第11話 ダブルタッチ
その夜、住宅街の静寂を切り裂いたのは、けたたましいサイレンの音と、夜空を焦がす紅蓮の炎だった。
木造二階建てのアパートが燃えていた。
出火元は一階の一〇二号室。かねてより騒音トラブルで揉めていた一〇一号室の住人と言い争いになり、逆上した一〇二号室の男が火を放ったのだ。身勝手な怒りの代償は、あまりにも大きく、無関係な住民たちを巻き込む惨劇へと発展した。
二階の二〇一号室。
そこに住んでいた恵美は、逃げ遅れた。
妊娠二〇週目。大きくせり出し始めたお腹を抱え、彼女は猛煙の中で意識を失った。消防隊員によって助け出された時、彼女は重度の一酸化炭素中毒により昏睡状態に陥っていた。
仕事中だった夫の健二のもとに連絡が入ったのは、日付が変わる頃だった。
病院へ駆けつけた健二が見たのは、人工呼吸器に繋がれ、ピクリとも動かない妻の姿だった。
「恵美……嘘だろ……」
医師の宣告は無慈悲だった。母体は極めて危険な状態で、低酸素脳症の恐れもある。そして何より、胎内の赤ちゃんの心拍が弱まりつつあるという。
絶望の淵で、健二は震える手でスマートフォンを握りしめた。
公益財団法人「イカロス」。
奇跡の治癒力を持つという組織の抽選枠へ、彼は祈るような思いで応募ボタンを押した。
翌日。
奇跡は起きた。恵美が当選したのだ。
しかし、それは新たな苦悩の幕開けでもあった。
財団本部、大会議室。
重苦しい空気が漂う中、真千子を中心に、医学、法学、倫理学の権威たちが顔を突き合わせていた。
議題は「妊婦へのタッチの可否」について。
前例のないケースだった。
「危険すぎます。施術者の力は、対象を『正常な状態』に戻すものです」
ある医師が口火を切った。
「母体の免疫系にとって、胎児は半分が異物(父親の遺伝子)です。通常は免疫寛容によって守られていますが、タッチが強制的に『母体単体の正常化』を行った場合、胎児を『異物』や『腫瘍』と認識して消滅させてしまう恐れがある」
「いや、そうとは限らない」
別の学者が反論する。
「胎児が指をしゃぶったり、腹を蹴ったりするのは自我の芽生えだ。すでに一つの生命として確立している。タッチの力が『生命』を尊重するなら、消えることはないはずだ」
議論は平行線をたどった。
日本では母体保護法により、条件付きとはいえ人工中絶が認められている。法的には、胎児はまだ「人」ではないとも解釈できる。一方で、海外には強姦による妊娠であっても中絶を違法とし、受精の瞬間から人権を認める国もある。
「命」とは何か。「人」とはいつから始まるのか。
人類が有史以来問い続けてきた難問が、淳史の能力という未知の変数を前にして、具体的なリスクとして立ちはだかったのだ。
「結論が出ませんね」
真千子は冷徹に場をまとめた。
「リスクがある以上、安易にタッチはできません。もしタッチによってお腹の赤ちゃんが消えてしまったら、それは『治療』ではなく『殺人』になりかねない」
結局、財団が出した結論は「待機」だった。
現在の妊娠二十週では、胎児が体外で生存することは不可能だ。しかし、あと二週間。妊娠二十二週を迎えれば、現代医療において「生育限界」のラインを超える。
そこまで母体を延命させ、帝王切開で胎児を取り出した直後に、母体へタッチを行う。それが最も安全で、母子ともに救える可能性が高いプランだった。
健二は、その提案を涙ながらに承諾した。
「待ちます……あと二週間、恵美、頑張ってくれ」
だが、運命は過酷だった。
一週間後。妊娠二十一週目に入った夜のことだった。
恵美の容体が急変した。
多臓器不全の兆候が現れ、血圧が急降下し始めたのだ。主治医からの緊急連絡を受けた健二は、病院の廊下で泣き崩れた。
もはや、一刻の猶予もなかった。二十二週まで待てば、母子ともに死ぬ。
「……助けてください」
健二は、電話口の真千子に絞り出すような声で言った。
「妻だけでも……恵美だけでも、助けてください。子供は……諦めます」
その言葉の裏にどれほどの断腸の思いがあるか、真千子には痛いほど分かった。
真千子は即座に判断を下した。近くの現場に出ていた淳史を拾い、恵美の入院する大学病院へと車を飛ばした。
「淳史、いい? 今回はお母さんだけを治すの」
助手席の淳史に、真千子は言い聞かせた。
「赤ちゃんは……残念だけど、まだ外の世界では生きられない。ご主人の意向も確認済みよ。辛い役回りだけど、割り切りなさい」
