第16話 できる男
公益財団法人イカロス。その光り輝く実績の裏には、必ず「影」が存在する。
理事長である真千子の右腕、正則、四八歳。
彼は今日も、オーダーメイドのチャコールグレーのスーツを隙なく着こなし、あるミッションを遂行していた。
場所は都内某所の応接室。対面しているのは、先日淳史のタッチを目撃してしまった企業の役員だ。
テーブルの上には、一枚の書類が置かれている。
『秘密保持に関する誓約書』。
「……ですから、サインはできませんよ」
役員は横柄な態度で腕を組んだ。
「見たことを誰に喋ろうが私の勝手でしょう。言論の自由だ。それに、あんたたちのやってることは世間じゃ奇跡だ何だと騒がれているが、私には胡散臭い見世物にしか見えん」
正則は表情一つ変えず、銀縁眼鏡の奥で冷ややかな理性を光らせた。
彼は元々、官房長官・鶴美の筆頭秘書を務めていた男だ。政界という伏魔殿で揉まれ、将来は代議士への道も約束されていたエリート中のエリート。
そんな彼が全てを捨ててイカロスへ転職したのは、淳史の能力に「人類の未来」を見たからだ。この奇跡を守るためなら、彼はどんな汚れ役も厭わない。
「おっしゃることはごもっともです。ですが、この技術は未だ発展途上。無用な混乱を避けるため、皆様にご協力を仰いでいるのです」
正則は慇懃無礼ギリギリの丁寧さで、菓子折りの桐箱を差し出した。老舗和菓子店の最高級羊羹だ。
「どうか、当財団の理念にご理解をいただけないでしょうか」
「しつこいな! 帰ってくれ!」
役員が声を荒げた。通常の営業マンならここで引き下がるだろう。
だが、正則はここからが本番だった。
彼はゆっくりと羊羹を机に戻すと、スッと背筋を伸ばし、先ほどまでとは別人のような威圧感を放った。室内の温度が数度下がったような錯覚を相手に抱かせる。
「……そうですか。残念です」
正則は手帳を取り出し、何かを書き留める仕草をした。
「では、〇〇商事の常務取締役、××様。あなたのお名前は、私のこの手帳と、脳裏に深く刻ませていただきます」
「な、何だ。脅すつもりか?」
「滅相もございません。ただ……」
正則は眼鏡の位置を中指で直し、低い声で、しかしはっきりと告げた。
「人生、何が起こるか分かりません。もし将来、あなたやご家族が不治の病に侵され、藁にもすがる思いで当財団の抽選枠へご応募された場合……恐らく私は、あなたのお名前に気づくと思いますよ」
その言葉は、鋭利なナイフのように役員の心臓を突き刺した。
職務規定違反ギリギリ、いや完全にアウトな文言。だが、命の選別に関わる男にこう言われて、平気でいられる人間などいない。
役員の顔から血の気が引いた。
「き、君……それは……私を優先的に助けてくれるという意味か?」
「あくまで私の記憶力の話です。……さて、サインをいただけますね?」
数分後。
正則は署名捺印された誓約書を鞄に収め、深く一礼して部屋を出た。
廊下を歩く足取りは音もなく、その背中はあくまで「スマート&シャープ」。
これが、イカロスの守護神の仕事である。
***
そして数日後。
正則は、静岡県焼津市にいた。
潮の香りが鼻孔をくすぐる漁港の町に、いつもの完璧なスーツ姿は異様に浮いていた。だが、彼は周囲の視線など意に介さない。
今日のミッションは、誓約書の回収のような血生臭いものではない。
しかし、財団の存続に関わる極めて重要な任務――「お歳暮の選定」である。
イカロスは多くの関係者に支えられている。政府高官、協力医療機関、出資者たち。彼らへの年末の挨拶は、一年の感謝を伝え、来年の円滑な運営を約束するための重要な外交儀礼だ。
下手な物は贈れない。
デパートのカタログギフトで済ませるなど、正則の美学が許さない。
彼は自らの足で現地へ赴き、現物を確認し、最高の品を送り届ける。それが「できる男」の流儀だ。
「よう! 東京の兄ちゃん、また来たんか!」
港近くの加工場兼直売所『磯々《いそいそ》水産』。
ダミ声で出迎えたのは、ねじり鉢巻きの社長だった。
正則は埃っぽい土間に革靴で踏み入ると、優雅に一礼した。
「社長、ご無沙汰しております。本日は年末のご挨拶の品を選定しに参りました」
「おーおー、律儀なこって。電話一本くれりゃあ、適当に見繕って送ってやるのによ」
