第22話 光のゆくえ
その日、一人の女性が、人生で最も残酷な決断を下そうとしていた。
病室の窓からは、無情なほど美しい秋晴れの空が見えていた。
ベッドに横たわっているのは、浩司。三六歳。
元ラグビー選手の彼は、かつての精悍な肉体から筋肉が削げ落ち、静かな呼吸音だけを繰り返していた。
六年前。妻と、当時まだ二歳だった息子が観戦する試合中のことだった。強烈なタックルを受けた浩司はそのまま倒れ込み、二度と目を開けることはなかった。
診断は外傷性脳損傷による遷延性意識障害。いわゆる植物状態だった。
妻の亜由美は、来る日も来る日も病院に通った。
手を握り、話しかけ、奇跡を信じて待ち続けた。だが、浩司からの応答は一度としてなかった。
そして今年、結婚一〇年目の節目を迎えた。
「……もう、楽にしてあげてください」
亜由美は震える手で、医師に告げた。
それは諦めではなく、愛する夫を機械に繋がれた状態から解放してあげたいという、悲痛な慈愛だった。
延命措置の中止。
同意書にサインをしようとペンを握った、その時だった。亜由美のスマートフォンが鳴った。
画面には、見知らぬ番号と共に、通知メッセージが表示されていた。
『公益財団法人イカロス・タッチ抽選当選のお知らせ』
ペンが床に落ちた。
神様は、どこまで私を試すのだろう。死を決意した瞬間に、生の希望を投げかけてくるなんて。
***
しかし、希望の光は、すぐさま厚い暗雲に覆われた。
財団の審査部による事前調査の結果、衝撃の事実が判明したのだ。
「……先天性心疾患、ですか?」
カンファレンスルームで、亜由美は淳史と真千子、そして医師団の説明を呆然と聞いていた。
浩司の心臓には、生まれつき重大な欠陥があった。幼少期から激しいラグビーで身体を鍛え上げてきたことで、奇跡的に心肺機能のバランスが保たれ、成人まで発症せずにいただけだったのだ。
淳史のタッチは、後天的な損傷や病気を治すことはできるが、先天的な「仕様」を変えることはできない。
もし今、六年間の寝たきり生活で筋肉も体力も失った状態で意識を取り戻せばどうなるか。
動き出す心臓の負荷に、衰弱した肉体が耐えられない。
「計算上……もって三時間です」
医師の宣告は死神の鎌のように鋭かった。
治せば、死ぬ。
今のままなら、植物状態とはいえ心臓は動き続ける。だが、タッチを行えば、意識と引き換えに、彼は三時間後に確実に心停止を起こす。
「そんな……。やっと、やっと希望が見えたのに」
「奥様、どうされますか。このまま静かに眠らせてあげるのも、一つの愛の形かもしれません」
周囲は、タッチの辞退を暗に勧めた。
目覚めてすぐに自分の死期を知らされる浩司があまりに不憫だという意見もあった。
亜由美は悩み、泣き、そして考え抜いた。
浩司なら、どう言うだろうか。
あの熱く、激しく生きた彼なら。
「……お願いします。タッチを、してください」
亜由美は顔を上げた。その瞳には、覚悟の炎が宿っていた。
「一言も話せずに終わる十年よりも、最後にちゃんと『さよなら』を言える三時間を選びたい。彼は、そういう人です」
数日後。
浩司の病室に、淳史と真千子が訪れた。
ベッドの脇には亜由美と、八歳になった息子の翔太がいる。
淳史は静かに浩司の胸に手を置いた。
――タッチ。
光が収まると同時に、モニターの心拍数が跳ね上がった。
浩司の瞼がピクリと動き、ゆっくりと開かれた。
六年ぶりの、世界の光。
「……ん、あ……?」
「浩司!」
亜由美が覆いかぶさるように抱きついた。浩司は状況が飲み込めず、掠れた声で妻の名を呼んだ。
そして、残酷な説明が行われた。
試合中に倒れたこと。六年が経過していること。未知の力で目覚めたこと。
そして、残された命が三時間であること。
浩司は混乱し、感情の整理がつかない様子だった。当然だ。彼にとってはついさっきタックルを受けたばかりなのだ。
だが、彼は泣きじゃくる妻の頭を撫でながら、自分の置かれた状況を受け入れた。
「……そっか。俺、死ぬのか」
浩司は視線を巡らせ、ベッドの足元に立っている少年を見た。
記憶の中ではヨチヨチ歩きだった息子が、小学生になっている。
「翔太……か? でっかくなったなぁ」
浩司が手を伸ばすが、翔太はビクリと身を引いて、亜由美の後ろに隠れてしまった。
