第19話 厳正厳格厳重厳戒
その日、警視庁警備部警護課・警護第四係に所属する巡査部長、勇太《ゆう太》三三歳は、張り詰めた緊張感の中に身を置いていた。
場所は、地方都市に新設された複合施設。ショッピングモールと市役所の出張所が併設された巨大な建物には、オープン初日ということもあり、数千人の市民が押し寄せていた。
視察に訪れたのは、国土交通大臣・鶴美。
かつて内閣官房長官として「鉄の女」の異名をとった彼女は、政権の要職を歴任し、現在はインフラ整備の指揮を執っている。
勇太にとって鶴美は、大臣就任以来、長年警護を担当してきた馴染みの深い警護対象者(マル対)だった。彼女の豪胆な性格と、その裏にある細やかな気配りを、勇太は誰よりも知っていたし、尊敬もしていた。
「大臣、足元にお気をつけください」
「ええ、ありがとう。すごい人出ね」
SPたちに囲まれながら、鶴美は笑顔で市民に手を振っていた。
その時だった。
人混みの一部が、不自然に波打った。
「ダム建設反対ィィッ!」
怒号と共に、一人の男が警備の壁をこじ開けて飛び出してきた。
「ダム建設反対」と手書きされたゼッケンベスト。充血した目。そしてその手には、鈍く光るサバイバルナイフが握られていた。
距離は五メートル。
一般人なら反応すらできない刹那の出来事。
だが、勇太の体は思考するよりも速く動いていた。
「確保ッ!」
叫びと共に、勇太は鶴美の前に体を割り込ませた。
盾になる。それがSPの存在理由。
男の殺意は、鶴美の心臓を狙っていた。だが、その切っ先は勇太の左脇腹へと深々と吸い込まれた。
――ドスッ。
肉を裂く鈍い感触と、焼けるような激痛。
勇太は苦悶の声を噛み殺し、渾身の力で男の腕を掴んだまま押し倒した。
直後、周囲のSPたちが雪崩れ込み、暴漢を取り押さえる。
「大臣を! 大臣を避難させろ!」
「勇太! 勇太!」
同僚の絶叫が遠くに聞こえる。
勇太はその場に崩れ落ちた。腹部から溢れ出る鮮血が、新しいフロアのタイルを赤黒く染めていく。
SPたちが勇太を抱え上げ、バックヤードの搬入口へと運び込む。
薄れゆく意識の中で、勇太は自分の死を悟った。
寒い。体が芯から冷えていく。
(ああ……俺は、死ぬのか)
恐怖はなかった。職務を全うしたという自負がある。
だが、次の瞬間、脳裏に浮かんだ光景が、彼の胸を後悔で締め付けた。
今朝、玄関で見送ってくれた妻の笑顔。
そして、まだ二歳になったばかりの娘の、あどけない寝顔。
(ごめんな……)
もっと、抱きしめてあげたかった。
もっと、遊んであげたかった。
娘が大きくなって、ランドセルを背負う姿も、花嫁姿も、見ることはできないのか。
無念の涙が、一筋だけ勇太の頬を伝った。
視界が暗転する直前、鬼のような形相で電話をかける鶴美の姿が見えた。
「……もしもし、真千子!? 私よ! 今すぐ来て! お願い、死なせたくない人がいるの!」
***
奇跡は、必然のように舞い降りた。
連絡を受けた真千子と淳史は、偶然にも別の用件で近くに来ていたのだ。
救急車の到着よりも早く、淳史たちは搬入口へ駆けつけた。
「どいてください!」
真千子が叫び、淳史が瀕死の勇太に駆け寄る。
脈は微弱、顔面は死人のように蒼白だった。
淳史は無言で、血に濡れた勇太の腹部に手を当てた。
温かい光が溢れた。
裂けた動脈が繋がり、損傷した臓器が修復され、失われた血液が造り出されていく。
死の淵にいた勇太の魂が、現世へと強引に引き戻される。
「……っ、はぁ!」
勇太は大きく息を吸い込み、カッと目を見開いた。
激痛が消えている。寒気もない。
彼は状況を理解できず、自分の腹をさすった。傷跡一つ残っていない。
そこには、額に汗を浮かべた淳史と、安堵の表情を浮かべる真千子、そして涙目で立ち尽くす鶴美がいた。
「大……臣……?」
「よかった……本当によかった……!」
鶴美は大臣の威厳も忘れ、へなへなと座り込んだ。
数分後。
駆けつけた上司の警部が、勇太の肩を掴んだ。
「勇太、よくやった。救急車はキャンセルしたが、念のため病院へ行け。今日はもう上がっていい」
当然の命令だった。刺された人間が、そのまま働けるはずがない。
だが、勇太は立ち上がり、首を横に振った。
「いいえ、係長。勤務を続けさせてください」
「馬鹿を言うな! 死にかけてたんだぞ!」
「だからこそです」
勇太の目は、かつてないほど強い光を宿していた。
「どんなに卑劣な暴力を使おうとも、警察は決して屈しない。テロには断固として立ち向かう。その姿勢を示すことこそが、SPの務めです」
