第20話 秩序の番人
その日、イカロス財団の審査部会議室には、かつてない重苦しい空気が漂っていた。
中央のモニターに映し出されているのは、一人の男の顔写真と経歴書。
達也、三六歳。
病名は末期の肺癌。余命は数ヶ月と宣告されている。
医学的には、タッチの適用条件を完全に満たしている。しかし、社会的には決して許されない「属性」を持っていた。
彼は、死刑確定囚だった。
三年前、癌の告知を受けた達也は、職を失い、貯蓄も底をつき、自暴自棄になった。イカロスの抽選に何度応募しても当選せず、絶望した彼は凶行に走った。
民家に押し入り、住人の家族四人を殺害し、金品を奪って逃走。その後逮捕され、その残虐性から異例の速さで死刑判決が下り、刑が確定していた。
そんな男が、あろうことか獄中から応募を続け、つい先日の抽選で「当選」を引き当ててしまったのだ。
「……議論を始めます」
真千子の沈痛な声で、審議が始まった。
議題はシンプルかつ難解だ。『死刑囚に対し、タッチを行うべきか否か』。
「行うべきです」
口火を切ったのは、医師出身の理事だった。
「タッチの抽選は公平でなければなりません。我々が恣意的に当選者を排除すれば、その公平性が揺らぎます。それに、彼は死刑囚である前に一人の患者です。医者は目の前の命を差別しません。この世の法を超越した奇跡は、何人も享受する権利があるはずです」
理想論だ。だが、イカロスの理念には合致している。
すかさず、反対派の理事が机を叩いた。
「詭弁だ! 被害者遺族の感情を考えろ。家族を皆殺しにされた遺族が、犯人が奇跡的に完治したと知ったらどう思う? それに、治したところで待っているのは絞首刑だ。貴重な一日一回の枠を、死ぬことが決まっている人間に使うなど、公益とは言えない!」
「しかし、治せば彼は罪と向き合う時間ができる。病死で逃げ切らせるより、健康な体で刑を受けさせるべきでは?」
「万が一、再審請求などで出所したらどうする? また殺すかもしれないぞ」
議論は平行線を辿った。
倫理、法律、感情、公益。どの角度から切り取っても正解が見えない。
会議は紛糾し、結論が出ないまま一日が終わり、また次の日も同じ議論が繰り返された。
そんな膠着状態の中、真千子は一人の人物の挙動に違和感を覚えていた。
法務部のかおりだ。
普段なら「法的にはこうです」とバッサリ切り捨て、最短ルートで解決に導く彼女が、今回は妙に歯切れが悪い。
「……その点については、過去の判例をもう少し精査する必要がありますね。来週まで時間をいただけますか?」
「刑務所側の受け入れ態勢についても、法務省に確認を取るべきかと。回答には数日かかるでしょう」
かおりは、のらりくらりと議論の腰を折り、結論を先送りにしようとしているように見えた。
彼女ほどの切れ者が、なぜ?
