表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

55/57

希望の箱舟

 箱舟が王都に近づくと、森や林の木々が立ち枯れ、畑は荒れ果てている様子が空から分かりました。でもその範囲はごく限られており、瘴気の被害は王都のごく周辺に限られているようでした。


 風の力が解け、大空を運ばれてきた穀物を満載した「箱舟」が、王宮前の広場に、そっと、羽根を畳むように降り立ちました。


 飢餓の塵が舞う広場は、一瞬にして静寂に包まれ、やがて潮が満ちていくように、ざわめきが大きくなります。城門の奥から飛び出してきた守備兵たちは、得体の知れない空の船に弓を構えたのですが、箱舟の縁に立つ少女の姿を見て、その動きを止めました。


 ソフィアは、衣を翻し、澄んだ声を張り上げます。


「フレイザー領からの救援物資を、ビクトリア妃殿下に届けに来た。ソフィア・フレイザーである。取り次ぎを願います」


 その声は、広場に集まり始めた、飢えた群衆の耳にも届きました。皆の顔に、諦めと不安の代わりに、かすかな光が灯ります。 聖女ソフィア。彼女が、空から、食料を運んできてくれたのだと。


 やがて、近衛兵を従え、ビクトリア妃とセドリック王子が広場へと姿を現しました。 ビクトリアは、妹の姿を一目見るや、貴族の矜持も忘れて駆け寄り、ソフィアを強く抱きしめました。その抱擁は、物資を受け取る儀式ではなく、ただ互いの無事を喜び合う、姉妹の温もりでありました。


「お姉さま」


 ソフィアは、箱舟に積まれた穀物の袋と、伯爵からの厳封された手紙を、ビクトリアに手渡しました。


「お父様からお姉さまへの救援物資よ。王宮の判断ではなく、お姉さまが自由に使って。そして……」


 ソフィアは、真剣な眼差しで、すぐ隣に佇むセドリック王子に向き直りました。


「セドリック殿下。殿下にも、父、フレイザー伯爵からの書状を預かって参りましたので、お受け取り下さい」


 厳重に蝋で封じられた書状を、セドリックはやや緊張した面持ちで受け取りました。ソフィアはさらに付け加えます。


「これは先陣。キャラバンの本隊は、おおよそ三週間後に王都に到着の見込みです」


 群衆の歓呼の声は、その時、広場の熱気と共に最高潮に達しました。彼らは、空から降りた希望の船から、今すぐ穀物が分け与えられるのだと信じて、手を伸ばしました。


 その熱狂の光の中へ、一つの冷たい影が割って入りました。


「待て!! その穀物に触れてはならん!」


 それはサザーランド公爵の息子、王子の側近のサイモンでした。 彼は近衛兵を引き連れ、ソフィアたちの前に立ちはだかりました。だが、彼は剣を抜くのではなく、あえて「法」と「秩序」を武器にしたのです。


「ソフィア嬢。貴女は、この飢えた民衆の中で、無秩序に食料をばら撒くつもりか? それが何を引き起こすか、想像できないわけではあるまい」


「それは…どういうことですか」


「奪い合いだ。力の強い者が弱い者から奪い、暴動が起き、死人が出る。貴女の偽善的な行いは、王都を血の海にするだけだと言っているのだ!」


 サイモンは、民衆に向き直り、両手を広げて演説を始めました。


「王宮は、全ての民に『公平』に行き渡るよう、厳重に管理しなければいけないのだ! また、どこの馬の骨とも知れぬ穀物だ、毒が入っていないとも限らん。検閲と管理は、王都を預かる我々の義務だ!」


「毒など入っていません!」


 ソフィアが抗議しますが、サイモンは鼻で笑います。


「証明できるのか? 万が一があれば、誰が責任を取る? ……さあ、衛兵たちよ。民の『安全』を守るため、直ちに物資を城内の倉庫へ運び込め!」


 民衆は、「暴動」や「毒」という言葉に不安を煽られ、手を引っ込めてしまいました。 サイモンは、ソフィアたちが反論できない「正論」を盾に、堂々と、そして合法的に、目の前で希望の品々を強奪していってしまいました。


