第17話 てやんでぃめぃ
カン、カン、カン。
乾いた槌音が、晴れ渡った秋の空に吸い込まれていく。
新しい木材の芳しい香りが漂う建築現場。そこは、大工の平吉にとって、四〇年以上慣れ親しんだ戦場だった。
「おい! 何ぼさっとしてやがる! 墨付けが終わったらさっさと刻まんかい!」
平吉の怒号が飛ぶと、若い見習いの大工が「す、すいません!」と縮こまる。
平吉は六二歳。昔気質の職人だ。腕は確かで、カンナを引けばミクロン単位の薄さで木肌を削り出し、継手を作れば紙一枚入らない精度で組み上げる。
だが、その性格は鑿のように鋭く、金槌のように硬かった。
「仕事なんざ口で教わるもんじゃねぇ。親方の背中を見て盗むもんだ」
それが口癖だった。
手取り足取り教えるなど言語道断。見て覚えられない奴は向いていない。そう切り捨て、気に入らない仕事には容赦なく罵声を浴びせる。
当然、現場の空気は常に張り詰めており、休憩時間になっても平吉の周りには誰も近寄らなかった。
孤高の職人。平吉はそれを自分の美学だと思っていた。
半年前の、あの日までは。
その日も、平吉は不機嫌な顔で資材置き場の整理をしていた。
積まれた木材の隙間に手を伸ばし、ヒノキの角材を引き抜こうとした瞬間だった。
ガブリ。
右手首に鋭い痛みが走った。
反射的に手を引っ込めると、木材の陰から茶褐色の銭形模様が蠢くのが見えた。
マムシだ。
「……ちっ、忌々しい」
平吉は傷口を口で吸い出し、ぺっと唾を吐き捨てた。
若い連中が「大丈夫ですか、親方!」と駆け寄ってきたが、平吉はそれを手で制した。
「騒ぐんじゃねぇ。こんなもん、赤チン塗っときゃ治るわ。仕事に戻れ!」
病院へ行けという声を無視し、平吉はそのまま夕方まで金槌を振るい続けた。
自分の頑強な体を過信していたのだ。
だが、その夜。自宅で晩酌をしていた平吉の体調が急変した。
右腕が丸太のように腫れ上がり、激しい吐き気と悪寒に襲われた。視界が霞み、意識が遠のく中、彼は這うようにして救急車を呼んだ。
診断結果は、マムシ咬傷による急性腎不全。
毒が全身に回り、筋肉が壊死しかけていた。一命は取り留めたものの、代償は大きすぎた。
後遺症による神経障害。
平吉の命よりも大切な「職人の右腕」は、動かない肉の塊となってしまったのだ。
入院生活は、地獄のような孤独との戦いだった。
窓の外から聞こえる工事の音が、今の自分には無関係なものだと知るたびに、胸が締め付けられた。
何より堪えたのは、誰も見舞いに来なかったことだ。
弟子たちも、現場監督も、誰一人として顔を出さない。
当然だ。あれだけ横柄に振る舞い、人を遠ざけてきたのだから。
俺は、ただ腕がいいだけの、嫌われ者のジジイだったんだな。
ベッドの上で動かない右腕を見つめながら、平吉は人生の収支決算を突きつけられた気がした。
「平吉さーん、検温の時間ですよ」
そんな荒んだ心に、唯一染み渡ったのが、担当看護師の笑顔だった。
彼女は、不貞腐れて返事もしない平吉に対し、嫌な顔一つせず接してくれた。
「今日は天気がいいですね」
「リハビリ、少し痛いけど頑張りましょう」
「お茶、入れ替えておきますね」
その手つきは優しく、言葉は丁寧で、何より「相手を思いやる心」に満ちていた。
ある日、平吉はボソリと尋ねた。
「……なんで、そんなに親切なんだ。俺はもう、大工もできねぇ役立たずだぞ」
「あら、職業なんて関係ないですよ」
看護師は点滴を交換しながら、にっこりと笑った。
「私は看護師ですから。患者さんが少しでも安らげるようにするのが、私の『仕事』ですもの。技術だけじゃなくて、心も添えないと、いい看護はできないって先輩に教わりましたから」
その言葉に、平吉は頭を金槌で殴られたような衝撃を受けた。
技術だけじゃない。心も添える。
俺に足りなかったのは、それか。
いい家を建てることには執着したが、そこで暮らす人や、共に建てる仲間への敬意を忘れていた。
見て覚えろ、と突き放すのは指導ではない。ただの怠慢だ。
この年になって、娘ほども年の離れた看護師に教わるとはな。
退院後、平吉は藁にもすがる思いで、話題になっていた公益財団法人「イカロス」のタッチに応募した。
仕事に戻りたい。
ただ家を建てるためじゃない。やり直すためだ。
当選通知が届いた時、平吉は仏壇の先祖に向かって一礼した。