無理もない。翔太にとって父親は「病院で寝ている人」という認識しかない。記憶にない男に突然父親面をされても、どう接していいか分からないのだ。
浩司の手に、寂しげな色が滲んだ。
残された時間は少ない。この空白を埋めるには、三時間はあまりに短すぎた。
「……亜由美。二人だけにしてくれないか」
浩司の頼みで、翔太は祖父母に預けられ、淳史たちも病室を出た。
二人きりになった病室で、浩司は言った。
「翔太のために、ビデオを撮ってほしいんだ。俺、あいつに何も教えてやれなかったから」
亜由美は涙を堪えて頷き、スマートフォンのカメラを向けた。
浩司はベッドの上で姿勢を正した。呼吸が少しずつ荒くなっている。砂時計の砂は、確実に落ちている。
彼はレンズの向こうに、未来の息子を幻視した。
「翔太へ。パパだ。……驚くよな、急に」
浩司は照れくさそうに笑い、語り始めた。
「一二歳の君へ。部活動は何をしてるのかな? パパはちょうど一二歳からラグビーを始めたんだ。仲間と一緒に汗と涙を流す、最高のスポーツだよ。辛いことがあっても、お互いを支えて乗り越えることができ、楽しいことは仲間が多ければ倍々に増えるんだ。もし興味があったら、ボールに触ってみてくれ」
一二歳の翔太が、泥だらけになって走る姿を想像する。
「一六歳の君へ。高校生か。もう彼女は出来たのかな? パパはママという最高の女性と出会えて、とても幸せだった。女心は難しいけど、誠実に接するんだぞ。……それから、今後もし、ママにいい人が現れたら、応援してあげてほしい。パパのことは気にしなくていいから」
亜由美が口元を押さえて嗚咽を漏らす。浩司も目が潤んでいたが、言葉を続けた。
「二〇歳の君へ。これが最後です。成人おめでとう。一緒にお酒を飲みたかったけど……それは叶わないな。君をここまで育ててくれたママへの感謝を忘れないでくれ。立派な男になれよ。……さようなら」
浩司は深く息を吐き、カメラを持つ亜由美の目を見つめた。
「そして、愛する亜由美へ。翔太を育ててくれてありがとう。六年間、待っていてくれてありがとう。僕と出会ってくれて、本当にありがとう」
言葉が詰まる。
「先に逝ってしまってごめんね。約束した旅行も、何もしてやれなくて……。でも、俺は幸せだった。あっちの世界から、ずっと二人を見守るよ。……愛してる。さようなら」
亜由美はスマホを置き、泣き崩れて浩司の胸に顔を埋めた。
浩司は痩せ細った腕で、力強く妻を抱きしめた。
「謝らないでくれ、亜由美。逝く前に、こうして話す時間をくれて……ありがとう」
その時。
ドスン、ドスン、と地響きのような音が病室の外から聞こえてきた。
何事かと、浩司が窓の方へ視線を向ける。
「……なんだ?」
「窓、開けるね」
亜由美が窓を開け放つと、階下の駐車場に、黒い集団が整列していた。
大学時代、そして社会人時代のラグビーチームの仲間たちだった。
連絡を受けた彼らが、緊急招集をかけたのだ。
全員が喪服ではなく、チームジャージを着ている。その顔は険しく、涙で濡れている者もいたが、眼差しは真っ直ぐに三階の病室を見据えていた。
「カ・マテ! カ・マテ! カ・オラ! カ・オラ!」
腹の底から絞り出すような咆哮。
自らの体を叩き、足を踏み鳴らす轟音。
『ハカ』だ。
ニュージーランドのマオリ族に伝わる戦いの踊りであり、最高の敬意を表す儀式。
それは、死にゆく戦友への、魂の送り出しだった。
「あいつら……馬鹿だなぁ。病院だぞ、迷惑だろうに……」
浩司は笑った。目から涙が溢れ出し、頬を伝う。
心臓の鼓動が、ハカのリズムと共鳴するように高鳴り、そして静かに弱まっていくのを感じた。
不思議と怖くはなかった。
愛する妻が側にいて、息子の未来へ言葉を残せて、最高の仲間たちが送り出してくれる。
これ以上の最期があるだろうか。
ハカが終わると、仲間たちは拳を突き上げた。
浩司も、最後の力を振り絞って手を振り返した。
数分後。
晴れ渡る秋空から、優しい日の光が病室いっぱいに降り注いでいた。
その光の中で、浩司は亜由美と、少しだけ距離を縮めて手を握ってくれた翔太、そして駆けつけた両親に見守られながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
心電図の音が、一本の電子音に変わる。
それは、三時間という凝縮された人生を駆け抜けた男の、勝利の凱歌のようにも聞こえた。