 すれ違いざま、サイモンはソフィアにだけ聞こえる声で、冷ややかに囁きました。


「政治を知らぬ小娘が。……感謝するぞ、フレイザー家の備蓄を、わざわざ我が手元まで運んでくれて」


 彼は冷たい笑みを貼り付けたまま、箱舟がもたらした「希望の重み」を、いかに自身の計画のために利用し直すか、素早く算段を立て始めました。彼の胸の奥で、王位簒奪という名の、新たな陰謀の芽が、着実に根を広げつつありました。


 広場に運び込まれた穀物の袋は、サイモンの思惑通り、まず王宮の食糧庫を満たすために使われました。 飢餓を恐れる王族と貴族たちの口に入る量をまず確保し、備蓄を整えることが、彼らにとっては最優先でありました。 そして、その残り。群衆の期待を一身に背負っていた空飛ぶ「箱舟」の中身は、民衆に配給されたときには、彼らが広場で目を輝かせながら想像していた量の、三分の一にも満たなかったのです。


 それでも、人々は怒りませんでした。 彼らは、自らが持ってきた擦り切れた袋や、歪んだ鍋や壺に、分け与えられた僅かな穀物を入れ、まるで宝物のように抱きかかえて、静かに家路につきました。 その顔は、満たされなかった量への不満ではなく、「何もない」という絶望から、「何かがある」という安堵へと、かすかに変化していました。そして、彼らの記憶には、この物資が、王宮ではなく、「ソフィア様」によって、空から運ばれてきたという事実だけが、鮮明に残されていました。


 王宮も、食糧庫がいくらか満たされたことで、民への体面を保つため、薄い粥を煮立て、広場で振る舞うようになりました。しかし、その粥の匂いさえ、人々にとっては「ソフィア様が運んでくれた穀物のおかげ」という、聖女への感謝の記憶と結びついていました。


 空になった箱舟は、もはやその役目を終え、王都を離れる時を迎えていました。


 ソフィアは、風の精霊たちに感謝の言葉を囁きながら、一人分の魔力で箱舟を再び宙に浮かせました。帰りの旅路は、往きとは違い、ただ静かな風に抱かれているようでありました。 師ゼフィーリアは、箱舟の隅に寝そべり、くつろいだ様子でいました。


「楽をさせてもらうよ」


 そう言って、ゼフィーリアは軽く目を閉じていましたが、ふいに、彼女らしい率直さで、ソフィアに問いを投げかけました。


「ソフィア。お前は、この旅で、何をしたかったのだ。そして、何になりたいのだ」


 その問いは、風の音よりも静かでしたが、ソフィアの胸の奥深くを、鋭く穿ちました。


 魔王との対峙から、王都の飢餓を目の当たりにするまで、ソフィアは立ち止まることを知りませんでした。ただ、「為すべきこと」があると信じて、目の前の危機に、反射的に、全力で突っ走ってきただけです。故郷の父から託された重い書状も、チャールズの悲痛な願いも、全てを背負って進むことに必死だったのです。


 チャールズと一緒になりたいという強い気持ちは、確かにありました。だが、その先はどうか。何のために、チャールズと同じ道を歩んでいきたいのか。救世主として? 彼の妃として? それとも、ただ一人の女性として?


 空を流れる雲を眺めながら、ソフィアは、魔王が消えた後で初めて、自分の心の隙間に気がつきました。


「わたしは……」


 ソフィアは空を見上げました。そこには、まだ微かに瘴気の名残を含んだ雲が流れていました。 チャールズは王位を捨ててまで、剣一本でこの国を守ろうとしています。ならば、自分はどうあるべきか。


 ソフィアは、きっぱりと顔を上げ、師を見据えました。


「私は、この王国の『盾』になりたいのです」


「盾、だと?」


「はい。チャールズ様が剣となって悪を断つのなら、私は風と光で、彼が背負うすべての重荷を受け止める盾になります。もう、誰の犠牲も出したくない。そのために、神様はこの力を私に与えてくれたのだと思います」


 その瞳には、かつての迷える少女の影はありませんでした。 ゼフィーリアは、満足げに鼻を鳴らしました。


「大きく出たねえ。国の盾か。……だが、風の精霊に愛されたお前なら、あるいは空そのものが盾になるかもしれないな」


 師の言葉は、ソフィアの決意に対する、何よりの承認でした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