第28話 名乗り出る何か
羽田発、富山きときと空港行きの機内。
ボーイング737の最前列には、奇妙な緊張感を漂わせる三人組が座っていた。
窓側に、サングラスを掛けた真千子。通路側に、医師のノゾミ。
そしてその二人に挟まれた真ん中の席で、淳史は小さくなっていた。
今回の任務は、急遽決まった富山での抽選枠タッチだ。
現地での細かいスケジュール調整が必要なため、担当のノゾミが同行することになった。淳史も表向きは「調整部のアルバイト」として同行しているが、実態は施術者本人である。
現地に到着すれば、ノゾミの前から姿を消し、覆面でタッチを行い、また何食わぬ顔で合流する手はずだ。
「……いい天気ですね、ノゾミさん」
「ええ、立山連峰が綺麗に見えそうですね」
淳史は勇気を出して話しかけたが、会話はそこで途切れた。
隣に座る憧れの女性との空の旅。本来なら心が躍るシチュエーションだが、逆隣にいる「姉兼理事長」の存在感が凄まじい。真千子は腕を組み、微動だにせず前を見据えている。まるで護送中の犯人のような気分だ。
淳史がため息をつこうとした、その時だった。
『お客様の中にお医者様、または医療従事者の方はいらっしゃいませんか! 急患のお客様がいらっしゃいます!』
悲痛なアナウンスが機内に響き渡った。
瞬間、淳史の右隣で風が動いた。
ノゾミだ。
彼女は周りの様子を伺うことも、ためらうこともなく、スッと右手を挙げた。
「はい! 医師です!」
シートベルトを外し、CAに向かって力強く名乗り出る。その横顔には、普段の可愛らしい笑顔とは違う、プロフェッショナルの鋭い光が宿っていた。
ノゾミが席を立つ。
淳史も反射的に腰を浮かせた。自分も行かなければ。もし重篤な状態なら、こっそりタッチをして……。
ガシッ。
左腕を、万力のような力で掴まれた。
「……待ちなさい」
真千子だ。サングラスの奥の瞳が、鋭く淳史を射抜いている。
「あんた、まさか衆人環視の中で奇跡を起こすつもりじゃないでしょうね?」
「で、でも、人が死にそうかもしれない」
「だからこそ慎重になりなさい。正体がバレれば、富山の患者どころか、世界中の患者を救えなくなるわよ」
姉の指摘はもっともだった。だが、目の前で人が苦しんでいるのを知りながら、座席に縛り付けられているのは拷問に等しい。
「……分かってるよ! タッチはしない。ただの手伝いとして行くだけだ!」
淳史は姉の手を強引に振りほどき、ノゾミの後を追った。
患部は、機体後方の座席だった。
人だかりの中心で、七歳くらいの男の子――直樹が、頭を押さえて泣き叫んでいた。
「痛い! 痛いよぉぉ!」
半狂乱で暴れる直樹を、母親が必死に抱きとめているが、どうにもならない。
「ボク、どこが痛いの? お姉さんに教えて」
ノゾミが膝をついて視線を合わせようとするが、直樹はパニック状態で会話が成立しない。
その時、淳史は気づいた。
「ノゾミさん、耳! 耳から血が!」
直樹の右耳から、一筋の鮮血が流れていた。
ノゾミの表情が引き締まる。機内に備え付けられていたドクターズキットを素早く開き、聴診器とペンライトを取り出す。
「……気圧の変化ね。上昇時の急激な減圧で、鼓膜が耐えきれなかったんだわ」
診断は、外傷性鼓膜穿孔。
いわゆる「航空性中耳炎」の重度なものだ。
ノゾミは手際よくガーゼを取り出すと、母親に優しく、しかしはっきりと告げた。
「お母さん、落ち着いてください。鼓膜が少し傷ついていますが、命に別状はありません。地上に降りれば痛みは引きますし、鼓膜も数日で自然に塞がります」
その冷静な声色は、パニックになっていた母親の心に劇的な鎮静効果をもたらした。
「ほ、本当ですか……?」
「ええ、大丈夫です。私が着陸までついていますから」
ノゾミは直樹の耳に止血処置を施し、鎮痛剤を飲ませ、背中をさすり続けた。
