第24話 設立7年前の将来
それは、財団が設立される七年前のこと。
世界がまだ、淳史にとってありふれた日常の続きでしかなかった頃の話だ。
高校二年生の秋。放課後の気だるげな西日が、坂道の続く住宅街を茜色に染めていた。
淳史(17)は、自転車のペダルを立ち漕ぎしながら、背中の通学カバンの中でガサゴソと鳴る紙袋の音を気にしていた。
中に入っているのは、参考書ではない。
姉・真千子の結婚式の引出物だ。
先日、盛大に行われた式で余ったものを、「あんた、これ篤人くんにあげてきなさいよ。処分に困るから」と強引に渡されたのだ。
だが、その中身が問題だった。
淳史は溜息交じりに坂を登りきると、目の前に現れた立派な石造りの鳥居を見上げた。
『井之花八幡宮』。
幼馴染であり、親友である篤人の実家だ。
淳史は自転車を停め、長く続く石段を一段飛ばしで駆け上がった。部活帰りの足には堪えるが、ここへ来るのは日課のようなものだ。
境内に辿り着き、社殿の脇にある宮司の自宅兼社務所の前に立つ。
引き戸の前に立ち、淳史は腹の底から声を張り上げた。
「あーつーとーー!!」
境内の静寂を切り裂くような大声。木の上からカラスが驚いて飛び立つ。
数秒後、ドタドタという足音と共に、玄関が勢いよく開いた。
ジャージ姿の篤人が、呆れた顔で立っていた。
「お前なぁ……。参拝客がビビるだろ。インターホンを押せって何度言えば分かるんだよ」
「インターホンより俺の声の方が早えだろ」
淳史は悪びれもせずに靴を脱ぎ捨てて上がり込むと、カバンを掲げてニヤリと笑った。
「今日はな、すげえ面白い食べ物をゲットしたから持ってきたんだ」
「面白い食べ物? 『美味しい』じゃなくて?」
「開けてからのお楽しみだ」
篤人の部屋は、二階の角部屋だった。
六畳一間の和室。使い古された畳の匂いと、男子高校生特有の制汗スプレーの匂いが混じり合う、淳史にとって最も落ち着く場所だ。
二人は座布団に胡座をかいて向かい合った。
「で、なんだよこれ」
篤人が桐箱を開ける。
中から現れたのは、黄金色に輝く一本のカステラだった。老舗和菓子店の高級品だ。甘い香りが部屋に広がる。
だが、篤人の目が点になったのは、その表面を見た瞬間だった。
「……おい、これ」
カステラの表面には、特殊な食用インクで、ウェディングドレス姿の真千子と、その夫となる新郎の満面の笑みのツーショット写真が、高解像度でプリントされていたのだ。
『Happy Wedding & Forever Love』という浮かれた文字と共に。
「すげえだろ。姉ちゃんの自己顕示欲が砂糖菓子になった瞬間だ」
「食いづらいわ! こんなもん、どこから包丁入れりゃいいんだよ!」
篤人が爆笑する。
「新郎の額あたりからいくか?」
「いや、ここは真千子さんの眉間からいこう。魔除けになりそうだ」
二人はゲラゲラと笑いながら、恐れ多くも姉の顔面をプラスチックナイフで切断し、口へと運んだ。
味は一級品だったが、口の中で溶けていく姉の笑顔に、なんとも言えない背徳感を感じながら。
一通り笑い転げた後、二人は真面目にテスト勉強を始めた。
中間テストが迫っていた。赤点を取れば補習地獄が待っている。
シャーペンの走る音だけが響く静寂。
その時、淳史の腹の底で、不穏なガスが産声を上げた。カステラに含まれる大量の卵と牛乳が、胃の中で化学反応を起こしたらしい。
(……やべ、出る)
我慢の限界だった。
淳史はとっさに身を屈めると、畳に爪を立てた。
――バリバリバリバリッ!