淳史は膝の上で拳を握りしめ、無言で頷いた。
だが、その瞳は揺れていた。命の選別。それを自分がしなければならない恐怖。
病院に到着すると、そのまま手術室へと通された。
消毒された術衣に着替え、マスクをつける。
手術室内は戦場のような緊張感に包まれていた。モニターのアラーム音が不規則に鳴り響く。
「カイザー(帝王切開)始めます! 胎児娩出後、直ちに施術者様の処置をお願いします!」
執刀医の怒号と共に、メスが走る。
淳史は手術台の脇で、恵美の蒼白な顔を見つめていた。酸素マスクの下の唇は紫色に変色し、今にも命の灯火が消えそうだった。
そして。
「胎児、出ます!」
子宮から取り出されたのは、あまりにも小さな命だった。
体重わずか六〇〇グラム。大人の掌に乗るほどの大きさ。
皮膚は赤黒く透き通り、未熟な肺は自力で呼吸することすらままならない。
産声はなかった。
「心拍微弱! 自発呼吸なし!」
「蘇生急げ! ……くそッ、小さすぎる!」
小児科医たちが小さな体を取り囲み、必死の処置を始める。だが、モニターの数値は無情に低下していく。
一方で、母体の恵美も限界を迎えていた。出血が止まらない。
「血圧低下! 淳史さん、早く! お母さんを!」
医師に促され、淳史は恵美の肩に手を伸ばした。
触れれば、彼女は助かる。
だが、その視線の端には、隣の処置台で消えかけている小さな命が映っていた。
夫は言った。「子供は諦める」と。
医学も言った。「まだ生きられない」と。
でも。
(本当に、それでいいのか?)
淳史の中で、何かが叫んだ。
動物園で見た、死を予期した老ゾウの姿が脳裏をよぎる。あの時、自分は手出しをしなかった。それは「自然な死」だったからだ。
だが、これは違う。
これは理不尽な暴力による、望まれない死だ。
生きようとしている。この小さな心臓は、必死に動こうとしている。
淳史は動いた。
医師たちの予想を裏切り、彼は両手を広げた。
「淳史、何を……!」
手術室のガラス越しに見守っていた真千子が声を上げる。
淳史は、右手で母・恵美の肩を。
そして左手で、処置台の上の赤ちゃんの小さな胸を。
同時に掴んだ。
「だめだっ! 二人同時なんて、お前の体が保たない!」
真千子の制止も構わず、淳史は強く念じた。
治れ。生きろ。二人ともだ。
誰かが勝手に決めた境界線なんて関係ない。ここにあるのは、二つの命だ。
――ダブルタッチ。
その瞬間、淳史の体を強烈な衝撃が貫いた。
まるで全身の血液を一瞬で抜き取られたかのような、凄まじい脱力感。視界が白く飛び、耳鳴りがキーンと響く。
一人を治す時の倍ではない。二乗にも感じる負荷が、彼の体力を根こそぎ削り取っていく。
膝が笑い、意識が飛びそうになる。
それでも、淳史は手を離さなかった。
ドクン。
ドクン。
掌の下で、二つの鼓動が力強く響き始めたのを感じた。
「……あ、ぐ……ぅ……」
限界だった。淳史は糸が切れたように崩れ落ち、尻餅をついた。
荒い息を吐きながら顔を上げると、信じられない光景が広がっていた。
母体の出血は止まり、モニターの波形が正常値に戻っていく。
そして。
「……オギャァ! オギャァ!」
手術室に、力強い産声が響き渡った。
六〇〇グラムの命が、世界に対して高らかに生存を宣言していた。
「馬鹿な……呼吸器もなしに、この週数で……」
「皮膚も、肺も、完全に形成されている……! 奇跡だ!」
医師たちが歓声を上げる中、麻酔から覚めた恵美がうっすらと目を開けた。
ガラス越しの待合室で、夫の健二が顔を覆って泣き崩れているのが見えた。それは悲しみの涙ではなく、圧倒的な歓喜と安堵の涙だった。
淳史は床に座り込んだまま、汗だくの顔で天井を仰いだ。
鉛のように重い体。指一本動かすのも億劫だ。
だが、その疲労感こそが、答えだった。
(重い……)
二人分だ。
お母さんと、赤ちゃん。
もし赤ちゃんが「異物」や「細胞の塊」に過ぎないのなら、ここまで疲れるはずがない。
この疲労は、あの子が一人の人間としてカウントされた証。
命として認められた証拠だ。
保育器へと運ばれていく小さな命を見送りながら、淳史は心地よい気絶へと身を委ねた。
議論は終わった。
命の線引きをしたのは学者でも法律でもない。
ただ、生きようとする意志そのものだったのだ。




