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出発

 突貫作業は、まるで戦場を思わせる熱気の中で進められました。 大工たちが、休息もそこそこに槌を振るい続け、三日ほどで、木材と縄で組み上げられた巨大な「箱舟」が、伯爵邸の裏庭に姿を現しました。

 その姿といえば下半分は、艀そのもの。その上に大きな箱状の構造をつけ足してあります。湖に浮かべる小舟とは比べ物にならないほど大きなものでありました。


 領地の各地からも、キャラバン隊に供出されるはずの穀物が、続々と集まり始めていました。荷馬車が着くたびに、穀物袋はまず、この急ごしらえの箱舟へと、次々に積み込まれていきました。


 箱舟のサイズを目の当たりにしたソフィアは、不安を感じずにはいられませんでした。


「運べるかしら……」


 自分の魔法の力を信じていながらも、眼前にある「重さ」と「大きさ」は、彼女の心にさざ波を立てました。


 その不安を打ち消すように、師匠のゼフィーリアが、静かにソフィアの傍らに現れました。彼女の姿は、太陽の光を浴びた風のように、掴みどころがありません。


「この程度なら大丈夫だよ、ソフィア。何だったら、ソフィア一人でも運べそうだ」


 ゼフィーリアは、まるで子供に教え諭すように言いました。


「風の精霊の力を見くびってはいけない。彼らは、王都を救いたいという君たちの純粋な願いを、その身に受けているのだから」


 師の言葉は、ソフィアに確信を与えました。彼女の魔力だけでなく、精霊たちの「意思」が、この重い船を空に浮かばせるのです。


 やがて、箱舟への穀物袋の積込が終わり、出発の準備が整いました。 伯爵は、ソフィアを応接間に呼び、二通の厳重に封が施された書状を、彼女の手に託しました。


「ソフィア。これを、ビクトリア殿とセドリック殿にお渡ししなさい」


 一通は、ビクトリア妃宛てでした。


『王都の窮状を聞き、親として心より心配している。わずかばかりではあるが食料を送るゆえ、ビクトリアとセドリック殿がひもじい思いをしない様に活用してくれ』


 それは、父から娘へ、そして王家への、あくまで「私的な見舞い」という形をとっていました。


 そしてもう一通は、セドリック王子宛て。こちらの文面は、公的な、しかし厳しさを帯びたものでした。


『フレイザー伯爵領の備蓄穀物を届けるので、王都の民の食料に充てて欲しい。ソフィアに運ばせるのはごく一部で、馬車によるキャラバン隊で三週間後くらいに、十分な量が届くから。それまで王都を持たせるのが、王都を預かる者の使命だ』


 書状には、キャラバンの護衛として、「チャールズという者を付ける」とも書き添えられていました。


 伯爵は、ソフィアに、王家への忠誠心と、王としての責任という、二つの重い荷を託したのでした。この二通の書状こそ、チャールズと伯爵が、緻密に練り上げた仕掛けでした。


 ソフィアは、その書状の重みを両手で感じながら、箱舟の上へと静かに身を乗せました。隣には、風の精霊を束ねる師ゼフィーリアの、凛とした姿がありました。


 ソフィアは深く息を吸い込みました。


「風の精霊よ、我とこの箱舟を王宮の中庭まで運んでおくれ」


 彼女の願いは、言葉の形を保たぬまま、大地の底から天の高みまで届きました。柔らかな、しかし揺るぎない風の力が、箱舟の底をそっと掬い上げます。


 箱舟が地上を離れる瞬間、巨大な木組は一瞬悲鳴を上げ、ソフィアが体を硬くこわばらせる瞬間がありました。しかし、ゼフィーリアが難なくサポートし、箱舟はその質量を失ったかのように軽々と宙に浮かび上がりました。 そして、静かに、矢のように速く、遠い王都の光と影が渦巻く一点目掛けて飛翔しました。


 眼下に広がるフレイザー領の緑が、瞬く間に後ろになります。ソフィアは風の揺りかごの中で、王都の飢えのざわめきに打ち勝つことを誓い、風の精霊たちの歌声に耳を澄ませました。


 ソフィアが空の旅路についた後、伯爵とチャールズは、大地に残されたもう一つの戦いに向き合っていました。馬車によるキャラバン隊の出発の刻限が迫っているのです。


 伯爵は、王都の民の命を繋ぐために、この行軍の成否が何より重要であることを知っていました。彼らが送るのは、ソフィアが運んだごく一部ではない。「三週間くらい後に届く、十分な量」の穀物でした。


 それは、生易しい旅ではないと思われました。 伯爵もチャールズも、道中での盗賊の襲撃を想定しました。そして、王都で穀物買占めを主導しているであろう、サザーランド領の手の者による、周到な「妨害」も。


 チャールズは、自ら護衛としてキャラバン隊に加わることを伯爵に願い出ていました。彼は、勘当された身でありながらも、王位の重圧から解き放たれた「救国の務め」に、魂を捧げようとしていました。


 穀物を積んだ馬車の他に、三週間に及ぶ往復の道程、六週間分の食糧を積んだ馬車が加えられました。それは、すべてを自給自足で賄い、一切の横槍や妨害を断ち切るという、チャールズと伯爵の固い決意の表れでありました。


「皆、覚悟はよいか!」


 チャールズの深い声が、出発前の喧騒を鎮めました。彼の眼差しは鋭く、その背中には、彼自身の矜持と、ソフィアから託された希望が宿っています。


「出発だ!」


 その号令とともに、車輪が軋みを上げながら、大地を踏みしめて動き出しました。 長く、厳しい戦いの旅が、今、始まりました。それは、空を飛ぶ箱舟と、大地を駆けるキャラバン隊という、二つの希望の矢が王都目掛けて放たれた瞬間でありました。


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