第26話 久々の労働と恋心
財団設立から三年。
イカロスは順調に飛行を続け、世界中にその奇跡の名を轟かせていた。
だが、その中心にいる「神の手」を持つ男、淳史の日常は、皮肉なほどに無味乾燥としていた。
ある日の午後。理事長室のソファで、淳史は読み飽きた文庫本を閉じ、真千子に向かってぽつりと呟いた。
「姉ちゃん。俺、働きたい」
書類に目を通していた真千子が、驚いて顔を上げた。
「働くって……あんた、今の仕事で十分働いてるじゃない」
「そうじゃなくて。普通の仕事だよ。毎日誰かを治して感謝されるのは嬉しいけど、それ以外の時間は部屋に籠もるか、変装して散歩するだけだろ。……もう一度、社会と繋がりたいんだ」
真千子は弟の切実な瞳を見て、ペンを置いた。
かつて引きこもりだった弟が、自ら外の世界に出たいと言い出した。その成長は姉として手放しで喜びたい。だが、彼は世界中のVIPやマスコミが血眼になって探している「現代の聖人」だ。コンビニやファミレスでアルバイトをさせるわけにはいかない。
真千子は腕を組み、数分間考え込んだ後、指を鳴らした。
「分かったわ。灯台下暗し、ね」
数日後。淳史は新しいスーツに袖を通し、財団本部の四階にあるオフィスに立っていた。
配属先は「調整部」。
タッチが決まった患者の病状や家庭環境を考慮し、施術日時や場所の選定、交通手段の手配などを行う、いわば財団の旅行代理店のような部署だ。
真千子が用意した設定は完璧だった。
『理事長の遠い親戚で、社会勉強のために午前中だけバイトに来た青年』。
これなら、多少の特別扱いも怪しまれないし、顔バレのリスクも最小限で済む。
「今日からお世話になります、淳史です」
緊張気味に挨拶する淳史を迎えたのは、雑然としたデスクの山と、電話対応に追われる職員たちの熱気だった。
その中で、一人の女性が立ち上がり、花が咲くような笑顔を向けた。
「初めまして! 私、医療担当のノゾミです。一緒に頑張りましょうね!」
ノゾミ。同年代の女性医師だ。
白衣ではなくオフィスカジュアルに身を包んでいるが、その知的な瞳と、親しみやすい笑顔に、淳史の心臓がトクンと跳ねた。
彼女は、医学的な見地から移動スケジュールに無理がないかをチェックするために、この部署に出向してきているのだという。
可愛い。
淳史は久々に、「タッチ」とは関係ない部分で胸が熱くなるのを感じた。
淳史の初仕事は、ノゾミの補佐だった。
デスクを並べ、膨大なリストと格闘する。
調整部長と呼ばれる恰幅のいい中年男性が、書類の束を淳史のデスクに置いた。
「よし、新人くん。まずはこの案件の移動ルートを作ってみてくれ。ノゾミ先生と相談しながらな」
「はい、やってみます」
「あ、それとな」
部長は声を潜め、天井を指差した。
「患者さんの手配は君たちの仕事だが、施術者……いわゆる『雲上さん』の動線確保は、セキュリティ担当が別枠でやる。君たちは、雲上さんに現場入りしてほしい時間と場所だけを指定してくれればいい」
淳史はきょとんとして聞き返した。
「うんじょう、さん……?」
「ああ。タッチをする謎の施術者だよ。我々一般職員にすら顔を見せない、まさに雲の上の存在だから『雲上さん』だ。ま、社内用語みたいなもんだな」
部長はガハハと笑って自分の席に戻っていった。
淳史は引きつった笑みを浮かべた。
雲上さん。俺、そんなあだ名で呼ばれてたのか。
隣でノゾミがくすりと笑った。
「面白い呼び方ですよね。でも実際、あの奇跡を行う方はどんな人なんでしょう。私、医師として一度お会いしてみたいんですけど、徹底的にガードされてて」