真千子の疑念をよそに、審議は二週間にも及んだ。誰もが疲弊しきっていた。
そして、三週目に突入しようとしていた月曜日の朝。
会議室の大型テレビが、臨時ニュースを告げた。
『速報です。本日午前、東京拘置所にて、死刑囚・達也の死刑が執行されました――』
会議室が凍りついた。
全員が言葉を失い、画面を見つめる。
早すぎる。
通常、死刑が確定してから執行されるまでには数年、長ければ十年以上かかるのが通例だ。法務省内部での慎重な稟議、刑事局、矯正局を経て、最終的に法務大臣が署名をする。そのプロセスには膨大な時間がかかるはずだ。
それが、確定からわずかな期間で、しかもこのタイミングで執行された。
「……対象者が死亡したため、本件は終了となりますね」
静寂を破ったのは、かおりの落ち着いた声だった。
彼女は手元の資料をパタリと閉じ、涼しい顔で立ち上がった。
真千子は背筋に寒気が走るのを感じた。
偶然ではない。
かおりの経歴――元裁判官であり、法務省大臣官房審議官を経て、若くして司法法制部長まで登り詰めたキャリア。法曹界に張り巡らされた彼女の人脈と影響力。
彼女が、何かを仕掛けたのだ。
***
その日の夜。
真千子はかおりを誘い、路地裏にある炉端焼きの店に来ていた。
炭火で焼ける魚の香ばしい匂いと、店内の喧騒。ここなら誰にも聞かれずに話ができる。
真千子は、焼きたてのホッケの身を箸で崩しながら、意を決して切り出した。
「……詮索はしたくないけど、聞かせて。今回の件、あなたが動いた?」
かおりは、手酌でお猪口に注いだ冷酒を、くいっと飲み干した。
色っぽい溜息を一つついてから、彼女は遠くを見るような目で語り始めた。
「私ね、殺害されたあのご家族とは、知り合いだったのよ」
予想外の言葉に、真千子の箸が止まる。
「ご主人が大学時代の先輩でね。五人家族で、絵に描いたような仲の良いご家庭だった。……私が法務省にいた頃、十三歳になる末っ子の娘さんが、職場見学に来てくれたことがあったの」
かおりの脳裏に、あどけない少女の笑顔が浮かんでいた。
『私、悪い人を許さない裁判官になりたい。秩序と正義を守る仕事がしたいんです』
真っ直ぐな瞳でそう語っていた少女。
「事件の当日、彼女だけが部活動の遠征に行っていて難を逃れたわ。……たった一夜で、両親と兄弟、全てを奪われたのよ。彼女は天涯孤独になって、施設に入ることになった」
かおりは空になったお猪口を指先で回した。
「そんな絶望の淵にいても、彼女は私に言ったわ。『それでも私は、秩序と正義を信じたい。だから勉強して、立派な裁判官になります』って」
少女にとって、法と正義は、理不尽な世界で自分を支える唯一のよすがだったのだ。
「もし……自分の家族を惨殺した男が、のうのうとイカロスの奇跡を受け、健康な体を取り戻したと知ったら、彼女はどう思うかしら」
かおりの声色が、ふっと低く、冷たくなった。
「『神様は殺人鬼に味方するのか』。そう思った瞬間、彼女の中で何かが壊れる。彼女が信じようとした秩序も、正義も、すべてが崩れ去ってしまう。私はね、彼女のその『信じる心』を守りたかったの」
それが、元法務省幹部として、そして一人の大人として彼女が下した決断だった。
かつての部下や同期に働きかけ、法の手続きを極限まで加速させ、タッチが行われる前に「執行」という名の幕引きを強制的に行ったのだ。
それは権力の濫用かもしれない。法の番人にあるまじき私情かもしれない。
だが、かおりの瞳に迷いはなかった。
「……私のやったことは汚い裏工作よ。好きに詰ってくれて構わないわ」
かおりは自嘲気味に笑い、真千子の反応を待った。
真千子はしばらく無言でホッケを見つめていたが、やがて徳利を手に取り、かおりのお猪口に酒を注いだ。
トクトク、と小気味よい音が響く。
「……イカロスは光よ。でも、光が強ければ強いほど、影も濃くなる」
真千子は自分のグラスにも酒を注ぎ、かおりに向けた。
「答えの出ない問題に、汚名を被って終止符を打ってくれた。……その覚悟に、感謝するわ」
かおりは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「……ありがとう、ボス(理事長)」
二人はグラスを軽く合わせ、酒を喉に流し込んだ。
辛口の酒が、胸の奥の澱を溶かしていくようだった。
「正義」とは何か。その答えは誰にも分からない。
だが、少なくとも一人の少女の未来は守られた。
その事実だけで、今の二人には十分だった。
「すいません、お酒おかわり!」
真千子の声が、賑やかな店内に吸い込まれていった。