「とんでもない。社長の目利きは信頼しておりますが、私自身の目で確かめ、納得したものをお送りするのが私の務めですので」
そう言って、正則は持参した紙袋を差し出した。
中身は、銀座でも入手困難な限定のブランデーケーキだ。
「これ、つまらないものですが、皆様で召し上がってください」
「へえ!? 兄ちゃん、客はそっちだろ? なんでまた菓子折りなんぞ持ってくるんだよ」
社長が目を丸くする。
物を売ってもらう側が、買う側から手土産をもらう。逆転現象だ。
だが、これこそが正則の「抜け目なさ」である。
感謝を伝える品を購入させていただく、その行為自体への感謝。この二重の礼節が、職人気質の社長の心を鷲掴みにするのだ。
「いやぁ、悪いねぇ。……よし! とびっきりの奴を出してやるよ!」
社長は上機嫌で奥の冷凍庫へと走っていった。
作戦通りだ。正則の口元が微かに緩む。
作業台に並べられたのは、脂の乗った極上の干物たちだった。
正則は手袋をはめ、宝石を鑑定するように真剣な眼差しで魚を見つめた。
「この真アジ、素晴らしいですね。身の締まり、脂の乗り具合、申し分ない」
「だろ? 今の時期は最高よ」
「しかし、アジだけでは芸がない。送り先は舌の肥えた方々ばかりです。……社長、こちらの甘鯛、それに鰆の西京漬けも組み合わせることは可能ですか?」
甘鯛の上品な甘み、鰆の濃厚な旨味、そして定番のアジの香ばしさ。
この三位一体こそが、今年のイカロスの感謝を表現するに相応しい。
「へへっ、兄ちゃん、分かってるねぇ! 『正則厳選スペシャルセット』ってとこか。いいよ、特別に組んでやらぁ!」
「ありがとうございます。では、二百セット、お願いします」
「に、二百!? ……まいったね、こりゃ残業だ!」
悲鳴を上げつつも嬉しそうな社長と固い握手を交わし、正則は『磯々水産』を後にした。
任務完了。
今年も完璧な布陣でお歳暮合戦を戦える。
帰路。
JR静岡駅の新幹線ホームに、正則の姿があった。
手には、社長がお土産として持たせてくれた「試食用の干物セット」が入った袋がある。
発泡スチロールと新聞紙で厳重に包まれているとはいえ、微かに、しかし確実に漂う磯の香り。
到着したのは「こだま号」。
正則は指定席券を持っていた。疲れた体をシートに沈め、ビールでも飲みたいところだ。
だが、彼は座席には向かわなかった。
彼が陣取ったのは、車両と車両の連結部にあるデッキスペース。
なぜか。
臭うからだ。
密閉された客室内で、干物の匂いを撒き散らすなど、マナー違反も甚だしい。周囲の乗客に「なんだか魚臭いな」と不快感を与えることは、イカロスの品位を、ひいては真千子の顔に泥を塗ることに繋がる。
ゴーッという走行音が響く薄暗いデッキ。
正則は窓の外を流れる夜景を見つめながら、直立不動で立ち続けていた。
揺れる車内でも、その体幹はぶれない。
手には干物。体にはオーダースーツ。
シュールな光景だが、彼の心にあるのは「配慮」という名の美学だけだ。
(……これもまた、秘書の務め)
東京まで約一時間半。
誰に褒められるわけでもない。誰が見ているわけでもない。
だが、この見えない気遣いの積み重ねこそが、組織を支える礎となる。
正則は窓ガラスに映る自分の姿に、小さく頷いた。
スマート&シャープ。
今日も彼は、完璧な仕事をしたのだ。
***
【秘密保持に関する誓約書】
公益財団法人イカロス 理事長 殿
私は、公益財団法人イカロス(以下、「財団」という)に対して、以下の通り誓約いたします。
1.タッチを受ける又は目撃するにあたって、知りえた情報や財団関係者の個人情報等(以下、「秘密情報」という)を財団の事前の許諾なしに、第三者に開示、漏洩又は譲渡しません。
2.私は、秘密情報を財団より承認を受けた目的以外には使用しません。
3.私は、タッチまでの経緯及び、タッチ時の状況や周りにいた関わりのある人物等の公言・公表をいたしません。
4.私は、本誓約書に違反して、秘密情報を漏洩し財団に損害を与えた場合には、法的な責任を負担するものであることを確認し、これによって財団が被った一切の損害を遅滞なく賠償することを約束します。
年 月 日
氏名 印




