第10話 尊敬と畏敬の念
財団設立から三年という月日が流れていた。
世界は「イカロス」の存在に熱狂し、あるいは畏怖し、その渦中にいる謎の人物の淳史は「現代の聖人」として祭り上げられていた。
だが、今の彼にとって、その称号は重苦しい鎧でしかなかった。
とある日曜日の午後。
淳史は変装用の伊達眼鏡と帽子を目深にかぶり、都内にある動物園を訪れていた。休日を利用してこの場所に来るのが、ここ数年の彼の密かな習慣になっていた。
園内の喧騒を抜け、彼が向かったのは「動物ふれあい広場」だ。
柵の中に入ると、毛艶の悪いヤギや、少し元気のないカピパラが、淳史の姿を認めるなり一斉に顔を上げた。
彼らは言葉を持たない。金銭も名誉も求めない。ただ純粋な「生」としてそこに在る。
淳史はしゃがみ込み、足元にすり寄ってきた老いたヤギの背中を、誰にも気づかれないようにそっと撫でた。掌から温かな光が微かに漏れ、老ヤギの濁っていた瞳に生気が宿る。
「……よかったな。もう少し長生きしろよ」
人知れず行う、小さな奇跡。
いつしか動物たちは、淳史が発する特有の気配や匂いを感じ取り、彼が広場に入っただけで尻尾を振って集まってくるようになっていた。人間社会の複雑な欲望に疲れ果てた淳史にとって、この無償の愛と信頼だけが、渇いた心を潤す唯一の聖域だった。
「今日は一段とモテモテだねぇ、淳史くん」
聞き馴染みのある、穏やかな声が降ってきた。
顔を上げると、作業着姿のベテラン飼育員、文世が目を細めて立っていた。白髪交じりの髪を後ろで束ね、目尻に深い笑い皺を刻んだ彼は、この動物園の古株であり、動物たちの父親のような存在だ。
そして、淳史の「秘密」に気づいている数少ない部外者でもあった。
「文世さん……こんにちは」
「はい、こんにちは。そのヤギのおじいちゃん、今朝までは食欲がなくて心配してたんだけど、君が来てくれたならもう安心だわ」
文世は淳史の能力を目の当たりにしても、騒ぎ立てることもなければ、特別扱いもしなかった。ただ「動物好きな常連さん」として接し、秘密をその胸の内にしまってくれている。
数多くの命の誕生と死を見届けてきた彼の瞳には、超常的な力さえも自然の一部として受け入れる、深い叡智が宿っているように見えた。淳史が彼に対して、尊敬と畏敬の念を抱くのに時間はかからなかった。
「少し、園内を回りましょうか」
文世に促され、淳史はふれあい広場を後にした。
並んで歩く時間は心地よかった。彼が語る動物たちの生態や、それぞれの個体が持つドラマは、どんな小説よりも淳史の興味を惹いた。
ふと、アジアゾウの展示スペースの前で足が止まった。
巨大な老ゾウが、展示場の奥まった場所でじっと動かずに立っていた。その皮膚は乾いた土のようにひび割れ、呼吸をするたびに巨大な体が辛そうに揺れている。
生命の灯火が消えかかっていることは、素人の淳史の目にも明らかだった。
「……あの子、苦しそうですね」
「ええ。もう六〇歳になるお婆ちゃんゾウ。大往生だね」
「治しましょうか? 僕なら、また元気に歩けるようにしてあげられます」
淳史は迷わず提案した。痛みを取り除き、生力を注ぎ込むこと。それが自分の役割であり、正義だと信じていたからだ。
しかし、文世は静かに首を横に振った。
「いいんだよ、淳史くん。その必要はない」
「どうしてですか? まだ助けられます」
「あの子自身がね、もう十分生きたと悟っているんだ。それに見てごらん」
文世が指差した先には、老ゾウを取り囲むようにして立つ、二頭の若いゾウの姿があった。彼らは長い鼻を老ゾウの体に優しく絡ませ、低く唸るような音を立てていた。
「家族や仲間たちも、別れを感じ取っている。鼻をすり合わせて、今までの感謝とお別れの言葉を言い合っている最中なんだよ。これはとても神聖な時間だ。私たちが土足で踏み込んで、無理やり時計の針を戻していいものじゃない」
淳史は言葉を失った。
死は忌むべき敗北であり、遠ざけるべき恐怖だと思っていた。だが、文世の目を通して見るその光景は、厳かで、どこか温かい「完了」の儀式に見えた。
命には、長さだけではない尊厳がある。
治すことが常に正しいとは限らない。その事実は、万能の力を持つ淳史の心に、小さくも鋭い楔を打ち込んだ。
「……わかりました。邪魔をしてごめんなさい」
「いいんだ。君の優しさは、ちゃんとあの子にも届いているはずだから」
文世は淳史の肩をぽん、と叩いた。
しんみりとした空気を変えるように、彼は少し明るい声を出した。
「さて、気を取り直して。ちょっと手伝ってくれないかい? あそこのベンチ、脚がガタついてて危ないんだ。私が道具を取ってくるから、修理の間、誰も座らないように見ててほしいんだ」
「あ、はい。それくらいならお安い御用です」
淳史は老ゾウに一礼してから、指定された木製ベンチへ向かった。
文世は「修理中」と書かれた貼り紙を背もたれに貼り付けると、道具を取りにバックヤードへと走っていった。
淳史がベンチの脇に立ち、番人を始めて数分もしないうちだった。
一人の派手な服装をした中年女性が、不機嫌そうな顔で歩いてきた。ハイヒールを引きずり、手にはブランド物のバッグを抱えている。
「あー、疲れた。最悪よ、こんなに歩かされるなんて」
女性は独り言を吐き捨てると、淳史の制止も聞かずに、そのベンチへと向かった。
「あっ、すみません! そこは今、壊れていて……」
「はあ? ちょっと休むだけよ。五月蝿いわね」
女性は淳史を無視し、貼り紙すら目に入っていない様子で、ドスンと勢いよく腰を下ろした。
バキッ!
