をよぎり、淳史は慌てて首を振って歩き出した。


 ゴリラの展示エリアに差し掛かった時だった。

 人だかりの隙間から、見慣れた作業着姿の背中が見えた。ベテラン飼育員の文世だ。

 彼は観客側の柵ではなく、飼育スペースに近いバックヤード側の柵の前に立っていた。

 ガラス越しではない、鉄柵一枚を隔てた距離。

 その向こう側から、巨大な影が近づいてくる。

 ニシローランドゴリラのオス、シルバーバックだ。

 体重二〇〇キロ近い巨体。本来なら警戒心が強く、不用意に近づけば威嚇されてもおかしくない猛獣だ。

 だが、そのゴリラは文世の前まで来ると、その厳つい顔を綻ばせるように、柵に体を擦り付けた。

 まるで、待ちわびた友人に会えた子供のように。

「よう、元気か。今日はいい天気だな」

 文世が穏やかに話しかける。ゴリラは低い唸り声で応え、背中を向けた。毛づくろいのおねだりだ。

 さらに驚くべきことに、その奥からメスのゴリラが、生まれて間もない子供を抱いてやってきた。母親は警戒することなく、文世の目の前まで子供を連れてくると、その小さな手を柵の隙間から差し出した。

 文世は指先で、ゴリラの赤ちゃんの手にそっと触れる。

 種を超えた信頼。

 そこには言葉などいらない、圧倒的な絆が存在していた。

 淳史はその光景に見入っていた。

 自分は「タッチ」という力を使えば、傷を治すことはできる。だが、彼らのように心を通わせ、魂の深い部分で触れ合うことができているだろうか。

 文世の背中は、どんな特殊能力者よりも大きく、そして優しく見えた。


 しばらくして、作業を終えた文世がこちらに気づき、人懐っこい笑顔で近づいてきた。

「やあ、淳史くん。来てたんだね」

「こんにちは、文世さん。さっきのゴリラ、すごかったですね。会話しているみたいでした」

「ははは、彼らとはもう二十年の付き合いだからね。言葉よりも多くのことを語り合える仲さ」

 文世は帽子を被り直し、淳史に尋ねた。

「それで、今日のご予定は? 何かお目当ての子はいるのかい?」

「実は、新しく生まれたパンダの赤ちゃんを見に来たんですけど……」

 淳史は遠くに見えるパンダ舎の方を指差した。そこには「120分待ち」のプラカードを持った係員と、気の遠くなるような長蛇の列が出来ている。

「あんな状態なんで、諦めてまた今度にしようかと」

「ああ、新しい命は大人気だからね」

 文世はパンダ舎の喧騒を一瞥し、それから少し声を落として言った。

「それなら淳史くん。少し時間をくれないか。……今日これから、先日亡くなったアジアゾウのお婆ちゃんの告別式をやるんだ。よかったら、参列していってよ」

 アジアゾウのお婆ちゃん。

 淳史の記憶がフラッシュバックした。

 数ヶ月前、この動物園で出会った老ゾウだ。死期を悟り、群れの仲間たちに別れを告げていた彼女。

 あの時、淳史は「治したい」と言った。だが文世はそれを制し、「自然な死」を見守ることを教えた。

 あの子が、逝ったのか。

 淳史は静かに頷いた。

「……はい。行かせてください」


 文世に連れられ、淳史は普段立ち入ることのできないバックヤードへと足を踏み入れた。

 そこは、表の華やかさとは違う、動物園の裏側の空気が漂っていた。餌の匂い、消毒液の匂い、そして働く人々の真剣な気配。

 敷地の奥まった場所に、ひっそりと佇む「動物慰霊碑」があった。

 石碑の前には祭壇が組まれ、色とりどりの花と共に、あの老ゾウの遺影が飾られている。写真の中の彼女は、優しい瞳でこちらを見つめていた。

 数十人の飼育員や獣医師たちが、喪服や作業着姿で整列している。

 パンダ舎の賑わいとは対照的な、厳粛な沈黙。

「……弔辞」

 担当飼育員だった若い女性が、震える手で紙を開いた。