「あ、あはは……きっと、普通の人ですよ」
「まさか。仙人みたいなお爺ちゃんか、あるいは宇宙人かもしれませんよ?」
ノゾミは悪戯っぽく瞳を輝かせた。
淳史は、目の前にその宇宙人が座っていますよ、とは口が裂けても言えなかった。
今回担当する患者は、拓馬、四五歳。
全盲のあん摩マッサージ指圧師だ。
資料によると、彼は二三年前、交通事故で視力を失った。当時、妻のお腹には新しい命が宿っていたが、彼がその子の顔を見ることはなかった。
光を失ってからの二三年間、彼は指先の感覚だけを頼りに働き続け、家族を支えてきた。
見ることのできなかった娘はすくすくと育ち、結婚し、つい先日、彼にとって初孫となる女の子が生まれたばかりだという。
書類に目を通していたノゾミが、ふと手を止めた。
「ねえ、淳史くん。ちょっと提案があるんだけど」
「何ですか?」
「この拓馬さん、視力が戻った瞬間に、何を見たいと思う?」
淳史は少し考えた。
「やっぱり、自分の顔とか、景色とか……?」
「ううん、きっと家族よ」
ノゾミは熱っぽい口調で語り始めた。
「一度も見たことのない娘さんと、生まれたばかりのお孫さん。そして、二三年間支え続けてくれた奥様。……だからね、タッチの直後、拓馬さんが目を開けたその瞬間に、目の前に家族三人が並んでいるような配置にしたいの」
素敵なアイデアだった。
医学的な回復だけでなく、心のケアまで考えるノゾミらしい発想だ。
「いいですね、それ! 感動的だ」
「でしょ? じゃあ、ホテルの部屋のレイアウト図を描いてみるわね」
ノゾミは嬉々としてペンを走らせる。
淳史も身を乗り出して図面を覗き込んだが、ふと重大な問題に気づいた。
「……あれ? ノゾミさん、これだと雲上さんはどこに?」
ノゾミが描いた図では、患者の目の前に家族が並び、その周囲をスタッフが囲んでいる。施術者の居場所がない。
「あ、そうね。雲上さんは顔を見られちゃいけないんだったわ」
ノゾミはペン先で顎をつつき、部屋の隅にあるカーテンを丸で囲んだ。
「じゃあ、施術はカーテンの陰から、手だけを出してやってもらいましょう。終わったらサッと隠れてもらうの。そうすれば、拓馬さんが目を開けた時の視界を邪魔しないし、雲上さんの正体もバレないわ」
名案だ。……調整部員としては。
だが、施術者本人である淳史としては、複雑な気分だった。
(それじゃあ、俺……一番いいシーンが見られないじゃないか)
自分が奇跡を起こし、家族が抱き合って喜ぶ瞬間。それがこの仕事の最大の報酬なのに、自分だけカーテンの裏で蚊帳の外だ。
「どう? これで行けるかな?」
ノゾミが上目遣いで同意を求めてくる。
その可愛さに、淳史の不満は霧散した。
「……はい。完璧だと思います。雲上さんも、きっと協力してくれますよ」
「よかった! じゃあ部長に決裁もらってくる!」
ノゾミの弾むような背中を見送りながら、淳史は苦笑いした。
まあいいか。彼女が喜んでくれるなら、黒子に徹するのも悪くない。
数日後の午後。
都内の高級ホテルの一室。
淳史は黒いパーカーを目深に被り、サングラスとマスクで完全に顔を隠して、業務用エレベーターから裏口へと入った。
ここからは「アルバイトの淳史」ではなく、「雲上さん」としての時間だ。
部屋に入ると、既に準備は整っていた。
ベッドには拓馬が緊張した面持ちで座り、その正面には、祈るように手を組む妻と、赤ちゃんを抱いた娘が並んでいる。
部屋の隅には、立会人として真千子と、白衣を着たノゾミの姿もあった。ノゾミは緊張と期待で頬を紅潮させている。