乾いた破断音が響いた。
腐りかけていたベンチの脚が、衝撃に耐えきれず折れたのだ。
女性はバランスを崩し、無様な格好で地面に転がり落ちた。
「キャァァッ!」
「大丈夫ですか!?」
淳史が駆け寄る。女性は顔を歪め、足首を押さえてうずくまった。
「い、痛い……! 何よこれ! どうなってんのよ!」
「だから言ったじゃないですか、壊れてるって……」
「なんですって!? 客に向かって口答えする気!?」
女性がヒステリックに叫び出したところに、工具箱を持った文世が息を切らして戻ってきた。
「どうしました!? お怪我は!」
「ちょっとあんた! ここの責任者!? どういう管理してんのよ! 足首挫いたじゃない! 骨が折れてたらどうしてくれるの!?」
女性の怒りの矛先は、即座に文世へと向いた。文世は青ざめ、平身低頭して謝罪する。
「申し訳ございません! すぐに救護室へ……」
「ふざけないでよ! 訴えてやるわ! 慰謝料請求してやるから覚悟しなさい!」
女性の罵声が園内に響き渡る。周りの客も何事かと足を止め始めた。
理不尽だった。
警告を無視して座ったのはこの女性だ。それなのに、文世が責められ、動物園が悪者にされようとしている。
淳史の胸の奥で、静かな怒りが湧き上がった。
そして同時に、ある決意が固まった。
姉との約束。「プライベートでは絶対にタッチをしてはいけない」。
だが、今ここでこの女性の痛みが消えれば、文世を守れる。
淳史は周囲を見回した。野次馬の視線は女性と文世に集中している。
今ならいける。
「……お客様、足を見せていただけますか」
「触らないでよ! 痛いんだから!」
「失礼します」
淳史は女性が暴れる隙を突き、後ろへ回り込むような体勢で、彼女の足首を一瞬だけ強く握った。
とっさの判断だったが、イメージは鮮明だった。
損傷した靭帯を繋ぎ、炎症を鎮め、痛覚信号を遮断する。
一秒にも満たない早業。
「っ……離しなさいよ!」
女性が淳史の手を振り払って立ち上がろうとした、その時だった。
彼女の動きが止まった。
恐る恐る体重をかけてみる。痛くない。腫れも引いている。むしろ、さっきまで歩き疲れてパンパンだったふくらはぎの疲労さえ消えていた。
「え……? あれ?」
女性は狐につままれたような顔で、自分の足を何度も踏み鳴らした。
痛みがない以上、これ以上騒ぎ立てる材料がない。
文世も、周囲の野次馬も、呆気にとられて彼女を見ている。
「な、なによ……大したことなかったみたいじゃない。人騒がせなベンチね!」
女性は顔を真っ赤にし、ばつが悪そうに捨て台詞を吐くと、逃げるようにその場を立ち去っていった。
嵐が去った後のような静寂が戻る。
「……ふぅ」
淳史が小さく息を吐くと、文世がじっとこちらを見ていた。その目は、すべてを見透かしていた。
「淳史くん。……ありがとうね」
「え? 何のことですか? 僕は何も」
「ふふ、そういうことにしておこうか」
文世は優しく微笑むと、散らばったベンチの破片を拾い始めた。
「さあ、まずはこれを片付けて、新しいベンチを作ろうか」
「はい、手伝います」
二人は並んで作業を始めた。その背中には、言葉以上の信頼関係が流れていた。
翌日。
財団の理事長室で、淳史は真千子の前に立っていた。
昨日の出来事を、包み隠さず報告したのだ。約束を破ったことへの罪悪感が、彼を正直にさせていた。
「……というわけで、勝手にタッチをしてしまいました。ごめんなさい」
淳史が頭を下げると、真千子は深いため息をついた。
「まったく……。あれほど言ったでしょ? もし誰かに見られて、動画でも撮られてたらどうするつもりだったの? リスク管理がなってないわ」
厳しい口調で叱責する真千子。
だが、うなだれる弟を見つめるその瞳の奥には、微かな光が宿っていた。
今まで、言われるがまま、流されるがままに生きてきた淳史が、初めて自分の意志で「力」を行使したのだ。それも、自分の利益のためではなく、大切な人を守るために。
姉として、そして彼の保護者として、その成長が嬉しくないはずがなかった。
「……まあ、今回は相手が大ごとにせずに済んだから、不問にするわ。でも次は無いと思いなさい」
「はい。すみません」
「それと、その飼育員さんには、あとでお菓子でも送っておきなさい。あなたの我儘に付き合ってくれたお礼としてね」
真千子は口元の緩みを隠すように、手元の書類に視線を落とした。
淳史は顔を上げ、「はい!」と少し弾んだ声で返事をした。
窓の外には、今日もどこまでも広がる青空があった。
イカロスの翼は、少しずつだが、確かに強くなっている。真千子はそう感じていた。