そして、淳史という青年に右腕を触れられた瞬間、石のように重かった腕に血が通い、指先まで感覚が戻るのを感じた。
それは単なる機能の回復ではなく、凍りついていた平吉の魂が解凍されるような体験だった。
復帰初日。
現場の空気は重かった。
あの雷親父が戻ってきた。また怒鳴り声が響く毎日が始まるのか。若い衆の顔には、そんな警戒心が張り付いていた。
平吉は腰袋を締め直すと、作業台に向かっている若手大工の元へ歩み寄った。彼はビクリと身をすくませた。
「お、おはようございます……」
「おう。……タカシ、その継手、ちょっと貸してみな」
平吉は若手が苦戦していた木材を受け取ると、ノミを取り出した。
以前なら「下手くそ! どいてろ!」と怒鳴りつけ、無言で仕上げていただろう。
だが、今の平吉は違った。
「いいか、ここの角度が少し甘いんだ。こうやって刃を入れると、木目の抵抗が減って綺麗に決まる。……やってみろ」
平吉は穏やかな口調で手本を見せ、ノミを返した。
タカシは呆気にとられた顔をしていたが、恐る恐る言われた通りに刃を入れた。
パチン、と小気味よい音を立てて木材が組み合わさる。
「おおっ! ぴったりだ!」
「そうだ、その感覚だ。忘れんじゃねぇぞ」
「はい! ありがとうございます、親方!」
タカシの顔が輝いた。
それを見て、平吉の胸の奥がじんわりと温かくなった。
教えることの喜び。技術が受け継がれていくことの充実感。
俺は今まで、なんと損な働き方をしていたんだ。
それからというもの、平吉は変わった。
休憩時間には若手たちの輪に入り、缶コーヒーを飲みながら昔の失敗談を話して笑わせるようになった。厳しさは相変わらずだが、そこには確かな愛情があった。
いつしか、誰も寄り付かなかった平吉の周りには、常に誰かがいるようになった。
そして、秋も深まったある日。
平吉たちが手掛けていた新築住宅の棟上げ式(上棟式)が行われた。
骨組みが完成し、屋根の最上部に棟木が上がったことを祝う、大工にとって最大の晴れ舞台だ。
夕暮れ時、祭壇には酒や塩、供物が並び、五色の吹き流しが風にたなびいている。
施主や工事関係者が集まる直会の席で、進行役が声を上げた。
「それでは、乾杯のご発声を、棟梁の平吉さんにお願いいたします」
指名された平吉は、コップ酒を手に立ち上がった。
視線が集まる。
施主夫婦の晴れやかな顔。
そして、共に汗を流してきた仲間たちの信頼に満ちた眼差し。
半年前、孤独な入院生活を送っていた自分には、想像もできなかった光景だ。
平吉は喉を鳴らし、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「えー、棟梁の平吉と申します。施主様におかれましては、この度の棟上げ式、誠におめでとうございます」
普段使い慣れない丁寧語に、平吉の声が少し上ずる。
しかめっ面で、教科書通りの挨拶を続けようとしたその時、奥の方から野太い声が飛んだ。
「おーい! 堅苦しいぞ、ヘイちゃん!」
長年の付き合いがある鳶職の頭だった。
どっと笑いが起きる。
「ヘイちゃん」。以前なら、そんなふざけた呼び方をすれば怒鳴り散らしていただろう。
だが、平吉は怒らなかった。
むしろ、こわばっていた頬の筋肉が緩み、目尻に深い皺を刻んで破顔した。
「……へっ、違いねぇ」
平吉は咳払いを一つすると、いつものべらんめえ口調に戻った。
だが、その声色はどこまでも温かかった。
「ま、難しい挨拶は抜きだ。俺たちは職人だ。この家が百年、二百年と続くように、最高の仕事をするだけよ。とにかく安全第一で、最後まで気張ってやっていきやしょう」
平吉は杯を高く掲げ、いたずらっぽく片目を瞑った。
「……でもよぉ。たまにはマムシに噛まれてみるのも、悪くねぇかもよ?」
一瞬の静寂の後、爆発的な笑い声と拍手が沸き起こった。
その意味を本当に理解しているのは、平吉自身だけかもしれない。
あの毒が、俺の腐った性根を殺してくれたんだ。
動かなくなった右腕が、本当に大切なものを掴む方法を教えてくれたんだ。
「乾杯!」
「乾杯!」
唱和の声が響き渡る。
平吉が飲み干した酒は、今までのどんな酒よりも芳醇で、心に沁みる味がした。
秋風が、吹き流しを心地よく揺らしていた。




