第13話 ダダ洩れ警護心情
その男の視線は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、しかし決して殺気は漏らしていなかった。
警視庁警備部警護課警護第四係、巡査部長の裕貴、二八歳。
彼は今、都内の某公園のベンチに座り、文庫本を読むふりをしながら、三十メートル先にいる「マル対(警護対象者)」を監視していた。
(……やってらんねぇぜ)
裕貴は内心で悪態をついた。
今朝の朝礼での光景が脳裏に蘇る。
直属の上司である警護課長、亮太警部の顔は、今日も般若のように怖かった。極太の眉を吊り上げ、怒号のような訓示を垂れる。
『警護の要諦は、万全の準備と一瞬の判断にあり! 貴様ら、一秒たりとも気を抜くな! 厳正なる職務の遂行を成し遂げろッ!』
その暑苦しいまでの熱血指導には慣れている。だが、その後に呼び出されて言い渡されたこの任務だけは納得がいかなかった。
「お前には、ある民間人の警護についてもらう」
「民間人、ですか?」
「そうだ。ただし、極秘任務だ。一人でやれ」
「一人!? しかし課長、SPはチーム行動が鉄則。単独警護など……」
「例外だ。対象に悟られるな。接触もするな。あくまで影のように守れ」
無茶苦茶だった。
警護とは、対象者を全方位から守る「動く壁」となることだ。それを一人で、しかもコソコソ隠れてやれというのは、警護というより尾行に近い。
これは、一種の左遷ではないか。あるいは新手のいじめか。
(俺はまだ二八だぞ。自分でも言うのもなんだが、警護課のホープだ)
裕貴は文庫本のページをめくりながら、自分の輝かしいキャリアを反芻して心を慰めた。
柔道三段、剣道四段。学生時代は全く駄目だった英語も、SPになるために死に物狂いで勉強してビジネスレベルまで叩き込んだ。
すべては、総理大臣や国務大臣といった国家の要人を守るため。日の丸を背負って立つ男たちを、我が身を盾にして守り抜く。その高潔な使命に憧れたからだ。
それなのに。
(なんで民間人、しかもこんなパッとしない男のベビーシッターなんだよ)
裕貴の視線の先には、ベンチで鳩に餌をやっている猫背の青年がいる。
淳史。
公益財団法人イカロスの「施術者」。
触るだけで病気を治すという、オカルトじみた能力を持つ男。
(俺は信じてないね。そんな魔法みたいな話があるわけない。大方、政治家や金持ちがバックについた大規模な詐欺師グループの広告塔ってところだろ)
裕貴の目は冷ややかだった。
上からの圧力で無理やり警護をつけさせられたが、人員を割くのも馬鹿らしいから、若手の俺が貧乏くじを引かされた。そう考えるのが妥当だった。
淳史が立ち上がった。裕貴もタイミングをずらして立ち上がる。
付かず離れず。気配を消して。
その時だった。
(……ん?)
淳史に近づく人影があった。
中年の男だ。長身で、ラフなジャケットを着崩しているが、歩き方に隙がない。体幹がぶれていない。
素人じゃない。
(脅威か? 接触してくる気か?)
裕貴は瞬時に臨戦態勢に入った。ジャケットの内側に隠した特殊警棒に意識を向ける。
指名手配犯のリストを脳内検索する。該当なし。
だが、どこかで見たことがある。あの、ニヒルな笑み。鋭い眼光。
(まさか……いや、嘘だろ)
裕貴の全身に電流が走った。
記憶の彼方にある、一枚の写真。警察学校時代の教官が「伝説」として語っていた男の顔と、目の前の男が合致する。
(た、隆史さんだ……!)
警視庁きっての切れ者。
かつて特殊急襲部隊SATに所属し、数々のテロ未遂事件を未然に防いだエース。そのあまりの優秀さに、刑事部捜査一課と公安部が人事を取り合ったという逸話を持つ、生きる伝説。
裕貴が四年前、合同訓練の遠目に見かけた際、その圧倒的なオーラに震え、密かに目標としてきた人物だ。
だが、彼は数年前に退職したはず。
(なんで伝説の人が、あんなインチキ詐欺師と親しげに話してるんだ?)
隆史は淳史の肩を叩き、何か談笑している。淳史も気を許した様子で笑っている。
混乱する裕貴の脳内で、一つの仮説が組み上がった。
(潜入捜査か……! そうか、やはりイカロスはクロなんだ。隆史さんクラスが動いているってことは、国家規模の詐欺組織解体のための極秘任務!)
