第14話 覆水盆に返らす女
首都高速道路は、赤いテールランプの海と化していた。
助手席でナビを見つめる真千子は、じりじりとした焦燥感に襲われていた。
今日は、とある当選者への訪問日だ。本来なら余裕を持って到着するはずが、予期せぬ事故渋滞に巻き込まれてしまった。
「……裏道を使います」
ハンドルを握る運転手の機転により、車は高速を降りて一般道を縫うように走り出した。
約束の時間まであと五分。
真千子は祈るような気持ちで時計を見つめた。公益財団法人「イカロス」の理事長として、時間に遅れるわけにはいかない。それは組織の信用に関わるからだ。
車が目的地の民家に滑り込んだのは、約束の時間のジャスト一分前だった。
「セーフね……行きましょう、淳史」
後部座席でうとうとしていた淳史を促し、真千子は身だしなみを整えてインターホンを押した。
出迎えたのは、緊張した面持ちの両親と、車椅子に乗った一五歳の少女、晶子だった。
家の中はバリアフリーに改装されており、玄関にはスロープが設置されている。廊下も車椅子が通れるように拡張され、手すりが取り付けられていた。
娘のために両親がどれほどの愛情と、そして金銭を注いできたかが一目でわかる光景だった。
しかし、漂っている空気がおかしかった。
通常、タッチ当日の家は、これから起きる奇跡への期待と興奮で、もっと浮き足立っているものだ。だが、この家には重く淀んだ沈黙が支配していた。
晶子は俯き、膝の上で手を固く握りしめている。両親もまた、どこか悲痛な表情を浮かべていた。
「……お邪魔します。準備はよろしいですか?」
真千子が努めて明るく声をかけると、父親が力なく「ええ、お願いします」と答えた。
リビングに移動し、淳史が晶子の前に立つ。
だが、淳史は手を伸ばそうとして、動きを止めた。
「……どうしたの、淳史?」
「姉ちゃん、無理だよ」
淳史は困ったように眉を下げた。
「彼女、拒絶してる。治りたくないって思ってる」
「えっ?」
真千子は驚いて晶子の顔を覗き込んだ。
治りたくない? そんな馬鹿な。彼女は二年前の事故で半身不随となり、車椅子生活を余儀なくされたはずだ。当選が決まった直後には、自身のSNSで喜びを爆発させ、それがネットニュースでバズったほどなのに。
「晶子ちゃん、何か不安なことでもあるの?」
淳史が優しく問いかけると、晶子の肩が震え始めた。
そして、堰を切ったように泣き出した。
「……タッチは、いりません。私、このままでいい」
「晶子! 何を言ってるんだ!」
父親が慌てて声を上げるが、晶子は首を横に振った。
「だってお父さん、私が治ったら……お家が破産しちゃうじゃない!」
その言葉に、真千子は耳を疑った。
事情を聞くと、そこには現代社会の冷酷なシステムが横たわっていた。
晶子の事故原因は、公園の遊具の破損だった。
長年点検を怠っていた市の管理不備が原因で、金具が外れて落下。脊髄を損傷した。市が契約していた保険会社からは、口止め料を含めた多額の賠償金と保険金が支払われた。
しかし、晶子がSNSで「イカロスのタッチ当選」を公表し、それが拡散されたことで、保険会社が動き出したのだ。
『完治するのであれば、後遺障害による将来の減収分(逸失利益)は発生しない。よって、支払った保険金の返還を求める』
届いた通知書には、そんな無慈悲な通告が記されていた。
だが、支払われた保険金は既に手元になかった。この家のバリアフリー改修、特注の車椅子、日々の介護費用やリハビリ費に消えていたのだ。
返還請求額は数千万円。
もし返せば、一家は破産し、路頭に迷うことになる。
「私が歩けるようになったら、パパとママが苦しむことになる……。だから、私は一生車椅子でいいの。お願い、帰ってください!」
晶子の悲痛な叫びがリビングに響き渡る。
一五歳の少女に、自分の体と家族の生活を天秤にかけさせる。あまりにも残酷な選択だった。
淳史は悲しげな目で真千子を見た。
「姉ちゃん……なんとかならないの?」
真千子の中で、静かな怒りの炎が燃え上がった。
人の命や幸福を、数字だけで計算する連中。奇跡を前にして、損得勘定を突きつけてくる輩。
許せない。
真千子はスマホを取り出すと、登録されている一つの番号を呼び出した。
「ちょっと待ってて。……専門家を呼ぶわ」
電話の相手は、イカロス法務部・かおり。
法務省からヘッドハンティングした、切れ者という言葉が生ぬるいほどの敏腕弁護士だ。
真千子は早口で事情を説明した。