「ハナコさん。あなたがこの園に来てから、四十五年が経ちました……」

 彼女は涙で声を詰まらせながら、思い出を語った。

 初めて会った日のこと。体調を崩して徹夜で看病した夜のこと。甘えん坊だった性格。そして、最期の瞬間の穏やかな寝顔。

 周りの職員たちも、鼻をすすり、目頭を押さえている。

 そこにあるのは、単なる「管理していた動物の死」に対する事務的な処理ではない。家族を、友を、愛する者を失った、純粋な悲しみだった。


 淳史はその光景を見つめながら、自分の過去と重ね合わせていた。

 七年前。土砂崩れの日。

 親友・篤人の死。

 あの時、自分は泣けなかった。悲しむよりも先に、強烈な後悔と、自分だけが生き残ってしまった罪悪感に押し潰されていたからだ。

 篤人の葬式でも、淳史は心の中で「なんで死んだんだ」「生き返らせてやる」と、現実を否定し続けていた。

 ちゃんと「さよなら」を言えていなかった。


「……淳史くん」

 隣に立つ文世が、静かに語りかけてきた。

「動物園というのはね、命が生まれる場所であると同時に、多くの命が土に還る場所でもあるんだ」

 文世の視線は、遺影のゾウに向けられていた。

「僕たちはこうやって、亡くなった彼らと別れを惜しんで、涙を流して見送る。それは辛いけれど、必要な儀式なんだよ」

「儀式、ですか」

「そう。家族同然に愛していた彼らとの思い出を語り、その死を正面から受け入れること。悲しみを押し殺すんじゃなく、悲しみ抜くこと。……そうすることで初めて、僕たちは『彼らがいない明日』へと、前に進むことができるんだ」

 死を受け入れることで、前に進む。

 淳史の胸に、その言葉が深く突き刺さった。

 自分はずっと、過去に囚われていた。篤人を救えなかったあの日から、時計の針を止めたまま、ただ惰性で生きてきた。

 力を使い、他人を救うことで贖罪をしているつもりだった。だが、それは自分の傷を見ないようにするための逃避だったのかもしれない。

 悲しんでいいのだ。

 悔やむのではなく、ただ友の死を悲しみ、その不在を受け入れること。それが、残された者の務めなのだ。


 弔辞が終わり、献花の時間となった。

 職員たちに続き、文世に促されて淳史も祭壇の前に立った。

 白い菊の花を手に取る。

 写真の中のゾウと目が合う。

(お疲れ様。ゆっくり休んでね)

 淳史は花を供え、静かに手を合わせた。

 瞼の裏に、在りし日の彼女の姿が浮かぶ。そして、その横に、あの屈託のない笑顔で笑う篤人の顔が重なった。

 ――またな、篤人。

 心の中で、初めてそう呟けた気がした。

 「ごめん」ではなく、「またな」。

 その言葉が出た瞬間、淳史の心の奥底にへばりついていた黒く冷たい塊が、少しだけ溶けて流れ出したような感覚があった。


 式が終わり、解散となった。

 空を見上げると、秋の高い空がどこまでも青く広がっていた。

「ありがとう、文世さん」

 淳史が礼を言うと、文世はいつもの穏やかな笑顔で頷いた。

「いい式だったね。さあ、ハナコさんも天国へ行ったことだし、僕たちも仕事に戻るとするか」

「はい」

 文世はバックヤードの奥へ、淳史は表の園路へと、それぞれの場所へ戻っていく。

 遠くからは、パンダの赤ちゃんを一目見ようとする人々の歓声が聞こえてくる。

 生と死が隣り合わせにある場所。

 淳史の足取りは、来る時よりも少しだけ軽く、そして力強くなっていた。

 明日もまた、仕事がある。

 命と向き合い、時には救い、時には見送る仕事が。

 淳史はポケットの中で拳を握りしめ、前を向いて歩き出した。



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