やがて機体が安定高度に入ると、直樹の泣き声は収まり、疲れ果てて母親の腕の中で眠りについた。
「……ふぅ。もう大丈夫ね」
ノゾミが額の汗を拭い、立ち上がった。
その瞬間。
パチ、パチ、パチ……。
まばらな拍手が起こり、それは瞬く間に機内全体を包む大喝采となった。
「ありがとう、先生!」
「よかったなぁ、坊主!」
乗客たちの温かい視線と賞賛の声が、ノゾミに降り注ぐ。
ノゾミは顔を真っ赤にして、「い、いえ、当然のことをしたまでです」と照れくさそうに頭を下げた。
その姿を見て、淳史の胸は高鳴った。
かっこいい。
魔法のような力を持つ自分とは違う。彼女は、積み重ねた知識と技術、そして勇気で、公然と人を救い、みんなに感謝されている。
それは、日陰の存在である淳史にとって、眩しすぎるほどの光だった。
一時間のフライト。
その短い時間は、淳史のノゾミへの淡い恋心を、確かな尊敬と憧れへと加速させるのに十分すぎた。
富山到着後、任務は滞りなく遂行された。
ノゾミが病院側と完璧な調整を行い、淳史は「雲上さん」として裏口から侵入し、一瞬で患者を治して姿を消した。
いつもの、誰にも知られない仕事だ。
帰路。北陸新幹線「かがやき」の車内。
三列シートの並びは、窓側にノゾミ、真ん中に真千子、通路側に淳史となっていた。
車窓の外は漆黒の闇。
真千子は、富山駅で買い込んだ名産「ますのすし」の包みを開き、ワンカップの地酒「立山」をあおっていた。
「んー! 仕事の後の酒は染みるわねぇ」
上機嫌な理事長を横目に、ノゾミは窓ガラスに映る自分を見つめ、ふと独り言のように呟いた。
「……もったいないなぁ」
「何が?」
淳史が尋ねると、ノゾミは少し寂しげに笑った。
「雲上さんよ。今日も素晴らしい奇跡を起こしたのに、誰にも顔を見せずに帰っちゃうなんて。今日の私みたいに名乗り出て、みんなから称賛を浴びたらいいのに」
それは、淳史の胸の奥にある小さな棘に触れる言葉だった。
そうだ。俺だって、本当は褒められたい。感謝されたい。
直樹くんを助けた時のノゾミさんのように、堂々と胸を張って。
淳史が言葉に詰まっていると、真千子が笹の葉についた米粒をつまみながら、静かに口を開いた。
「……それはできない相談ね」
酔っているはずなのに、その声には芯が通っていた。
「もちろん、誘拐や襲撃のリスクを避けるためっていうのが一番の理由よ。でもね、それだけじゃないの」
真千子は日本酒を一口含み、一呼吸置いてから続けた。
「あの力は、彼が努力して手に入れたものじゃない。ある日突然、空から降ってきたような偶然の産物よ。だからこそ、危ういの」
「危うい、ですか?」
ノゾミが首を傾げる。
「ええ。中身が伴わないまま『英雄』として崇められれば、人間は簡単に増長し、堕落する。……彼には時間が必要なのよ」
真千子の視線が、チラリと淳史に向けられた気がした。
「ただ力があるから治すんじゃない。自分の意志で、自分の足で立って、運命を背負う覚悟が決まるまでは……。闇雲に光を浴びるのは、彼自身を焼き尽くすことになりかねないわ」
強い意志と、覚悟。
淳史は自分の掌をじっと見つめた。
今日の機内で、自分はただオロオロしていただけだった。ノゾミのように、迷わず手を挙げる勇気があっただろうか。
もし、自分の力が「魔法」ではなく、努力の末の「技術」だったとしても、同じように人を救おうとしただろうか。
――雲上さんも、称賛を浴びたらいいのに。
ノゾミの言葉は嬉しい。だが、今の自分には、その称賛を受け止めるだけの「器」がまだないのかもしれない。
トンネルに入り、ゴーッという轟音が車内を包む。
窓ガラスには、真剣な顔で自分の手を見つめる淳史の顔が映っていた。
いつか、胸を張ってノゾミの隣に立てるように。
ただの「便利な道具」ではなく、一人の「人間」として人を救えるように。
淳史は強く拳を握りしめ、心地よい揺れに身を委ねた。