淳史は無言で会釈をし、指定されたカーテンの裏へと滑り込んだ。
隙間から、拓馬の背中が見える。
淳史は深呼吸をし、カーテンの隙間からそっと手を伸ばした。
拓馬の肩に触れる。
――タッチ。
指先から黄金色の熱が流れ込み、萎縮していた視神経を駆け巡る。閉ざされていた回路が繋がり、光を受け取る準備が整う。
淳史は仕事を終えると、すぐに手を引っ込め、カーテンの奥深くへと身を潜めた。
「……拓馬さん、終わりましたよ。ゆっくり目を開けてください」
ノゾミの優しい声が響く。
部屋の空気が張り詰める。
拓馬が、恐る恐る瞼を持ち上げた。
最初は眩しそうに瞬きを繰り返し、やがて焦点が定まっていく。
彼の視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む柔らかな光と、その光の中に立つ、愛する人々の姿だった。
二三年前よりも歳を重ね、皺が増えた妻。
声しか知らなかった、自分と同じ顔をした娘。
そして、その腕の中で眠る、小さな新しい命。
拓馬の目から、大粒の涙が溢れ出した。
彼は震える手で妻の頬に触れ、それから娘の顔を確かめるように見つめた。
「……そっくりだ」
拓馬の声が震えた。
「母さんと、お前と、赤ちゃん……そっくりだな」
それは、失われた二三年間が一瞬で繋がり、埋まった瞬間だった。
妻も娘も泣き崩れ、拓馬に抱きついた。赤ん坊が驚いて泣き出し、それがまた幸せな不協和音となって部屋を包み込む。
カーテンの裏で、淳史は壁に背中を預け、その声を聞いていた。
姿は見えない。
だが、咽び泣く声と、「ありがとう」という言葉の響きだけで、部屋の中に満ちている幸福な色が、鮮やかに脳裏に浮かんだ。
(……悪くないな)
淳史はマスクの下で、静かに微笑んだ。
表舞台に出なくても、誰かの幸せを演出できたなら、それは立派な仕事だ。
翌日。
調整部のオフィスで、ノゾミは朝から興奮気味だった。
「凄かったのよ、淳史くん! 拓馬さんが目を開けた瞬間、本当に映画のワンシーンみたいで……!」
彼女は身振り手振りで、昨日の感動を伝えてくれた。
「奥さんが泣いて、娘さんも泣いて、赤ちゃんも泣いて。私までボロボロ泣いちゃって。……あんな素敵な瞬間に立ち会えるなんて、本当にこの仕事をしてよかった」
ノゾミの目は潤んでいた。
その純粋な涙を見て、淳史は昨日カーテンの裏で感じた以上の充足感を覚えた。
自分のしたことが、患者だけでなく、この素敵な同僚の心も満たしたのだ。
「……本当ですね。頑張って計画した甲斐がありました」
「うん! あ、そうだ。これ、部長から差し入れ。大成功のお祝いだって」
ノゾミが差し出したのは、コンビニの高級プリンだった。
「一緒に食べよ?」
「はい、いただきます」
二人でプラスチックスプーンを使ってプリンを食べる。
甘いカスタードの味が、疲れた脳に染み渡る。
雲の上の孤独な聖人であるよりも、こうして地上で誰かと喜びを分かち合い、プリンを食べる時間の方が、今の淳史には何倍も尊く感じられた。
部長が通りがかりに声をかけた。
「お、仲良くやってるな。次は来週の地方案件だ。雲上さんのホテル、また頼むぞ」
「はい、任せてください」
淳史は元気よく返事をした。
雲上さん。
その響きが、前ほど嫌ではなくなっていた。
なぜなら、その雲を地上から支えているのは、他ならぬ自分自身なのだから。
淳史はノゾミの笑顔を見つめながら、この「内緒のアルバイト」をもう少し続けてみようと心に決めた。




