第23話 限ってハニー
その日、真千子が握るハンドルの先には、道と呼べるか怪しい砂利道が続いていた。
カーナビの画面は、とうの昔に道を失い、ただ緑色の何もない空間を矢印が漂っているだけだ。頼りになるのは、助手席の淳史が持つ一枚の衛星写真のプリントアウトと、麓の村で聞いた「大きな一本杉を右」というアバウトな証言だけだった。
「ねえ、淳史。本当にこっちで合ってるの? もう三〇分も対向車とすれ違ってないわよ」
「地図だと、この辺りなんだけど……あ、姉ちゃん、見て! あそこ!」
淳史が指差した先、鬱蒼とした杉林のトンネルを抜けた瞬間、視界が劇的に開けた。
真千子は思わずブレーキを踏んだ。
そこには、息を呑むような光景が広がっていた。
青空を背負う雄大な山並みを背景に、まるで時代劇のセットか、あるいは高級旅館かと見紛うような、立派な日本家屋が鎮座していたのだ。
太い丸太の柱、反り立つ瓦屋根。壁という壁にふんだんに使われた無垢材が、太陽の光を浴びて黄金色に輝いている。
山奥の「ポツンと一軒家」と呼ぶにはあまりに豪華すぎる、まさに「木の御殿」だった。
「……すごいわね。当選者の家って、ここ?」
「うん。表札も間違えない」
車を停めると、縁側から一人の青年が姿を現した。
日に焼けた肌に、筋肉質の体躯。まだ二〇代後半と思われる若さだが、その瞳には深い森のような静けさが宿っていた。
今回のタッチ当選者、貴之、二八歳だ。
「よくぞ、こんな山奥まで。お待ちしておりました」
「いいえ、素晴らしい景色と空気で、ドライブを楽しませていただきました」
真千子が社交辞令を言いながら挨拶を交わすと、家の中へと案内された。
玄関を一歩入ると、濃厚な木の香りに包まれた。ヒノキ、スギ、ケヤキ。まるで森そのものが呼吸しているような清々しさだ。
通された居間の天井には、大人二人がかりでも抱えきれないほどの巨木の梁が走っていた。
「すごいお宅ですね。これほどの木材、今どきなかなか手に入りませんよ」
「ええ。亡くなった親父が建てたんです。うちは代々林業をやってましてね。親父が自分の山から選りすぐりの木を切り出して、長い年月をかけて作った、いわば親父の集大成なんです」
貴之は誇らしげに、しかしどこか寂しげに天井を見上げた。
その時、台所の方からパタパタと足音がして、若く愛らしい女性が小走りでやってきた。貴之の妻だ。エプロン姿が似合う彼女は、満面の笑みでお盆を持っていた。
「ようこそお越しくださいました! 遠いところすみません、今すぐお茶を……あれ?」
急須にお湯を注ごうとした妻の手が止まった。
茶筒の蓋を開け、中を覗き込み、それから逆さまにして振ってみる。パラパラと粉のような茶葉が数枚落ちるだけ。
彼女は顔を真っ赤にして、深々と頭を下げた。
「す、すみません! こんな時に限って、お茶葉が切れてました!」
その必死な様子に、真千子と淳史、そして貴之も思わず吹き出した。
一気に場の空気が和んだ。
「お気になさらないで。お水で十分ですから」
真千子がフォローすると、妻は「すぐに湧き水を汲んできます!」と、またパタパタと走っていった。
一息ついたところで、貴之が自身の病状について語り始めた。
彼はテーブルの上に、両手をそっと置いた。
その手は、ゴツゴツとした職人の手だったが、指先の色が異様だった。
蝋細工のように白く、血の気が引いている。
「……振動障害、という職業病です」
貴之は静かに言った。
チェーンソーや刈払機など、激しい振動を伴う機械を長時間使い続けることによって起きる障害だ。振動が末梢神経や血管を破壊し、血流障害を引き起こす。
別名、白蝋病。
一度発症すると完治は難しく、冷えや痺れ、激痛に一生悩まされることになる。