だとしたら、俺の任務はどうなる? 警護対象が実は逮捕対象だった場合、俺はどう動くべきだ?
裕貴が思考の迷路に迷い込んだ瞬間、隆史がふと顔を上げ、一直線にこちらを見た。
目が合った。
三十メートルの距離が、ゼロになったような錯覚。
気づかれた。
(まずい!)
裕貴が誤魔化そうと視線を外すよりも早く、隆史は淳史に手を振って別れると、迷いない足取りでこちらへ歩いてきた。
逃げられない。
裕貴は覚悟を決めて直立不動になった。
「お疲れ様。君、SPだよね? 襟元の社章で分かったよ」
目の前に立った隆史は、威圧感とは無縁の、柔らかい笑みを浮かべていた。だが、その観察眼は恐ろしいほどだ。民間人を装うためのカモフラージュ用社章から、一瞬で正体を見抜かれた。
「あ、自分は……!」
「いいよ、名乗らなくて。公務中だろ。俺は隆史。今はここの財団、イカロスで働いてるんだ」
「えっ……ざ、財団で、ですか?」
予想外の言葉に、裕貴は裏返った声を出した。潜入捜査ではないのか。
「ああ。調査部でね。ところで、君は警護課ってことは……亮チンは元気してる?」
「りょ、亮チン……?」
「ああ、課長の亮太だよ。あいつ同期なんだよね。昔から暑苦しい奴だったけど、相変わらず朝礼で吠えてる?」
あの鬼軍曹のような課長を「亮チン」呼ばわり。
裕貴は眩暈を覚えた。この人は、本当に「本物」だ。雲の上の存在だと思っていた二人が、同期の桜だったとは。
「は、はい! 本日も極めて厳正かつ情熱的に吠えておられました!」
「ははは、やっぱりな。よろしく言っといてよ」
隆史は楽しそうに笑うと、ふと表情を引き締め、遠ざかる淳史の背中に視線をやった。
「それからさ。……まだ世間の目は厳しいし、君も半信半疑かもしれないけど」
隆史の声色が、少しだけ低くなった。そこには、現場を知り尽くした男だけが持つ、重厚な響きがあった。
「淳史君の力は本物だ。彼は近い将来、必ず世界を救う男になる。俺はそう確信して、残りの人生をここで彼に尽くすことに決めたんだ」
「世界を、救う……」
「ああ。だから頼んだよ、SPさん。彼は日本の、いや人類の宝だ。君のような優秀な男が守ってくれるなら、俺たちも安心だ」
隆史はそう言うと、裕貴の肩をポンと叩き、ひらりと手を振って去っていった。
残された裕貴は、しばらくその場から動けなかった。
心臓が早鐘を打っていた。
伝説の男が、認めている。
あのパッとしない青年を、「世界を救う男」だと断言した。
そして、自分を「頼んだ」と言った。
(俺は……なんて視野の狭い馬鹿野郎だったんだ)
裕貴の中で、燻っていた不満が消し飛び、代わりに巨大な炎が着火した。
これは左遷でも貧乏くじでもない。
伝説の元刑事と、鬼の課長。二人の傑物が、裏から手を回してまで自分に託した、超重要任務だったのだ。
国家の要人警護? そんなものは霞んで見える。
俺が守るのは、未来の救世主だ。
「りょ、りょ、りょ……了解しましたァァァーーーッ!!」
裕貴は心の中で絶叫し、最敬礼した。
全身の細胞が活性化し、五感が研ぎ澄まされていくのが分かる。
淳史の背中が、さっきまでとは違って見えた。あのか細い背中を守れるのは、世界でただ一人、この俺しかいない。
裕貴は弾かれたように動き出した。
(ゴミ箱、クリア! 不審物なし!)
彼は素早くゴミ箱の中を確認した。
(駐車車両の下、クリア! 爆発物なし!)
地面に這いつくばり、底面をチェックする。
(ビルの隙間、屋上、クリア! 狙撃手なし!)
鋭い視線で空間を制圧する。
すれ違う通行人のカバン、ポケットの膨らみ、視線の動き。全てがスローモーションのように知覚できる。
やる気スイッチが入った裕貴の動きは、もはや過剰なほどだった。
(マル対は、絶対に俺が守る!! 蚊一匹、ウイルス一個たりとも寄せ付けねぇぞ!)
鬼気迫る形相で、しかし誰にも気づかれないよう、裕貴は影となって淳史を追いかけた。
その背中には、日本警察の威信と、空回り気味の情熱が燃え盛っていた。