勇太は予備のスーツに着替え、ネクタイを締め直した。
「それに、妻には常々言っています。最悪の事態も想定しておけ、と。私はプロです。まだ勤務時間中ですので、応援部隊が到着し、状況が完全に沈静化するまでは、大臣のそばにいさせてください」
その鬼気迫る覚悟に、上司は言葉を失った。
それを聞いていた鶴美が、ふっと口元を緩めた。
「……あんた、本当に大丈夫なの?」
「お気遣いありがとうございます。自分、SPですから」
「ふふっ。なんてタフガイなのかしら」
鶴美はニヤリと笑い、再び会場へと戻っていった。その背中には、テロごときには動じない政治家の矜持が戻っていた。
***
騒動は鎮圧され、中断していた式典も無事に終了した。
夕暮れ時。
鶴美が公用車に乗り込もうと、エントランスを出たところだった。
一般客の退避エリアに、見覚えのある女性と幼い子供の姿があった。
「……あっ」
勇太の体が強張った。
妻と、娘だった。
ニュース速報で事件を知り、居ても立っても居られず現場近くまで来ていたのだろう。
妻は、元気に立っている夫の姿を見つけ、手で口を覆って涙ぐんでいる。
そして。
「パパ! パパァ!」
二歳になる娘が、勇太を見つけて駆け寄ってきた。
ヨチヨチとした頼りない足取りで、小さな手を精一杯伸ばしてくる。
死ぬ間際、あれほど会いたいと願い、抱きしめたいと渇望した愛娘だ。
今すぐ駆け寄り、力いっぱい抱きしめたい。
その温もりを確かめたい。
だが。
勇太は動かなかった。
直立不動の姿勢を崩さず、表情一つ変えずに前を見据え続けた。
彼は今、任務中なのだ。
SPが警護対象から目を離し、私情で持ち場を離れることなど、万死に値する。
公私混同はしない。それが彼の、不器用なまでのプロ意識だった。
「パパ、だっこ! だっこぉ!」
娘が足元まで来て、ズボンの裾を引っ張る。
勇太の拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
心の中では号泣していた。ごめんな、今すぐ抱っこしてやりたいんだ。でも、パパは仕事中なんだ。
その痛々しいほどの葛藤を、すべて見透かしている人物がいた。
鶴美だった。
彼女は足を止めると、勇太の足元でむずかる娘の前にしゃがみ込んだ。
「あらあら、可愛いお嬢ちゃんね」
「うぅ……パパがいい……」
「そうね、パパがいいわよね。でもね、見て」
鶴美は慣れない手つきで、娘をひょいと抱き上げた。
そして、石像のように固まっている勇太の顔を見せながら、優しく語りかけた。
「あなたのパパはね、とっても強いヒーローなのよ。悪い人から私を守ってくれたの。だから今、お仕事中で動けないの。許してあげてね」
しかし、娘にとって大臣もヒーローも関係ない。
見知らぬおばさんに抱っこされたことで、娘はさらに機嫌を損ねてしまった。
「やぁだ! パパ! パパぁーっ!」
手足をバタつかせ、泣き出してしまう娘。
困り果てる鶴美。
張り詰めた空気の中、鶴美は意を決したように立ち上がり、勇太の上司である係長を振り返った。
「係長さん。応援の警察官も十分に来ているわね?」
「は、はい。警備体制は万全です」
「なら、私の権限で命令するわ。彼を、今すぐこの任務から解きなさい」
「しかし大臣、彼は……」
「今日はもう十分働いたわ。これ以上働かせたら、労働基準監督署に訴えるわよ?」
鶴美はウィンクをした。
係長は苦笑し、勇太に向き直った。
「勇太巡査部長。本日の任務を解く。直帰していいぞ」
その言葉が下された瞬間、勇太の肩から、見えない鎧が剥がれ落ちた。
彼はゆっくりと鶴美に向き直った。
そこには、SPとしての敬意と、一人の父親としての深い感謝が込められていた。
「……ありがとうございました」
最敬礼する勇太に、鶴美は娘を下ろしながら「行ってきなさい」と手を振った。
勇太は妻と娘の元へ駆け寄ろうとしたが、二人は既に人混みの向こうへ歩き出していた。妻が気を利かせ、泣く娘をあやしながら連れ出したのだ。
「待ってくれ! 恵美! 花!」
勇太は走り出した。
走りながら、息苦しくなったネクタイを乱暴に緩め、シャツの第一ボタンを外す。
SPの仮面はもういらない。
今はただの夫として、父親として。
夕焼けに染まる広場で、勇太は愛する家族の背中を追いかけた。
その脇腹には、消えることのない「命の重み」と、二度と家族を悲しませないという誓いが刻まれていた。