「一六の時から、親父の後を継いで山に入りました。親父が遺してくれたこの家と、山を守らなきゃいけないって必死で。若いから大丈夫だと過信して、防振手袋もしないまま、朝から晩までチェーンソーを握り続けてしまったんです」
その代償は、あまりに重かった。
まだ二〇代にして、彼の指は思うように動かなくなっていた。
箸を持つのも辛い。ボタンを留めるのも一苦労。夜になれば、指先が氷のように冷たくなり、激痛で眠れない日もあるという。
「仕事ができないのも辛いですが……何より悔しいのは」
貴之の視線が、部屋の隅にあるベビーベッドに向けられた。
そこには、先月生まれたばかりの長男が、すやすやと眠っていた。
「あいつを、満足に抱っこしてやれないんです。もし手が痺れて落としたらと思うと、怖くて。……妻は何も言わずに全部やってくれますが、おむつ交換ひとつ、してやれない自分が情けなくて」
貴之の声が震えた。
巨大な木を切り倒してきた逞しい腕が、今は我が子のおむつさえ替えられない。その無力感が、彼を蝕んでいた。
「分かりました。その手、僕が治します」
淳史が力強く言った。
貴之は驚いたように顔を上げ、それから深く頷いた。
「お願いします。……もう一度、この手で息子に触れたいんです」
淳史が立ち上がり、貴之の正面に回った。
そして、その白く冷たい両手を、自分の両手で包み込んだ。
――タッチ。
瞬間、貴之の目が見開かれた。
熱い。
まるで焚き火に手をかざした時のような、あるいは熱い風呂に浸かった時のような、強烈な熱量が指先へと流れ込んでくる。
壊死しかけていた毛細血管が再生し、潰れていた神経が繋がり、滞っていた血液が奔流となって指の末端まで駆け巡る。
「う、おお……っ!」
貴之が声を漏らす。
淳史が手を離すと、そこには劇的な変化が起きていた。
蒼白だった指先に、鮮やかな桜色が戻っていたのだ。
貴之は震える手で、グーパーを繰り返した。動く。感覚がある。温かい。
「熱い……血が、通ってるのが分かる……!」
貴之の目から涙が溢れた。彼は自分の頬を両手で包み、その温かさを確かめて泣いた。
戻ってきた妻も、その光景を見てタオルで顔を覆って泣いた。
しばらくして、貴之が立ち上がった。
目はまだ赤かったが、その表情は少年のように輝いていた。
「よし! 早速ですが、おむつを替えさせてください!」
彼はベビーベッドへ駆け寄った。
やる気満々だ。
真千子たちも、微笑ましくその様子を見守った。感動のフィナーレだ。父が、治った手で初めて我が子の世話をする。絵になる光景だ。
貴之は慎重に赤ちゃんを抱き上げ、慣れない手つきでおむつ替えシートの上に寝かせた。
新しいおむつを手に持ち、スタンバイ完了。
さあ、来い。いつでもいいぞ。
パパの手はもう大丈夫だ。綺麗に替えてやるからな。
……しかし。
一分経過。
赤ちゃんは気持ちよさそうに眠っている。
三分経過。
赤ちゃんはあくびをした。
五分経過。
貴之の額に汗が滲む。全員が固唾を飲んで、赤ちゃんの股間を見つめている。
だが、一向にその気配はない。
おしっこも、うんちも、出る様子がない。
ただただ、平和な寝息が聞こえるだけ。
「……あの、出ませんね」
貴之が困り顔で呟いた。
しらけそうになる空気。感動的なシーンのはずが、なんだか間抜けな我慢大会になってしまった。
淳史も真千子も、どう反応していいか分からず、苦笑いを浮かべるしかない。
その時だった。
妻が、赤ちゃんの顔の横に自分の顔を並べて、赤ちゃんの声真似をするように高い声でおどけて言った。
「ごめんなちゃい! こんな時に限って、出ないのよ!」
一瞬の静寂の後、御殿のような広間に爆笑が轟いた。
貴之は笑いながら、温かくなった大きな掌で、息子の頭を優しく撫でた。
おむつ交換はできなかったが、その手の温もりは、きっと赤ちゃんにも伝わっているはずだ。
窓の外には、父が愛した山々の緑が、風に揺れて優しくざわめいていた。