猛烈な勢いで畳を掻きむしる音。
その轟音に紛れて、淳史は尻の穴を開放した。
プスッ。
よし、消えた。音は完全にカモフラージュされた。完全犯罪成立だ。
淳史が何食わぬ顔で参考書に戻ろうとすると、篤人が怪訝な顔でこちらを見ていた。
「……お前、急に発狂してどうした? 猫か?」
「いや、ちょっと畳の目が気になってな。整えてたんだ」
「整うかよ、ささくれてるじゃねえか」
篤人が苦笑した、その直後だった。
時間差でやってきた濃厚な硫黄の臭気が、篤人の鼻腔を直撃した。
「……くっさ!!」
篤人が鼻をつまんでのけぞる。
「お前、屁こいたな!? さっきのバリバリはこれか!」
「音は消えたろ? 忍術『畳返しの術』だ」
「匂いは消えてねえよ! 窓開けろ、毒ガス攻撃だ!」
二人は腹を抱えて笑い転げた。
箸が転げてもおかしい年頃。オナラ一つで呼吸困難になるほど笑える、平和で無敵な時間がそこにあった。
小学校からの付き合い。
周囲からは「アツアツカップル」と冷やかされるほど、二人は常に一緒だった。言葉にしなくても通じ合う呼吸。互いの欠点も笑い飛ばせる関係。
この時間が永遠に続くと、疑いもしなかった。
窓を開けて空気を入れ替え、再び机に向かった頃、日が傾き始めていた。
篤人がふと、シャーペンを置いて天井を見上げた。
「なあ、淳史」
「ん?」
「お前、進路どうするよ」
唐突な問いに、淳史は手を止めた。
「どうって……まあ、適当な大学行って、適当に就職すんじゃねえの。お前は?」
「俺は……いずれここを継ぐんだろうな」
篤人は窓の外に見える社殿に視線をやった。
代々続く神職の家系。長男である彼に、選択の余地は少ない。
「でもさ。その前に、別の世界も見ておきてえんだよな」
「別の世界?」
「ああ。神様にお仕えする前に、もっと泥臭い、人間の世界をさ」
篤人は机の引き出しから、一冊のパンフレットを取り出した。
表紙には、オリーブドラブ色の制服を着た男たちが、泥まみれになりながら瓦礫を撤去している写真が載っていた。
『自衛官募集案内』。
淳史は目を丸くした。
「自衛隊? お前がか?」
「こないだの大震災、テレビで見てただろ」
篤人の表情から、ふざけた色が消えていた。
「道路が寸断されて、誰も行けないような孤立した村に、あの人たちリュック背負って歩いて入っていったじゃん。お爺ちゃんやお婆ちゃんをおぶって、泥道を何キロも歩いて」
「……ああ、見たよ」
「かっこよかったんだよな。理屈抜きでさ。俺も、ああいう風に誰かの役に立ちたいっていうか……困ってる人を、この手で直接助ける仕事がしたいんだ」
篤人の瞳には、真っ直ぐな熱が宿っていた。
それは、神職という「祈り」の道に進む前に、肉体を使って「行動」したいという、若者らしい渇望だった。
「でもよ、自衛隊ってことは……戦争に行くかもしれねえんだぞ?」
淳史が茶化すように言うと、篤人は真顔で首を振った。
「俺は戦争は嫌いだ。人殺しなんざ絶対にしたくない」
「だよな。日本で戦争なんて起きっこないけどさ」
淳史は食べかけのカステラを指差した。
「もし戦争になりそうになったら、このカステラを持ってきゃいいんだよ。菓子折り外交だ。相手の将軍に『まあまあ、これでも食って落ち着いてください』ってな。甘いもん食えば、誰だって笑顔になる」
「ははっ、そりゃいいな。菓子折り部隊・小隊長、淳史」
篤人は笑ったが、その目はパンフレットの文字を真剣に追っていた。
その横顔を見て、淳史の胸に小さなさざ波が立った。
置いていかれる。
幼い頃からずっと一緒だった篤人が、自分よりも遥か先を見据え、大人になろうとしている。
自分には何もない。
将来の夢も、熱中できるものも。ただ何となく生きて、何となく死んでいくのだろうと思っていた。
でも、篤人と一緒なら。
こいつが目指す場所なら、そこにはきっと、俺の知らない「熱い何か」があるのかもしれない。
「……おい、それちょっと見せろよ」
淳史は篤人の手からパンフレットを引ったくった。
「なんだよ、お前は菓子折り部隊だろ?」
「うるせえな。……災害派遣か。悪くねえな」
ページをめくる。
厳しい訓練、規律ある生活、そして人命救助という崇高な使命。
文字を追うごとに、淳史の中で何かがカチリと音を立てて噛み合った。
「篤人」
「ん?」
「俺も受けるわ、これ」
軽い口調だったが、淳史は本気だった。
篤人は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに嬉しそうにニッと笑った。
「マジかよ。お前、体力ねえから訓練で泣くぞ?」
「バカ言え。お前こそ泣きべそかいて『ママ~』って叫ぶなよ」
「言うねえ。じゃあ賭けるか? どっちが先に音を上げるか」
「乗った。負けた方が、真千子姉ちゃんのプリントカステラを一気食いな」
「うわ、重い罰ゲームだな!」
秋の夕暮れ。
神社の二階で交わされた、他愛のない約束。
それが、二人の運命を決定づけることになるとは、まだ知る由もなかった。
あの時、もし別の選択をしていれば。
もし、篤人が自衛隊に興味を持たなければ。
あるいは、淳史がカステラを持ってこなければ。
未来は変わっていたのかもしれない。
篤人は今も生きていて、この神社の神主として、穏やかな日々を送っていたかもしれない。
そして淳史もまた、「神の手」などという忌まわしくも偉大な力を覚醒させることなく、平凡なサラリーマンとして生きていたかもしれない。
だが、サイコロは投げられた。
二人は笑い合いながら、未来への切符を手にした。
その切符の行き先が、一人は「死」という名の終着駅であり、もう一人は「孤独な救世主」という名の茨の道であることを、神様だけが静かに見下ろしていた。
カステラの甘い香りが、部屋に残っていた。
それは、二度と戻らない青春の、最後の甘い記憶だった。




