第25話 設立5年前のふたりの事情
財団が設立される五年前。
まだ「イカロス」という翼が存在せず、真千子がただの熱血高校教師だった頃の話だ。
始まりは、一軒の小料理屋だった。
「へえ、真千子もモツ煮込みが好きなの? 奇遇ね、こっちの彼もうるさいわよ」
同僚の養護教諭、鈴子がセットした食事会。そこで真千子は隆史と出会った。
当時の隆史は警視庁の特殊急襲部隊(SAT)に所属する精鋭。鍛え上げられた体躯と、職務中の鋭さとは裏腹な、食事の時の屈託のない笑顔。
真千子もまた、食べ歩きをこよなく愛していた。
二人は意気投合した。
美味しい店を見つけては足を運び、舌鼓を打ち、笑い合う。食の好みが合うということは、人生の楽しみを共有できるということだ。
付き合って半年。スピード結婚だった。
誰もが羨むお似合いの夫婦。鈴子は「私がキューピッドなんだから、幸せにならなきゃ承知しないわよ」と笑って祝福してくれた。
だが、蜜月は長くは続かなかった。
皮肉にも、二人とも「仕事」に対して誠実すぎたのだ。
結婚二年目。
真千子は剣道部の顧問を任されていた。
平日は放課後遅くまで稽古。土日は遠征や練習試合。
「メーン!」「コテ!」
道場に響く竹刀の音と、汗の匂い。生徒たちの未熟だが懸命な姿を見ていると、疲れも吹き飛んだ。彼らが強くなり、人間として成長していく過程を支えることに、真千子は無上の喜びを感じていた。
一方、隆史の環境も激変していた。
SATから、刑事部捜査一課への異動。
凶悪犯罪の最前線。不規則な呼び出し、何日も続く張り込み、凄惨な現場の記憶。
彼が家に帰るのは深夜か明け方。真千子が起きる頃には、彼は泥のように眠っているか、もう出勤した後だった。
食卓から、会話が消えた。
共通の趣味だった食べ歩きなど、夢のまた夢となった。
ある雨の夜。
珍しく二人が揃って夕食をとれることになった。
だが、食卓に並んだ惣菜は冷めかけ、空気は湿っていた。
「……真千子」
隆史が箸を置いて切り出した。その顔には、隠しきれない疲労の色が滲んでいた。
「仕事を、辞めてくれないか」
真千子の手が止まった。
「……どういうこと?」
「すれ違いばかりの生活を直したいんだ。俺の仕事は、いつ死ぬか分からないし、精神的にもきつい。家に帰ったら、明かりがついていてほしい。君には家庭に入って、俺を支えてほしいんだ」
それは、夫としての素直な願望であり、妻への愛情ゆえの提案だった。激務の彼にとって、家庭は唯一の安息の地であってほしかったのだ。
だが、真千子にはそれが「籠」に見えた。
「……無理よ」
真千子は静かに、しかしきっぱりと答えた。
「私、教師の仕事が好きなの。生徒たちが悩んで、ぶつかって、大人になっていく。その瞬間に立ち会えることが、今の私にとって一番の生きがいなの」
「俺たちのためでも、無理か?」
「ごめんなさい。誰かのサポート役だけで人生を終わらせたくない。私は、私の足で立っていたいの」
隆史はしばらく沈黙し、それから力なく笑った。
「そうか……。そうだと思ったよ」
彼は知っていたのだ。真千子が芯の強い女性であり、自分の意志を曲げないことを。そして、そんな彼女に惹かれたのだということを。
離婚届を提出する朝、空は皮肉なほど晴れ渡っていた。
荷物をまとめた隆史が、玄関で靴を履く。
いがみ合って別れるわけではない。嫌いになったわけでもない。
ただ、二人の生きる速度と方向が、どうしても噛み合わなかっただけだ。
真千子は努めて明るく見送ろうとした。
「体、気をつけてね。捜査一課は激務なんでしょう?」
「ああ。君こそ、あまり無理をするなよ。生徒のことになると周りが見えなくなる癖があるからな」
隆史はドアノブに手をかけ、ふと立ち止まった。
そして振り返り、真千子を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しは、夫のものではなく、かつてSATで数々の修羅場をくぐり抜けてきた、一人の男としてのものだった。
「真千子」
「なに?」
「君は強い女性だ。一人でも生きていける強さがある。……でも、強さは時に脆さになる」
隆史は真剣な声で告げた。
「もし、本当に困ったときは呼んでほしい。どうしようもない壁にぶつかったり、誰にも言えない悩みを抱えたりしたときは。……必ず、僕が力になる」
それは、夫婦としての契約は終わっても、人間としての絆は断たないという誓いだった。
真千子は胸の奥が熱くなるのを感じながら、小さく頷いた。
「……ええ。覚えておくわ」
「じゃあ、元気で」
隆史は背を向け、一度も振り返ることなく歩き出した。
その広い背中が小さくなっていくのを、真千子はずっと見送っていた。
静まり返った部屋に戻ると、そこは以前よりも広く感じられた。
自由と引き換えの孤独。
だが、真千子は後悔しなかった。
私は私の道を行く。
彼女は鏡の前で姿勢を正し、いつものジャージのファスナーを上げた。
「さあ、部活に行かなきゃ」
この数年後。
弟・淳史の能力が覚醒し、さらにその力を利用しようとした友人・鈴子の裏切りによって、真千子は窮地に立たされることになる。
「奇跡」という巨大な渦に巻き込まれ、マスコミや権力、そして有象無象の悪意に晒された時。
彼女の脳裏に蘇ったのは、あの朝の約束だった。
――必ず、僕が力になる。
その約束が果たされるのは、イカロス財団設立の直前。
伝説の元刑事として名を馳せた隆史が、全てを捨てて真千子の前に現れ、最強の「盾」として彼女の組織に加わるのは、もう少し先の話である。