電話の向こうで、かおりは一言だけ言った。
『その保険会社の担当者名と連絡先を教えて。あと、五分待ってて』
通話が切れた。
真千子は晶子に向き直り、力強く言った。
「晶子ちゃん。五分だけ待って。大人が責任を持って、嫌なことは全部片付けるから」
長い五分間だった。
時計の秒針の音だけが響く。晶子は不安そうに涙を拭い、両親は祈るように手を組んでいた。
そして、五分が過ぎた瞬間。
家の固定電話が鳴り響いた。
父親が恐る恐る受話器を取る。
「……はい、はい。ええ、私ですが……え?」
父親の表情が、驚愕から困惑、そして安堵へと劇的に変化していく。
「はあ……間違い? 請求は取り下げる? 今後一切、返還は求めない……? 本当ですか?」
通話を終えた父親は、腰が抜けたようにソファに座り込んだ。
「晶子……保険会社が、請求は事務的なミスだったって。お金は返さなくていいそうだ。むしろ、不快な思いをさせたお詫びをしたいとまで言っていた……」
「えっ? 本当に?」
「ああ。もう大丈夫だ。治っていいんだよ、晶子」
その瞬間、リビングの空気が一変した。
重い呪縛が解け、光が差し込んだようだった。晶子の顔に赤みが戻り、瞳に希望の光が宿る。
「淳史さん、私……治りたい。歩きたい!」
「うん。任せて」
淳史は微笑み、晶子の肩に手を置いた。
温かな光が溢れ出し、少女の壊れた神経を繋ぎ合わせていく。
それは、金銭などでは決して換算できない、尊い命の輝きだった。
タッチを終え、自分の足で立ち上がった晶子と、抱き合って泣く親子を残し、真千子たちは静かにその家を後にした。
その夜。
都内の隠れ家的な小料理屋。
カウンター席で、真千子は隣に座る美女に日本酒を注いでいた。
法務部のかおりだ。ブランド物のスーツを着こなし、妖艶な笑みを浮かべている。
「はい、お待ちどうさま。トウモロコシの髭の天ぷらよ」
店主が出してくれた揚げたての天ぷらを、かおりは上品に口に運んだ。サクッという軽快な音がする。
「……で、かおり。あんた一体、たった五分で何をしたの?」
真千子の問いに、かおりはお猪口を傾け、ふふっと笑った。
「そんなの簡単よ。少しばかり『現実』を教えて差し上げただけ」
「現実?」
「ええ。保険会社に電話して、こう伝えたの。『晶子さんへの返還請求を続けるなら、即刻、市と貴社を相手取って提訴します』ってね」
かおりは指を折りながら説明を始めた。
「まず第一に、裁判になれば、国土交通省の『都市公園における遊具の安全確保に関する指針』を完全に無視していた管理実態を徹底的に暴くわ。これは市の過失だけど、保険会社も監督責任を問われる」
「なるほど」
「第二に、あの保険金には『口止め料』としての性質が含まれていたこと。これを公の場で蒸し返されるのは彼らにとって致命的よ」
「確かにね」
「そして第三に、これが一番効いたと思うけど……晶子ちゃんの影響力ね」
かおりは悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「彼女のSNSアカウント、フォロワー数見た? 数万人いるわよ。もし彼女が『保険会社にお金を返せと言われて、破産しそうだから治療を諦めます』なんて投稿したらどうなると思う? タッチの当選で注目度がピークに達している今、炎上なんてレベルじゃ済まないわ」
「……社会的な制裁ね」
「そう。世論を味方につければ、金融庁も黙っちゃいない。保険金不払い問題として立ち入り検査が入れば、行政処分は免れない。業務停止命令が出るかもしれないわね」
かおりは天ぷらの残りを口に放り込み、余裕の笑みで締めくくった。
「『今、あなたが返還請求している数千万円を取り戻すために、その五倍……いえ、会社の信用の全てを失うリスクを冒すつもりですか?』って、誠実に、優しく諭してあげたの。そうしたら、向こうもすぐに理解してくれたわよ」
真千子は呆気にとられ、それから深いため息をついた。
論理的で、冷徹で、そして完璧な脅し。
いや、これは交渉術と言うべきか。
「……あんたが味方で本当によかったわ」
「あら、光栄ね。その代わり、ボーナスは期待してるわよ?」
かおりは空になったお猪口を差し出した。
真千子は苦笑しながら、その猪口になみなみと酒を注いだ。
正義を行うにも、力が必要だ。淳史のような超常的な力だけでなく、人間の社会で戦うための、こうしたしたたかな力が。
トウモロコシの甘い香りが漂う店内で、真千子は今日一番の安堵の酒を喉に流し込んだ。




